男らしさ・考 vol.21~30

「家庭」は「ユーモア」「お笑い」と手に手をとって、新たな〈リアル〉をかたちづくっていった。

おおむね大正末から昭和初年にかけての時期に芽生え始め、最初は一部の、都市在住の「中間層」の感覚や趣味に沿ったものだったけれども、しかし戦中戦後をはさみ、高度経済成長期に至ってその「豊かさ」を資源にできるようになり、ようやく多くの日本人にとって共有されるような〈リアル〉へと大きく成長していった。いま、「お笑い」が若い世代にとってある種の一般教養のようにまでなっているのには、実はそういう背景もある。

それはこれまで教科書や学校では教えられてこなかった、しかし誰もがそう言われれば「ああ、そういうことか」と思い当たるふしのある、〈いま・ここ〉を生きるわれら日本人にとっての地続きの歴史、経験された現代史、であり、民俗学の眼の高さでの歴史、でもある。

その過程で、「男らしさ」は存分に相対化され、使い回されることになった。それは、戦前このかた、タテマエとしての父権主義、男根主義の抑圧が強かったこととも矛盾しない。その程度にニッポンの「男らしさ」とは、もうずいぶん前からそんなに頑丈な一枚岩でもなかった。教科書と学校の側の歴史にしか関心を持てない昨今のフェミニズムの不自由からは、こういう「もうひとつの歴史」の水準には眼を開けない。

たとえば、「オヤジ」像にハゲ頭はつきものになっている。ガラマサどんもそうだったが、その前には、麻生豊の「ノンキナ父サン」もあった。大正末年、関東大震災後に当時の『報知新聞』で掲載の始まった連載四コママンガ。新聞四コマの嚆矢とされる。麻生は大分は宇佐の産。北川楽天の弟子で、漫画の「漫」の字がまだそれだけで不真面目なものとしてまともに認められない頃から、絵描きで漫画を志した。アメリカ産のマンガ「親爺教育 ジグス&マギー」を下敷きにした造形だとも言われるが、それ自体、「お笑い」がモダニズムと縁の深かったことの証明である。いまやドリフターズ加藤茶のあのハゲヅラオヤジ以下、「お笑い」につきものの「オヤジ」のハゲ頭に至る来歴にも、こんな意識されない歴史がひそんでいる。



ハゲ頭に太りじし、声は大きく傍若無人で、時にはメガネにダンゴっ鼻まで加わった、そんなステレオタイプ、イメージとしての「オヤジ」像は、敗戦をはさんで戦後、高度経済成長期のテレビドラマにまで、そのよって立つ位相を異にしながらもしぶとく生き続ける。頑固オヤジ、カミナリオヤジ、封建オヤジ、と呼ばれるようなある型通り。時代によって呼び方はさまざまでも、その向こう側に結ぶ像は、しかしどこかで重なっていたりする。

寺内貫太郎一家』というドラマがあった。あの向田邦子の脚本、先年亡くなった久世光彦のプロデュースによるテレビドラマの名作。シリーズ第一作が74年の放映だから、今からもう三十年以上前のことになる。小林亜星演じる石屋の親方の頑固オヤジぶりが秀逸で、特に息子役の西城秀樹との派手な立ち回りは毎回お約束の見せ場だったが、しかし、そういう「オヤジ」をめぐる世代間の軋轢さえも、当時もうすでにアナクロと見られるようなものでもあった。

それより少し前、60年代半ばのドラマ『おやじ太鼓』も同様。こちらは進藤英太郎が子供たちを怒鳴り飛ばす場面が話題だったが、そんな古色蒼然たる「オヤジ」像を敢えて前面に出す点が趣向で、その「オヤジ」的なるもの自体はどう考えてももう時代遅れ、という感覚は、観る側におおむね共有されるようになっていた。それら、当時のいわゆる「ホームドラマ」という形式には、そういう「オヤジ」は不可欠のキャラクターだった。

だが、その『おやじ太鼓』の原形になった、映画『破れ太鼓』までさかのぼってみると、様相は少し違ってくる。松竹蒲田から戦後は初期のテレビに活躍の場を移し、「ホームドラマの巨匠」などと呼ばれることもあった木下恵介監督で、昭和24年の制作。主演は“バンツマ”板東妻三郎。もちろん、戦前あの「無法松」でニッポンの「男らしさ」の雛型を作っていたわけだが、そんな彼が成り上がりの土建屋、まさにガラマサどん直系の「オヤジ」を演じ、「戦後」に遭遇することになる。




映画『破れ太鼓』でバンツマ演じる土建屋、津田軍平は、いわゆる成金で六人の子持ち。豪壮な邸宅に住み、女中も使い、まずは結構な暮らしぶり。言わばガラマサどんがそのまま「家庭」の中に入り込んできたような設定なわけで、当然、子供たちはそれぞれ、オルゴールづくりやピアニストをめざしたりで、軍平のワンマンなオヤジぶりにはとにかく批判的。このへん、困惑しながらもどこかで尊敬もしていたガラマサどんの部下たちとは、少し違う。

だが、仕事ひとすじ、機関車のように驀進してきたそんなオヤジも、いざ会社が倒産すると、女房や子供たちはそれぞれ自立し、自分の道を探して離れてゆく。そんな中、最も反発していた次男が残って健気に元気づけようとし、軍平オヤジは感極まって号泣。そして大団円。

見事なまでに、後の「ホームドラマ」の雛型。落魄した軍平の姿は、そのまま当時の敗戦国ニッポンと重なったろうし、それが息子=「若者」によって癒やされる構図は、「戦後」という新しい時代のありようを何よりもわかりやすく見せてくれただろう。そして、「若者」が無条件に未来を担う、という、「戦後」ずっと支配的であり続けたひとつの神話も、また。

中で、つましい暮らしぶりの芸術家の一家が、軍平の家との対比で描かれている。滝沢修と東山千恵子の夫婦に、絵描きの息子が宇野重吉という完璧な新劇シフトで、「芸術」や「文化」に理解のある親を持つ、という「戦後」の「民主的」な理想の「家庭」を演じている。もっとも、〈いま・ここ〉の感覚としては軍平のオヤジぶりよりも、こちらの芸術一家のやんごとなさの方がよっぽど居心地が悪くて気になるのだが、しかし、当時としてはこっちが善玉。この「家庭」のイメージはその後も尾を引いて、宮崎駿となりのトトロ』の草壁一家などにまで、結構影を落としている。もっとも、理想と現実は常に背反。それから六十年、親は教師や評論家、はたまたキャスターその他の文化人で、子供はサブカル三昧、引きこもりニートのパラサイト、という「家庭」もいまや、別に珍しくもない。




「ホームドラマ」という枠組みは、初期のテレビのさまざまな制約から生まれた、と言われる。

VTRがまだ生まれる以前、映画のフィルム以外に録画など及びもつかず、テレビカメラでは基本的にスタジオでのナマ放送一発しかあり得なかった状況では、舞台と同じくセットを組んで撮るのが最も合理的だったとか。民放は制作会社に下請けに出したので、映画のスタッフが関わるようにもなる。だから、照明の当て方やカメラワークの違いで、どこの局のドラマかひと目でわかったという。初期の小さい、白黒のブラウン管で見せるため、とにかく主演俳優の大写しを多用、それも映画なら不自然と思われるライティング、たとえば女優さんの顔にだけ当てるなどの無茶も「どうせテレビ」と思い切ってやっていた、とか、テレビという新しいメディアに即した〈リアル〉をこさえてゆくための試行錯誤も、またいろいろと。まさに『プロジェクトX』、未だ十分に語られ得ぬ歴史の素材は、まだこのニッポンに転がっている。

この「ホームドラマ」というもの言い自体、おそらくは和製英語。もとになったのは「家庭劇」だろう。「家庭劇」自体は英文学や演劇方面由来の言葉で、新劇運動の中で家庭劇協会などというものも大正期に作られたりしているけれども、しかし、こっちはもとの英語ではどうやら「ホームプレイ」か「ファミリードラマ」。今のいわゆる日本語としての「ホームドラマ」に込められている意味は、そんなお行儀のいい来歴とは少しずれたところに、また「戦後」独特のニュアンス、色合いを加えたものになっている。何より、テレビドラマに関する限り、「ホームドラマ」で中国や香港、台湾などにも通じるようになっているのだからして。

とは言え、今となってはそもそも元の「家庭劇」自体が、もうわからなくなっているだろう。「ホームドラマ」に直接関わる「家庭劇」は、今の松竹新喜劇のはるか前身、曾我廼家劇と呼ばれた一座が立ち上げた「家庭劇」だろう。頃は昭和の始め、そう、まさにここで語ってきたような意味での「家庭」が、表面化してきた頃のことだ。




今の舞台のいわゆる「喜劇」、という枠組みも昭和初期、「家庭劇」が登場したあたりから始まっている。まさに家の中、日常の立ち居振る舞いが平然と舞台にあげられ、そこでの会話もまた普段着のもの。このあたりは、以前に少し触れた、ラジオの登場と軌を一にしてそれまでの万歳が漫才に変貌したことや、雑誌に座談会、鼎談、といった話し言葉で構成される企画が増え始めることとシンクロしている。

話し言葉を記録し書きとめる、速記という技術は、明治期にすでに西欧由来、横文字の速記術を没落士族の創意工夫で日本語向けに改良された田鎖式が登場していて、それは表ではたとえば議会の議事録を作るために、しかししその一方では、落語や講談など寄席の話芸を活字に変換することに応用されていった。三遊亭円朝の怪談噺や、猿飛佐助や真田十勇士を広めた立川文庫など、誰もがルビつきで手軽に読める読みもの、消費財としての大衆文学はそのように普及した。その下地に、さらにラジオを介してナマの話し言葉を耳から広く聴く習慣ができると、聴き手の側に日常を意識し、相対化する契機がはっきりと準備されるようになる。話し言葉とそれによって構成される日常の発見。「お笑い」というモメントが国民的規模で実装される条件が整い。人前で、公の場所で話すべき言葉と、普段の話し言葉との落差やズレもまた、それまでより一層くっきりと意識されるようにもなっていった。

松竹の「家庭劇」は戦後、「すい-とほーむ」と改めた時期もある。そこからさらに「新家庭」にも。同じ頃、東映もまた「家庭劇」シリーズを作っていた。主演は“エノケン榎本健一柳家金語楼。なんのことはない、やっぱり「お笑い」なのだが、しかしその「お笑い」がわざわざ「家庭」と結びついて、しかも「戦後」に一気に花開いたのにはそれなりのわけも事情もあるはず。暗い世相を笑い飛ばしたのだ、といった通りいっぺんの説明の仕方も含めて、すでに立派に「歴史」だったりする。




最近、「格差社会」などと言われる。経済的な格差もさることながら、そのような「格差」をことさら意識してしまう、そういう部分の問題もまた、案外大きい。

思えば、大正時代あたりからすでに「格差社会」だった。当時は「格差」ではない、「階級」と言った。日露戦争の後、誰もが「日本」という意識を広く持つようになり、それまでになかった新しい国民層が登場してきた。たとえばプロレタリアートと言い、労働者と言い、それまでとは明らかに異質に見える身振り、価値観、生活に根ざしたある塊が、同時代のものとして眼前に見え始める。単なる貧しさ、暮らしの困窮というだけでなく、その向こう側に共通する何ものか、の存在。そんな「階級」の発見は、その発見する側の意識が共にあって初めて、成り立つようなものだった。それまであった「世間」というもの言いもまた、「階級」が介在することで別の手ざわりを獲得してゆく。今の「格差」が人々の意識にもたらしている効果と同じように。

「いわば善男善女、天皇と神社と、仏とお家とが絶対であり、義理と人情の世界にあって尊皇攘夷を唱えた幕末の志士の義憤をもち、生活力極めて旺盛、考えたり批判したりする精神は毛頭ない人々である。容易に忠勇なる兵隊となり町内の侠客となり、泣いたり笑って、もっぱら生理的な――いわば思考力をおき忘れた肉体の化け物である」

こう辛辣に評したのは三木鶏郎。「冗談」音楽の祖、「ユーモア」の発信元として、『日曜娯楽版』以下、戦後のラジオを根城に一世を風靡した才人だが、それら「お笑い」を宿すようになった新しい自意識の側から見た、それまでと異なる「世間」の最大公約数として興味深い。

義理と人情、忠勇や任侠、そして肉体に裏づけられた生活力――そんな徳目、価値観が、「お笑い」からは彼岸のものとして認識されている。そして、それら最大公約数は時に「大衆」や「庶民」と呼ばれ、また後には「国民」にもなっていった。




こういう「お笑い」は明らかにインテリの側、知性の側、にあった。少なくとも、「お笑い」を自覚した者たちはそう感じていた。

実際、われわれ日本人の感情生活の振幅は、今考えられている以上に狭いものだった。うっかりと感情をかき立てることは日常、極力避けられていたし、だからこそ常ならぬハレの日の興奮が一層印象深いものにもなった。そのリズムがより大きな何ものかに同期すると、祭りのみこしが暴れたり、衆を恃んだ強訴から打ち壊し、果ては世直しと呼ぶようなものにも連なってゆく。一時期流行ったデモや街頭運動、もまた。

もちろん、いわゆる民俗、習慣の中にも「笑い」は組み込まれていた。それこそ古くは狂言の類から田舎のお祭り、ひなびた民俗芸能の中にも。しかしそれは、ここで言うような「ユーモア」の笑いとはどこか不連続をはらむ。形式としてみんなで「笑う」ことと、個人の内面を盛りつける器としての「ユーモア」とは、似ているようでしかし、その間には大きな距離もある。

それほどまでに感情という代物、人の内面という領域は扱いにくい厄介なもの、と思われていた。だから、個人の表現としては「泣く」ことがおそらく最大限だった。自分で始末できない、ふだん通りの形式に流し込めない感情の高まりが身のうちに宿って盛り上がると、それは必ず「泣く」という表現になった。もちろん言葉には変換されないし、そのスキルもない。自分の気持ち、わだかまりをうまく解放してやる「心ゆかせ」は、多くの場合、言葉を介さないものだった。普段の話し言葉で「こころ」を表出するスキルは、未だ十分に実装されたとは言えない。

だから、「涙」が文脈に応じて自在に解釈される「こころ」の比喩となっていった。それは今では、いわゆる演歌の形式の中にかろうじて保存されているようなものだけれども、しかし、「泣く」ことを媒介に何か現実を動かそうとする手練手管は、小は「家庭」内の夫婦喧嘩から、大は天下国家の政治の場まで、今でもわれわれの感情生活にしっかり組み込まれている。




そう言えば、頑固オヤジ、カミナリオヤジはよく「泣く」。とりわけ戦後、よりいっそう泣くようになった。ホームドラマ流頑固オヤジの型通りでも、涙は重要な役回りを果たしていた。

そんなオヤジは、娘にきわめて弱い。娘が嫁に行く段になると、とにかく泣いてしまう。嫁入りどころではない、娘に恋人ができただけで大変なことに。縁談ならまだしも、恋人というのがまずいけない。オヤジは怒り、戸惑い、当の娘はもとより、母親や息子たちも含めた「家庭」の中の「おんなこども」とぶつかる。娘の恋人、つまり潜在的な婿との緊張関係は、誰もがうっかり「恋愛」の当事者となってしまえるようになった「戦後」の空間において、一気に全面化してくる。

それらオヤジの「涙」は、「男らしさ」の内面、こころの気配を察知する糸口になっていた。実際に、結婚式の場でそのような父親の姿は戦後、増えたのだろうし、同時に、そのような「涙」を解釈する枠組み、ある種の内面を「人情」という名の下に読み取る仕掛けが、こちら側にも実装されていったのだろう。かくて、「家庭」の秩序、日常の安定はめでたく保たれる。最後は「涙」でめでたしめでたし。ああ、盤石の型通り、ホームドラマから映画、文学、マンガに至るまで、未だ根強いわがニッポン定番の通俗ぶり。

「家庭」にとって性的存在としての娘、というのは、ついこの間まであってはならないもの、ではあった。同様に、性的存在としての親、というのもまた。「家庭」という約束ごとには、そんな性的存在としての部分はひとまずなかったことにされていた、はずだった。良くも悪くも。

だが、バブル崩壊後、変貌する世相の中、人は「家庭」の中でも平然と性的なままでいるようになった。「家庭」だけでもない、「会社」でも「学校」でも、時には衆人環視の往来でも、のべつまくなし性的であることが発散されてしまうようになった。しかも、当人たちの制御をどんどん超えたところでうっかりと。




かつて一世を風靡した梶原一騎原作、あの『巨人の星』の登場人物たちも、何かというと涙を流していた。オヤジの星一徹はもちろん、星飛雄馬も伴宙太も花形満も、明子ねえちゃんまでもがじきに滂沱の涙。ああ、なんたる内面の過剰、感情のオーバーフロー。だからこそ後にそれは容易にギャグに、「お笑い」の素材になってもいったのだが、しかし、それを可能にしていたのは、梶原一騎の作品世界がまさに戦前の少年小説、佐藤紅緑を下敷きにしたものだったからに他ならない。

佐藤紅緑。戦前『少年倶楽部』を舞台にした一連の読みもので、当時の少年読者の魂をわしづかみにした作家。けれども、「家庭」の中での実態は前代未聞の言行不一致。それは娘の佐藤愛子によって『花はくれない』という作品として暴露されるのだが、それらもひっくるめてものの見事にガラマサどん世代のオヤジの標本、まさに典型。その佐藤紅緑の書く世界に子供の頃からあこがれて、梶原一騎はもの書きになった。

昭和初期、「少年」も、そして「少女」も、共にそのようなオヤジの視線で統括される「家庭」の中で「庇護されるべきもの」として結像していた。その背景には、大正教養主義の「童心」という難物もあるのだが、何にせよそれらの世界では、彼ら彼女らがこころの内を表現する術は「泣く」しかない。だから、飛雄馬も泣くし、明子ねえちゃんも泣く。

だが、少しだけ梶原一騎のために擁護しよう。そんな閉じた世界でも、それぞれが性的存在としての内面を発見してゆくことで『巨人の星』は開かれていった。飛雄馬は薄命の看護婦美奈とのはかない恋愛を、明子ねえちゃんも花形との恋をそれぞれ介して、自立へと向かう。取り残される一徹の孤独は、晩年の無法松のそれと地続きであり、敢えて言挙げすればまごうかたない「近代」のものだった。“おはなし”としての凄惨さと引き換えに、そんな「近代」の孤独を視野に収めた梶原一騎は、佐藤紅緑のさらに一歩先、やはり「戦後」を生きた作家だった。




けれども、同じ少年マンガ、野球を素材にしたものでも、『巨人の星』からわずか十五年ほどどで、あだち充の『タッチ』が出現する。そこでは、同じ野球を題材にしていても、朝倉南という女の子の視線が世界の中心。「恋愛」が常態となりつつあった学校という場で“おはなし”は展開し、佐藤紅緑以来の「少年」の人間的成長のモティーフなどはもちろん後退。決して当事者ではない、しかし場を支配する「恋愛」というモメントがそこに収斂してゆく、言わば女子マネージャー的な存在が一気に浮上してくる。

だが、『巨人の星』にはそんなものはいなかった。現実にも、60年代後半まで野球部であれ何であれ、女子マネージャーは存在しなかったはずだ。スポーツ、いや、当時のもの言いに従えば「運動」の現場に女性がいるなどということは、あらゆる意味で危険なことであり、避けられるべきことだったのが、なぜかこの時期一気にその壁が崩れてゆく。そこに起こった深刻な変化は、しかしまだ十分に説明されていない。

「スポ根」と称された汗くさくも「少年」丸出しな世界から、「ラブコメ」と呼ばれる新たな場への移行。その大転換の兆しは少年マンガだけでなく、むしろ少女マンガの領域で先行して起こっていた。『タッチ』より少し前、70年代の半ば頃。「ドジで美人でもない冴えないワタシ」という主人公の自意識は、性的存在として「見られる」ことの葛藤、特に「学校」という場の屈託から発している。言うまでもなくそれは戦後、男女共学が定着していったことの反映でもある。

望ましい「少年」「少女」像があらかじめ想定でき、マンガであれ読みものであれ、それらに向かって当然のように収束してゆけた状況が、変わり始めていた。昭和初年このかた受け継がれてきた「少年」という主人公の後退。思えば、鉄腕アトムもまたそういう「少年」だった。同じ頃出現した「家庭」の輪郭も、そこに生きるそれぞれに内面を発見してゆくことで徐々にぼやけ、ほどかれてゆく。「恋愛」を契機に性的存在としての自分を意識するようになることで、「おんなこども」の「個」もまたあらわになる。オヤジもまた、無傷のわけがない。