民主党偽メイル騒動顛末

 さて、民主党のスカ加減を満天下にこの上なくわかりやすく示すことになった、先のあの偽メール騒動というのは、いったい何だったのか。もう一度ざっと振り返っておきたい。

 発端は、西澤孝という業界でも札つきの虚言癖を持つ自称ジャーナリストが持ち回った電子メール、である。とは言え、実際にはコピーをとったものと称する紙切れ一枚だったようなのだが、それが去年の総選挙時に、自民党武部幹事長筋から“ホリエモン堀江貴文へと提供されたカネの流れを証明するもの、というふれこみ。それに永田寿康がひっかかり、さらには野田国対委員長、前原代表まできれいに騙された、というのが大方の顛末である。

 

f:id:king-biscuit:20220106125825j:plain

 

 堀江、および彼のライブドア自民党とのつながりについては、それまでもささやかれてはいた。特に、選挙の時の武部幹事長の肩入れ具合はメディアでもずっと伝えられていたし、ライブドアそのものにまつわる「カネ」のイメージからしても、真偽はともかく、何かつながりがあるのでは、と思ってしまうのは、別にマスコミ関係者ならずともある意味では自然だった。前提となっているのは相も変わらぬ陰謀史観ではあるにせよ、権力=カネ、という古典的図式の誘惑はそれほどまでに強烈だったし、何よりもあの堀江というキャラの際だち具合は、一昨年から去年くらいにかけてその最大限にまで達していた。

 しかし、そのような図式任せの陰謀史観を必要以上に肥大させ、そんな疑惑を裏づけるだけの物証はきっとあるはずだ、ほうら、ここにあった、と一気に短絡してしまうのは、また別のビョーキである。M資金の類と同じ、陰謀史観に「自分にだけはそういう“真実”が訪れるはず」という自意識過剰が複合した場合に発症する難儀。しかもそれが公党の幹部ぐるみできれいにはまった、というあたりの情けなさ、スカ加減が騒動の勘どころ、ではあった。実際、そこまで行くまでに誰かたしなめるやつはいなかったのか、と思ってしまうのだが、なにしろ組織の態をなしていない「個人」主義の牙城のこと、そんなセキュリティシステムはどうも作動しなかったらしいのだ。

 西澤の手口は、お手盛りで創刊した雑誌の取材という形で接近して、民主党の若手議員を持ち上げる特集を組む、というものだった。で、それをまとまった部数買い取らせることで利益を出すという、昔ながらの総会屋系のシノギなわけで、それ自体は別に目新しいものでも何でもない。あの騒動を批判するもの言いは山ほどあったし、いやしくも野党第一党を標榜する公党として、その脇の甘さ、セキュリティ感覚の欠如のすさまじさというのはもちろん批判されるべきである。前原代表、野田幹事長、そしてあの永田議員という騒動のトライアングルは、いったいどのような共通感覚が紐帯になっていて、彼らの間に、そして原口以下、にわかにわいて出た党内応援団も含めて、どのような共同幻想を抱けるようになっていたのか、その意味では正しく精神医学的な問題でもあったりする。その意味で、未だ野放しで問われるべきことは、あの雑誌の特集における国会議員の取り上げられ方であり、そのような取り上げられ方にホイホイ乗っかっていってしまった民主党若手議員のココロのありよう、である。

 ひらたく言う。あんなわかりやすいベタなヨイショ企画をどうしてあんたらうさんくさいと感じなかったのか、いや、それどころか自ら喜んでホイホイ乗っかってしまって、どうして恥ずかしいと思わなかったのか、という、まさにそのへんのことが問われるべきなのだ。

 『Dumont』というその雑誌、小金持ちの俗物相手というコンセプトで「勝ち組」御用達仕様で、今はなつかしバブル期テイストさえそこはかとなく漂うトホホ具合。コテコテの与党議員、誰が見ても俗物キャラの御仁ならいざ知らず、最大野党で庶民の味方、弱者の応援団を自認していたはずの民主党の議員サマとしては、セルフイメージの演出の仕方としてまずいかがなものか、と思うのが普通のはず。まずそのへんの政治感覚からしてズレていると言わざるを得ない。 ユニークなワタシ、他とは違う自分、という「個人」主義の呪いが、ここでも災いしている。政治や政治家、代議士、というものは、利権のかたまりであり、利益誘導の権化である、というイメージがまず前提にあって、でも民主党の、それも若手議員というのはそういう古典的なオヤジ代議士イメージとはもう違うんですよ、と思われたい、そういう煩悩がまさに命取りになった。そのことの意味の大きさ、根深さを、世間は未だによくわかっていない。

 

f:id:king-biscuit:20060306094602j:plain

 

 別な角度から言えばそれは、昨今の「ちょいワルオヤジ」のみっともなさにも近い。ワタシはそんなオヤジなんかじゃないんですよ、と言いたがるのはともかく、その否定のベクトルというかモメントが、これまた同じくらいに恥ずかしい「不良」だの「カジュアル」だの一辺倒。オヤジでないこと、を表現するに際して、ならばなぜ、どうしてそのような「若者」「カジュアル」といった領域の属性ばかりを強調するような方向しか見いだせないままなのか、問題はそこである。

 民主党議員の公式サイトにはまるで申し合わせたように「自分史」が記載されている。いや、それもただ記載されているだけでなく、異様なまでにディテールが詳しく、ご本尊のリキが入りまくっているのが傍目にも明らか。どういう子供だったか、中学の部活でどうだったか、サークル活動で何をやったか、そんなことはこちとらひとまず知ったこっちゃないし、興味もない。ましてや、家族構成から連れ合いとのなれそめ、どうかしたら子供を連れてどこに行った、どんなメシを食った、といったどうでもいい団らん具合までをうっとりとブログで公開してたりするとなると、あんたらここまでプライバシーを自ら好んでだだ漏れにしておいて、いったいどの口で個人情報保護とか能書き垂れるんだ、と言いたくなる。議員でありながら良きパパ、ないしは家庭人であり、同時にいわゆるオヤジとは違う、こんなにものわかりのいいステキなオトナ、というセルフイメージの演出があらかじめプログラムされている、そんな違和感。ちなみに、今言っていることは男性議員を念頭に置いているが、女性議員になるとさらに別系統のビョーキも複合しているので念のため。

 思えば、河村たかしが好んで使っているキャッチコピー「気さくな57歳」というのも同系統だが、しかし敢えて擁護すれば、そこまでベタだとかえって何か別の趣きというやつも出てこないでもない。永田以下、偽メイル騒動に巻き込まれた若手議員の自意識のもだえ具合のやりきれなさは、そんなベタなオヤジぶりのトホホ具合とはまた少し別の、もっとどんよりとした手ざわりの代物なのだ。大衆への媚び、それこそポピュリズムというのなら、これぞまさにそのもの、と言わざるを得ないようなものだが、そういう自覚はどうやらほとんど持ち合わせていないのがいまどきの民主党議員というものらしい。

 偽メール騒動の発火点になった民主党秘書がこんなことを言っていた。うちの党はほんとに組織という感覚が薄いところなんですよ。言わば個人商店主の集まりで、お互いにふだんどんなことをやっているのか、実は先生(議員)同士もほとんど知らなかったりするんです――そんなことをまあ、淡々と。別に恥ずかしいこととも思っていないようだった。でも、それってもう組織じゃないじゃん。政党である自分たちがどういう意志決定をして、どういう舵取りをしてゆこうとしているのか、そういうコンセンサスをとるための仕組みが機能していず、そのことをあまり気にもしていなさそうなこの

 政治とは、少なくとも民主主義社会における政治とは、組織によってしかまっとうに動きにくいような成り立ちと来歴を持っているらしい。おそらくそれは、一朝一夕に崩れたり変わってしまえるようなものでは良くも悪くも、ない。それはわれわれの政治にあらかじめ与えられている初期設定、デフォルトの仕様、というやつらしいのだ。

 なのに、自意識としてはそれらからすでに勝手に遠く、ユニークで突出したかけがえのない「個人」として政治に関わっていると思ったまま、現実に政治が動いている、その動きを担保している仕掛けやからくりに対してほとんど無自覚なままどころか、そのようなメカニズム自体を勝手に超越してしまっているかのような認識でいて、しかしやはり現実はこれまでの政治のからくりの上にしか現出できない、という股裂き状況の宙ぶらりん。ごくおおざっぱに言って、民主党の若手議員の自意識の輪郭とは、およそこんなものなのだろう。

 何も民主党だけでもなく、ある世代以下の議員一般、いや、おそらくは何も議員に限ったことでもないはずで、たとえば役所や大企業、病院や大学など「組織」に属するいわゆる「若手」の自意識の最大公約数は、こういう輪郭に収斂してゆくようなものになっているはずだ。

 かくて、あの偽メイル騒動が奇しくもあぶり出し“あらかじめ隠されていた同時代の問い”とは、組織との関係で自らなだめて鎮めてゆく知恵を失ってしまったままもだえ、浮遊している肥大した「個人」という意識の不幸、だったりする。「エリート」とまで言わずとも、一応はそれこそ「勝ち組」の属性を備えていたりすればなおのこと、その不幸はいっそう際だって表出される。

 どうして国会議員ともあろうものがあんなチンケな詐欺にきれいに騙されてしまったのか、という素朴な疑問に対する答えは、いまどきの国会議員、それも最大野党民主党だったからこそあそこまでわかりやすく騙されたのだ、という補助線を引いてみて初めて見えてくるようなもの、だったりするらしい。もちろんそれは、与党自民党だったら大丈夫、ということでは断じてないこと、もう改めて言うまでもない。