嫌韓厨を諭す知恵

 嫌韓厨が新たな朝鮮人差別を助長する、と懸念しているようです。誰が、って、小林よしのりが(笑)。

 最大限好意的に解釈してみるとすれば、嫌韓厨の暴走が脊髄反射の昆虫並みの反応をデフォにしてゆくことで、何でもかんでも朝鮮人憎し、半島帰れ、といった「動物化」(……って、こんな意味じゃないような。でも、どうでもいいや)したバカがいっぱい出てくるんじゃないの、というあたりかな、と。

 まあ、そのへんの懸念ならば、はばかりながらあたしなんぞにもないわけじゃない。だからこそ、当の『嫌韓流』の一発目に解説めいた原稿頼まれた時も、「いまどき若い衆が嫌韓厨になるのはある意味当然だし、それは全く正しいんだけど、でも、そんな嫌韓厨のまんまそこから先を何も考えないままだと、あんたらがバカにしまくってるバカサヨと同じことになるぞ」、てな趣旨のことを言っていたつもりであります。『嫌韓流』の読者のどれくらいが、ちゃんと読んでもらえてたかどうかはよくわからんけど。

 つまり、嫌韓厨になるくらいの社会性というか、世の中に何か関心を示す程度の意識があるなら、いまどきまだ上等。かつてみんな若い衆がおおむね左翼気分に染まったようなもんで、それはそれ。でも、いつまでもそこに安住したまんまパターン化した認識と思考で目の前のできごとを「ウヨ/サヨ」で分類して鼻の穴ふくらませてるだけじゃ、かつての左翼(サヨク、じゃなくて。為念)がどんどん堕落して硬直化、ついにプロ市民にまでなっていったように、あるいはまた、マスコミや学校あたりにもぐりこめちまえば、そのままずっと思考停止しちまったり、といった末路と全く同じことになるぞ、と。

 要するに、いかに稚拙で粗っぽいものであってもいい、自分とそれをとりまく社会との関係に関心を持つようになるのなら、いまどきの嫌韓流も糸口として、別にいいんじゃないの、というのが基本的な立場なんですが、どうも小林よしのりセンセったら、このところどっぷりと旧来のインテリモード、固有名詞で突出して何かもの申す、型の自意識がについちまったようで、ワレ「衆愚」ノ行ク末ヲヒトリ憂ウ、みたいなノリから離れられなくなっちまってるようですな。

 ひとことで言えば、余裕がない。先達としての器量がない。そう、狭量なんです。

 すでにそれなりに名をなし、仕事もしてきたいっちょまえ、天下の小林よしのりなんだから、まだ出てきたばかりの若輩をそこまで全力でつぶすようなことはあまりするべきではないのでは、と。それとも、そんなにもう自分の今の居場所に不安いっぱいってことなんでしょうか。だとしたら、それはそれでまた別の省察が必要なんでしょうけど。

 全力でつぶすというのなら、つぶすでもまあいい。ならば、その「つぶす」過程もしっかり芸にして見せてくれるくらいでないと、「観客」は納得しません。西原理恵子くらたまに対して「おまえはまだぬるい、カラダを張ってない」「額に犬のイレズミをしてアルタの前を歩け」と強要してみせたような(あれがいいとは言いませんが)、「教育的指導」の意味も含めた「つぶす」ことならば。そう、昔はいいもの言いがありましたなあ、「かわいがる」っていう。なんだかんだ言っても自分と地続きの後輩、同じ土俵に立つ人間だから、という認識の上で関係を持ってみせる、という前提。小難しく言えば、同じ共同性に立った連帯意識=ある種の任侠(ソリダリティ、ね)、を伴いつつのせめぎあい、ですか。その気配が、悪いが感じられない。だから、本当には信頼されない。

 このへんの狭量さは、何も今の小林よしのりに限ったことではなくて、むしろ実はいわゆるおたく世代――正確にはおたく第一世代から第二世代あたりに色濃く宿ってるんじゃないかいな、とかねがね気になっていたのであります。彼ら、下の世代に対して意味もなく厳しい。というか、育てようとか、共につきあって何とかしよう、という気構えがどうも薄い。自分でそういうものを持っているつもりでも、肝心の関係自体がいい意味で濃密になり切れないままだから、受け取る側が単なる「いじめ」としか受け取れなかったり、とか。いや、そういうトラブル、いさかいの類、ってあのへんの世代周辺じゃもう結構、あちこちで勃発してきてるんでないかなあ、と思いますね。どれがどうとは敢えて言わんけど。

 確かに、ある脈絡においては「優秀」であり、その「優秀」さに見合った自意識も抱え込んでいるがゆえに、自分もまたトシを取る、先輩になる、部下を持たざるを得なくなる、ということについての想定が、未だにうまくできていない。そう、世渡りの初期設定が二十代そこそこのまんま、まだうまく変わっていない。

 一般論とは別に、小林よしのり個人について言えば、マンガならマンガの世界で孤立無援、自分ひとりで切り開いてやってきた、という自負が強いあまりに、後進に対しての視線に余裕がないのでは、という印象は、確かに前々からありました。だから、自分のところのスタッフは実務レベルの親方として、雇用主として何とか抱え込めても、その外側、上下も主従も雇用被雇用も関係ない、言葉本来の意味での水平の共同性での「連帯」が必要な局面で、悪い意味でのイエスマンしかまわりにいなくなってしまう。

 

 面倒なことを敢えてつけ加えれば、これって、会社や組織といった序列が明確な場所でイエスマンしかいなくなる、っていうありがちな現象とは、少しまた違うと思いますね。つまり、力の方向性が秩序として定まっている仕事の場など、たとえばよしりん企画の中でまわりにイエスマンしかいなくなる、ってのとはまた違う、ってことで。

 「匿名」をあそこまで忌み嫌う、排除しようとする、っていうのも、それこそ『嫌韓流』にからめて触れたような、固有名詞で突出しようとするモティベーションがデフォルトになってしまっている旧来型の「個」の自意識から不自由である、ということと共に、もしかしたらそういう水平の共同性、ひらたく言えば仲間うちの内輪の中で居場所をうまくこさえてゆくことができなくなっちまってるって部分もあるのでは、と思ったりします。

 まあ、天下公認のネット蛆虫【サイバッチ!】の片棒担いでいるあたしが言うのもナンだとは思いますが(笑)、「匿名」のどこがいけない、と。卑怯か卑怯じゃないか、と言われればそりゃ大方は卑怯だとは思いますが、でも、そういう「匿名」の場において宿ってしまう何らかの「正義」ってやつもまた、ニンゲン世間には確かにあって、また昨今の情報環境じゃそういう「正義」がこれまで以上に何か端倪すべからざるプレゼンスを示し始めているのでは、とも思います。

 というわけで、小林よしのりにも、あたしゃ一度そういう「匿名」になってみようとすること、をおすすめしますね。そこで自分の自意識がどれだけ変わるのか変わらないのか、がひとつのリトマス試験紙かなあ、と。トッキーや取り巻き任せでなく、そっとネットを観察してみる、とか、やってみてもいいと思うんですが。別にそれを描いたりしなくても全く構わない。かつて、小林よしのりを次は台湾に連れ出そうと小学館は『サピオ』周辺の出版マフィアらが必死に勧誘しているのを横目に、そんなのより、いっそスタッフ含めてまるごと自前でアメリカ横断珍道中をやらかしてそれを描くロードムービー的な展開にした方がよっぽど意味あるしおもしろいんじゃない、と真剣に説得していたあたしですが、ここはまず個人的な試みとして、自分ひとりでやってみることを提案しておきます。


●編集後記

 先週の「西尾、狂った」原稿、すでにちらほらとコピー&ペーストされて貼られているようですね(苦笑)。ま、いいけど。取り巻きからご本尊にご注進が行って「ゴルァ!」されるのも時間の問題かも知れませんが、【サイバッチ!】大本営は「ゴチャゴチャいいだすとコエツボの中のケンカになるのでほっとく」「そっちが撒いた種だからそっちで始末してね♪」だそうです。さすが蛆虫大本営、自己責任は徹底してます、はい。

 

 今日1日づけの『産経新聞』の「断」というコラムで、半島経由のネットジャーナリズム(恥笑)を標榜するオーマイニュースの船出を祝福する原稿を書きました。看板が鳥越俊太郎、幹部に浅野健一だの朝鮮人だのとまあ、それはそれは、な陣営で、出資がソフトバンク孫正義@朝●ハゲ、ときてます。どうせヤフーニュースとリンクバリバリで世論操作をやらかそうとしてくるんでしょうけど、あちらの国じゃ盧武鉉政権の誕生を支えた新しいメディア、てなことを言われてる由。このへん、産経としてもわざわざソウル支局にウラとって確認してたようですから、言い方としてまず間違いではないようです。よくまあ、【サイバッチ!】のオーツキなんかの原稿を、と言われてるようですが、そのへんはさすがに新聞社、何でも言いっ放しでスルーされるわけでもありません。結構、書き直しとかバンバンさせられてるんですよ。当たり前ですけど。

 

 積水ハウスの在日が顧客を訴えた一件が騒動になり始めていますが、あれもあれで言いたいことはあるのですが、また改めて。確かに、サベツはいけない(笑)、でも、だからって要求が「新聞で謝罪広告」ってそりゃ何よ、と。