競馬場の「常民」、のこと

 日本の「地方」に骨がらみになった「他力本願」のすさまじさを、あたしは地方の競馬場をのぞき窓にして見てきました。

 それは日本の庶民、「戦後」という時代の中で醸成されてきた日本という国の国民たちのある最大公約数が、どのような気分、どのような意識で〈いま・ここ〉を生きているのか、についての、何よりもわかりやすい生態展示だったような気がしています。

 世間の多くはバカである。俗物である。近代以前の社会はいざ知らず、文明開化の後、情報環境が変貌し、大衆化が進行してゆく中での「世間」とは、そのようにバカの遍在を思い知ってゆくこと、だったかも知れない。

 ムラならば、民俗社会ならば、世間とは〈いま・ここ〉の向こう側にある意味、漠然と広がる形象でしかないだろう。それは「あの世」ともあいまいに連なっているような、自分の生の場とは違うどこか、という意味で共通してもいたはずだ。「唐天竺」なんてもの言いにしても、「世の中」とそんなに距離感が違っていたとも思えないし、同時に地獄の絵解きなどの〈リアル〉にしても、それらの形象と重なり合って意識されていたのだと思う。

  自分が生きている〈いま・ここ〉、言い換えれば世界の中心が良くも悪くも決まっている、そんな「確かさ」がどんどんうっかりと失われて行く。「近代化」のひとつの現われはそのように「個人」の足もとを洗い始める。ヴァナキュラーだのオルタナティヴだの、ここ二十年ほど、出版とそこにたなびくサヨク/リベラル系の不自由の中で持ち回られたいずれカタカナ書きのもの言いたちにしても、その根っこと背景を洗いざらしにしてみれば、何のことはない、多くはそういう〈いま・ここ〉、生きて行く場についての前向きなあきらめと共に認識される濃密さ、についての議論に過ぎなかったのではないか。「過ぎなかった」というあたりに力点を置いてみることで、逆にならばその内実がわれらが日本語を母語とする広がりの懐でどのように表現されてきているのか、について改めて、わが身わが内面をのぞきこむようにして考えるきっかけになったりする。

 〈いま・ここ〉を知ること。おのれにとっての座標軸零点を認識すること。それができるのならば、そこに足を踏ん張って自ら腰を上げようとすることくらい、そんなに難しいことではないはず、なのだが。

 なのに、その〈いま・ここ〉の場がどんなにつぶれそうになっても、自分で腰上げて何とかしようとしない、そういう人たちが普通にいる。「お上」がどこかで助けてくれる。「助ける」ったって本当の意味でじゃなく、単なるお助け米をばらまいてくれる、補助金をぶんどって下げ渡してくれる、それによって潤う、という基本構造。でも、それが本当にびっくりするくらいに骨がらみに、人のココロに巣くっている、そのことをまざまざと目の当たりにすることが多かった。

 自前で何とかしよう、という気概は、何によって宿るのだろう。

 岩手競馬はつぶれるだろう。こんなことは言いたくないが、おそらく年内もたない可能性がある。理由は、他でもない最も競馬で生活していて、今後も競馬でしか生きてゆけないはずの現場の厩舎関係者たちが、この期に及んでなお、何もしない、何も知ろうとすらしない、まずその一点だ。

 主催者が何とかしてくれるはずだ。いや、何とかするのは彼らしかいないのだ。そんな考え方。だから要求はする。子どものように文句だけは言う。悪しき消費者、最も卑しい意味での棚に上がった要求者。

 おのが近代の来歴を知ろうとし、その中で「日本」を自分の内側から探り出そうとする、そのモメントなしに「現在」を語る足場など構築できようがない。

 「高度経済成長」を語り、「昭和」を論じ、それらの中から内包され、同時に自分もまた生きている「世代」の同時代を考察しようとする、それこそが「現代日本文化」を講じる場合の前提であるはずだ。

 「歴史」である。だが、これまでの君たちが知ってきたような意味での「歴史」では、おそらくない。全く違うものではないが、手ざわりは相当に違うだろう。

 〈いま・ここ〉から眺めてゆく視点、水底の混沌とした現在から水面を仰ぎ見るような視線、それこそが民俗学が内包していた、そして未だ十全に開花させられないままの「歴史」の位相、である。

 柳田があるき、知り尽くそうとした「農村」に象徴される「常民」とは、同時に渡辺京二が明らかにしようと試みたような、幕末から明治期の西欧人、外国人たちが直感的に感得した「失われた文明」のある部分をその身体ににじみこませたような人たち、でもあったはずだ。

 「常民」とは何か、社会的階層として理解しようとしたり、文化概念とか何とか、不自由な持ち回りが一時期横行した。「庶民」「国民」……どう言い換えようとも、かつて初発の「常民」にはらまれていたような傾きは、まずこぼれ落ちてしまっている。

 コモンピープル、の訳である、という解釈は素朴であり、またその素朴さゆえにいまもなお、「常民」を考える時に否定できない何ものか、を含んでいる。

 身体が大学になじむ、場所としてなどではなく、ものを考える、ものを見る、そんな構えにおいてのモードが、時間の流れ方やまわりの関係のうつろい方なども全部含めて、変わってゆくような気がする。