男らしさ・考 vol.11~20

 「家庭」にも、すでに歴史がある。けれども、誰もが「そういうもの」として日々やり過ごし、それをいちいち意識することはない。そうするうちにその「そういうもの」の中身は知らず知らず変わってゆく。民俗学者の眼の高さから見える歴史とは、案外そういうものだ。

 それまでの伝統的な「イエ」からの変貌。労働単位として、また「ムラ」という共同体の構成単位としての「イエ」の中に、「個」という意識を抱え込んだ「個人」が芽生えることで何かが変わってゆく。政治や経済、制度の変化と共に、その内側にいるひとりひとりの意識も変わり、人間関係もまた変わってゆく。

 けれどもその過程は記録されない。それぞれの個別具体の経験として書き込まれた瞬間から膨大な記憶に埋もれてゆき、あとで検索する手立ても講じられない。だから、相互に引用も参照もされない。

 そんな経験から記憶に至る系列に宿るとりとめない痕跡もまた、「歴史」の資料である、と考えたのが、柳田国男だった。彼は『明治大正史・世相篇』で、「読書」という経験が入り込んでくることで「個」の意識が「イエ」に持ち込まれ、それに応じるかのように家屋の間取りも変貌してゆくことをほのめかしていた。それは近代の学校教育によるリテラシーの普及と向上、そして明治以降の情報環境の変貌によるものであり、身近なところではひとまず世代間の格差として現れるようなものだった。無学な親との対立と葛藤、という、近代の文学につきものになっているテーマも、そのような背景でくっきりと立ち上がる。

 一方でそれはまた、男女間の格差としても現れる。夫婦という単位もまた「個」の意識を抱えた個人と個人、そのような「近代」的な関係として想定されてくるにつれて、それら夫婦を含み込んだ「イエ」もまた、「家庭」へと変貌してゆく。それまでおおむね類として見られていた「おんな」「こども」も、それぞれに「個」の相貌を伴ってくる。当然、それらとの関係で「男らしさ」もまた、揺らぎ始める。



 前々からずっと疑問に思っていることをひとつ。夫婦茶碗、という器。あれはいったい、いつ頃から生まれたものか。

 瀬戸物、焼き物の歴史は文書や資料でさかのぼれても、柳宗悦が言ったようなこの種の「日常雑器」の来歴は案外、意識もされぬまま。夫婦単位での茶碗や箸、座布団などがセットで贈答されるようになったのは、そう古いことでもないはずで、最初は還暦の祝いなどから始まったものだろうが、それにしても主に戦後のことか。箱膳など揃いの食器とはまた別に、それぞれが気に入った茶碗を荒物屋などで好みに応じて調達するようになってゆくのは、いつ頃からなのか。民俗学者として確かな答えが用意できないのは情けないのだが、何か糸口になるような記憶や体験をお持ちの方は、ご教示いただければありがたい。夫婦茶碗に限らず、身のまわりにある「夫婦」という比喩、その来歴がどうも気になってくるのだ。

 たとえば、夫婦岩や夫婦松、夫婦橋など、ふたつ揃いの景観を「夫婦」に見立てることはよくある。だが、最も有名なあの伊勢は二見浦の夫婦岩でさえも、今のように「縁結び」や「家内安全」「夫婦円満」などと関連づけて広く語られるようになった経緯は、おそらくそう古いものでもない。同様に、全国に散在する夫婦岩も、絵はがきその他で伊勢のイメージが広まったその結果、という側面がある。ならば、それらをわざわざ「夫婦」と見立て、それを広く受け容れるようになった理由もまたあるはずなのだ。

 夫婦円満を語る、連理比翼、偕老同穴、といった言葉もある。結婚式の挨拶などによく使われる。仲人を月下氷人とも言う。いずれ漢語由来だから、近世の都市部、武士階級が出発点だろうが、それが一般にまで広まったのは、仲人と見合いがセットの「婚礼」という形式が全国標準になり、漢語的もの言いが偉いと思われるようになった明治以降か。「イエ」が「家庭」へと変貌してゆく過程には、こういう「夫婦」をめぐる未だ語られぬささやかな精神史もまた、埋もれているらしい。



 血縁や親族のまとまりから夫婦という単位が突出してゆき、「イエ」は「家庭」に再編成されてゆく。「ふうふ」よりもまず「めおと」というもの言いで、それは日常化されていったはずだ。言葉と内実、微妙な心持ちの関係にはらまれるそういう来歴。表沙汰になりにくい、ささやかな痕跡に宿っている小さな歴史。夫婦という単位は変わらずとも、そこに与えられる意味や解釈、心のありようなどは常に同時代のもの。知らぬ間にうつろいゆく。

 一方で、タテマエとしての「男らしさ」は、近代の新たな社会的ふるまいのものさしとして強化されていった。それは家の外に出て活動する立場の男にとっての、社会を世渡りしてゆくための雛型だった。けれども、「イエ」が「家庭」になり、そこに「おんな」「こども」の視線が平然と存在するようになると、その視線は「男らしさ」のタテマエを演じる男たち――具体的には父親なり亭主なりの心の内に、それまでと違った角度、違った深さで否応なしに入り込むようになる。自分を見ている、批評している、時には笑っているかも知れない、そんな存在をことさら意識するようになれば、なるほど「厭」妻にもなるし、じきに「恐」妻に変わってゆきもするだろう。さらには、ひとつ間違えれば暴力に、あるいは異なる性的衝動に、と、その内圧を解放する水路を求めてあやしくうごめき始めもする。「仲よきことは美しき哉」の武者小路実篤白樺派系、大正デモクラシー出自の煩悶から、太宰治のあの有名な「家庭の幸福は諸悪の根源」という認識まで、あともう一歩だ。

 「強い女」――自身もまた「人間として」男と同質の内面を抱え、だからこそ「男らしさ」の内実をしっかりと対等に見つめてくる視線を持った女の出現は、「男らしさ」に規定されざるを得なくなった近代の男の内面、心の均衡をうっかりと崩していった。それは一方ではエロスやリビドーといった身体性の領域に、別の方向では「お笑い」として自らを相対化して安定させてゆく契機に、それぞれ作用していっただろう。社会的に輪郭を明確にしてゆく「男らしさ」のその舞台裏、「家庭」という道具立ての前に、男の心理はさらに屈託したものになってゆく。




 ひと頃まで、男が女を評するもの言いで、タヌキ型、キツネ型、ということが言われた。「息子の嫁にしたい女優ナンバーワン」などというランキングで上位にくるのはまず、タヌキ型。一方で単に、美人女優、などと言えばキツネ型が一定の割合を占めた。今ではもうあいまいになってしまっているけれども、ニッポンの男にとって理想の女性像というのはある時期までほぼこのどちらか、タヌキかキツネ、だった。

 顔かたちや容姿の話ではない。そのように比喩してしまう意識の問題、イメージの問題である。「家庭」が浮上して「男らしさ」が盤石のものでなくなってくるにつれて、それと対応する「理想の女」もまた分裂してくる。タヌキとキツネの二類型もこの過程で生まれた。もっともその前提として、それまであった同性間の友愛(後に「友情」といったもの言いに変換、微分されてゆく)もまた分解されてゆき、さらにはそれらも含めた性的衝動自体が「家庭」以前の「イエ」に、そしてその外側の「ムラ」に規定されていた、といった事情もあるのだけれども、そのへんのことはここではひとまず措いておく。

 「家庭」の中にいるべき女がタヌキで、それ以外がキツネである。「家庭」にいるのは「おんな」「こども」であって、それらはタテマエとしての「男らしさ」を脅かすことは(一応)ない。一方でキツネは、「家庭」で捨象される性的存在としての男、言わばオスの部分をうまくすくいとってくれる(ことになっていた)。だから、キツネは「色っぽい」のに対して、タヌキは「かわいい」。水商売はキツネで、タヌキは「嫁」が規定路線。妾と正妻、愛人と恋人、浮気と恋愛……そういうわけへだてがこの双方の間に、くっきりと刻印されている。

 大正期あたりから明確になってゆき、戦後高度成長期に全開になったとおぼしいこの類型、吉永小百合から大竹しのぶに至るタヌキ型の王道は、しかしある時期からまたぼやけてゆく。80年代、おにゃん子クラブに代表される新たな素人衆が大量流入するようになった頃からだろうか。近代に以降、ようやく整ってきた「家庭」がまたひとつ別の形に変貌し始めた時期と、それはおそらく重なっているように思う。




 民俗学の開祖、柳田国男には「妹の力」という論文がある。大正一四年に書かれたものだ。初出は『婦人公論』。日本の民俗文化における女性の霊力について論じられたもの、といったあたりが一般的なお行儀よい理解で、昨今では逆に「母性ファシズム」の原点、などとフェミニズムの方々から批判されてもいるようだが、あたしなどの外道が読むと、またもう少し違う読み方にもなる。どだいこの表題の「妹」は、「いも」なのか「いもうと」なのか。そのへんからしていまひとつはっきりしていなかったりするのだからして。

 ここで柳田は、三十年ぶりに訪れた故郷で見た、兄と妹の仲の良さについて語っている。とりわけ、大正になってから妹が兄の眼をはっきり見るようになった、という指摘は、女にそれまでと違う内面が宿り始めた同時代の気配をうまくとらえている。それらを引き合いに出し、世相として当時、近親相姦が増えていたことを暗にほのめかしてもいるはずなのだが、そのあたりまで踏み込んだ読みをするのはまれだ。

 兄と妹という雛型に流し込まれるエロスの気配。敢えて〈いま・ここ〉に投影すれば、若い世代のいわゆる「ロリコン」「幼女」趣味の淵源にも関わってくる。あるいは昨今、一部の若い衆の間で言われる「ツンデレ」問題とか。「ツンデレ」とは、普段は一見ツンツンしているけれども、一対一の恋愛モードに入ると急にしおらしくデレデレしてしまう女の子のキャラクターを評した、いまどきのもの言い。「強い女」の〈いま・ここ〉バージョン、現在形とも言える。ゲームから出てきたもの言いらしいが、しかしもとをたどれば、ひと頃少年マンガによくあった「委員長」タイプ、である。主人公の腕白(これももう死語だ)少年、ガキ大将の類の「男らしさ」ににいつも世話焼き女房のごとくついてまわり、時に説教をし、たしなめる役回り。教室という空間を前提に成り立っていることが多いのは、戦後の男女共学の衝撃がわれら日本人の記憶に焼き付けられているせいだろう。




 同じ学校、ひとつの教室の中に同年代の異性が平然と存在する事態。男女共学が果たしてどれくらい衝撃的だったか。戦後の歴史を語る時にかなり重要な点だと思うのだが、不思議とあまり論じられていない。

 「ムラ」の若者宿、娘宿から、近代の学校に至るまで、男と女は別々に育てられ、「類」として一人前になってゆくのが普通だった。だから、同年代の男女が胸襟を開いて、「個」として互いに言葉を交わしあう雛型は、それまで準備されていなかった。実はいまでもあまり変わらない。「恋愛」という形式などはごく一部の恵まれた層か、そうでなければ、うっかりと鋭敏な心を持ってしまった者に例外的にとりつくものだったし、それは多くの場合、厄介な煩悶、いらぬ葛藤をもたらすものでしかなかった。「恋愛」経由の結婚だけが当たり前と思われるようになったのも、ごく最近のことに過ぎない。

 いきなりもたらされた男女共学は、それゆえ「男女交際」という問題を、国民的規模で広く提起することになった。一対一で話をする雛型がないから窮余の策、教室での「討論」という形式が代用された。テーマなどそっちのけ、女の子がやってくるというだけで興奮して右往左往する当時の十代の心に、胸を張って自己主張するオンナ、についての鮮烈な刷り込みがされてゆく。臆さずにものを言い始めた女生徒。自由も民主主義も、反戦も平和も、マルクス主義でさえも、大文字の能書きとしてよりも先に、まずそういう場のアイテムとして体験され、広まった。「戦後」とは、そういう身の丈から経験されていった。「学校」が最も輝いていた時代。石坂洋次郎は『青い山脈』、とりわけ吉永小百合と浜田光男で映画化された新制高校バージョンのあの「学校」。「高校」が戦前からの旧制高校というエリートブランドを引きずりながら、新たに大衆化していった時期。その先の「大学」はまだ十分に象牙の塔のたたずまいだった。女子大生亡国論が語られるのは、もう少し先のことだ。




 女と靴下が強くなった、と言われたのは戦後のこと。なにせ戦争に負けたのだから男としては面目なかったのは間違いない。でも、「強い女」台頭の理由は、単にそれだけでもない。何より、戦後いきなり強くなったわけでもない。萌芽はすでに戦前、大衆化の進行する中にしっかりと宿っていた。

 家族を守る、「家庭」を支える、言うまでもなくそれが「男らしさ」を成り立たせているひとつの柱だった。いまどきのように心の支えとか、そういう呑気な話ではない。まずはミもフタもなく具体的、経済的に支える、食わせて養う、という意味が大方で、だからこそ「大黒柱」というもの言いにも格別の重みがあったし、女が家の外に出て働くのはよほどのことで、女房を働かせるなど男の恥、という感覚も普通にあった。少なくとも、一次産業から離陸したところに新たに芽生えた「家庭」という枠組みが、そこから発する価値観や世界観と共に、この国に普遍的なものになり始めてからは。

 それまでは、農山漁村であれ、街の商家であれ職人であれ、一家の女子供のほとんどは案外普通に働いていた。何より、働かなければみんなで食えなかったし、その程度に社会は貧しかった。だが、近代に至り、社会に余裕ができてくると、それまである時期からいきなり「小さな大人」として遇されるしかなかった子供の中に、遊んでいてもいい時期を享受する層が生まれる。女も同様、生産に直接関わらなくてもいい者たちが出てくる。それらを培養する新たな枠組みが「家庭」だった。「子弟」と「奥様」の発生と普遍化。「男らしさ」はそれら女子供を養い、庇護する役回りを強化されてゆく。最初は主に都市部の役人や会社員、給料取りなどから発して、それは少しずつ日本中に浸透していった。

 「いったい誰のおかげで食っていると思ってるんだ」というもの言いは、かつてそんな「男らしさ」の側にいた親父のタンカの定番だった。けれども、今やそれは明らかにハラスメントとみなされる。「女子供を食わせている」ことに依拠した「男らしさ」の矜恃は、もはや風前の灯火らしい。




 「オヤジ」というもの言いがある。単に父親という意味だけでもない。そう呼びかける先には、頼れる親方、われらがリーダー、といったニュアンスも含まれていた。少し前までは。

 だが、昨今では侮蔑のニュアンス、冷笑されるような含みを持たされてしまっている。「オヤジギャグ」「オヤジ臭い」といった言い方の背後には、「オヤジ」=時代遅れで古臭いもの、情けない存在、といった感覚が横たわっている。「オヤジ」の零落。だが、そんな過程にもすでに歴史がある。ふだんは意識もしない、でも確かに〈いま・ここ〉に至るまでの来歴がある。

 たとえば、『ガラマサどん』という小説があった。書かれたのは昭和五年。作者は佐々木邦古川ロッパ主演で映画に、さらには歌まで作られたから、これもある年輩以上の方にはなつかしいものかも知れない。

 ガラマサどん、は、ビール会社のワンマン社長。九州は熊本出身で、カニのような容貌魁偉で、「ガニマサ」なまって「ガラマサ」どん、に。苦学力行、身ひとつから一代で会社を起こして社長にまでなった立志伝中の人物で、文治元年生まれの当時六六歳。対する主人公、熊野権次郎は学校出のおそらく三十代、気ままな転職を繰り返して途中入社してきた大正デモクラシー育ちの当時の若者。ひょんなことから社長ガラマサどんに気に入られ、自叙伝編纂係に任命されたから、さあ大変。ガラマサどんの、社長ならではのわがままぶり、天衣無縫な振る舞いに右往左往させられる主人公以下、まわりの社員の泣き笑いが軽妙に描かれる。

 当時、幕末生まれが「天保銭」と称して馬鹿にされるくらい、「世代」の落差が意識されるようになっていた。単に年齢の違いというより、ものの見方や考え方、価値観の違いといった部分での違和感。誰もがガラマサどんに超えられない壁を感じている。しょうがねえなあ、と苦笑いしながら。そう、まさに「お笑い」。当時は「ユーモア」と称した。カタカナ表記が示すように、それは若者のものだった。そして、その苦笑いはまた正しく当時の女のもの、でもあった。




 「ユーモア」を介して描かれた世代の落差。それが「オヤジ」の原像のような、ガラマサどん、を生み出した。はた迷惑だけれども、どこか勝てない。憎めない。振り回されたあげく「しょうがないなあ」と苦笑いして、でも最後は「やっぱり社長だから」と納得しあう。尊重する。でっぷり太ってハゲ頭。血圧も高い。気になるらしく毎日計っている。細君とは去年死に分かれて目下男やもめ。とは言え、特に艶聞もなし。それがまた人気のもとになる。

 難儀なのは、義太夫道楽。何かというと社員に聞かせたがる。jまさに、落語の『寝床』を地で行く所業だが、なにしろ幕末生まれの「オヤジ」だから意に介さない。書画骨董にも趣味がある。ゴルフもやれば玉も突く。将棋もさす。学はないが、耳学問で結構いろんなことを知っている。何より、人心の機微には通じていて、さすが叩き上げの苦労人、無茶を言い、横車を押すばかりでなく、部下の不満をそらすコツはよく知っている。だから、やっぱり逆らえない。

 「豪い人だけれど、自分のこととなると全くムチャクチャだね」

 「お山の大将ですからね」

 「しかし好い人ですよ。一旦目をかけたからには一生捨てません。我儘な代りに人情味たっぷりです」

 「オヤジ」の世話をする社員たちの愚痴は、亭主を語る女房のぼやきによく似てくる。作中、こんな会話がふんだんに盛り込まれているのが、当時の新しさ。この話し言葉の闊達が「ユーモア」を支えた。舞台となる会社員の生態もまた、モダンで新鮮。だからこそ「オヤジ」の輪郭もくっきりと浮かび上がる。

 言葉遣いにも違いがある。ガラマサどんは「吾輩」で、社員同士は「僕」と「君」。だが、同じ彼らも「家庭」の中では「おまえ」と「あなた」。女房を「おい」とか「おまえ」しか呼ばない、とはよく言われる非難だが、「家庭」の中、特に夫婦の間で互いに名前を冠して呼ぶようになってきたのもまた、そう古いことではない。




 ガラマサどん、のような「オヤジ」像は、「家庭」の中で女子供の視線にさらされ、「男らしさ」が日常から、他でもない男の側からさえも相対化されるようになったことで生まれた。女子供の視線を抱え込み始めた男の誕生。彼らにとってガラマサどんは、確かに同じ男であり、仕事の場においては立派な上司なのだけれども、でも、自分たちとはすでに異なる価値観、違うものさしで生きているとしか見えない人間である。

 「家庭」以前の「イエ」における父親という「男らしさ」にも似ている。それは当時はまだ少数派だった、しかし間違いなく新しい生き方として現れた会社員、都市のホワイトカラーの自意識がとらえた、「男らしさ」についての〈リアル〉だった。

 とは言え、彼らはガラマサどんを否定しない。あれぞ乗り超えるべき父親、忌むべき旧弊、などと肩肘張って身構えれば、そのまま近代文学、悪い意味での書生論になりかねないところを、ガラマサどんの部下たちは、なぜかそうしない。搾取する資本家の横暴、などというマルクス主義のもの言いとて当時のこと、当然視野に入っていたはずだが、それもやり過ごしている。

 主人公の熊野君とて、何度も「すまじきものは宮仕え」とぼやく。しかし、だからと言って逃げ出すことはしない。できない。今なら適当にやりすごしてプライベートを充実、といったことになるのだろうが、そのプライベートの「家庭」とて、今のように会社から離れていない。女房も亭主の出世が大事だし、それをサポートするのが当然と考えている。しくじりそうになると、「あなた、お首は大丈夫?」。尻を叩かずとも、どこかでしっかり亭主を支えている。会社と「家庭」は地続きで逃げ出す先はないし、その必要もない。だから、ぼやきながらも「オヤジ」と向き合い、うまくつきあおうとするしかなくなる。日常の外枠がはっきり定まっている安心。前向きなあきらめ。そこから発するこういう「ユーモア」の感覚自体、まごうかたなく都市のもの、笑われることを敢えて引き受けようとする新しい自意識の属性だった。