「日中友好」の時代

 「日中友好」が国民的スローガンになった頃がある。いまから三十年ばかり前、田中角栄首相の手で日中国交正常化がなされた頃のことだ。

 「友好」の象徴としてパンダが贈られ、上野動物園は押すな押すなの大行列。「ニーハオ」が流行語になり、今となっては内乱に等しい大混乱だったことが判明した文化大革命ですらも、何か輝かしい未来を開くできごとのように書き立てられた。かつて迷惑をかけた国、その後もきちんと仲直りをしていなかった隣人とやっと握手ができた――「喧嘩は終わりましたか? 喧嘩をしないといい友だちにもなれませんよ」と田中首相に語りかけたという毛沢東のセリフも、かの国中国の器量の大きさを語るエピソードとして語られていた。靖国参拝、教科書問題などでぎくしゃくしているのが何かもう半ば当たり前になった、近年の日中関係しか知らない若い世代にすれば、もう昔話だろう。「平和」「反戦」が重要な教義だった「戦後」の枠組みの中、あの「日中友好」ブームは確かに、ある極相を示していた。

 先日、日中友好七団体の関係者が訪中した。橋本元首相以下、当時の雰囲気を知る者も少なくなっている。何より、かの隣人はすでに善意の大人でもなければ、こちらもまた、かつてのように「戦後」に安住したままの呑気者でもない。

 なるほど、「友好」は大切である。大切だからこそ、その「友好」の中身を常に目の前の事態とつきあわせながら検証し、再構築してゆく努力が求められる。「友好」が単にスローガンに堕しているなら、敢えて異を唱える勇気や覚悟もまた、必要なはずだ。昔ながら、先方の言い分通りの伝書鳩のままでは、この難局に新たな「友好」を築くことなど、到底できはしまい。