さらに「ハケン」について(改稿)

 *1

 先日書いた「ハケン」にまつわって、もう少し。

 今の「ハケン」の制度が不条理なのは言うまでもない。まずあの異常な「搾取」の仕組みをどうにかしないと、「働く」ことの意味からして世間の信頼を失い、腐ってゆきます。

 ただ、そんな政策的な話とは別に、今の「ハケン」にかつての口入れ屋に集まる人たちと違うところがあるとしたら、働く側が「個人」の「自由」を価値にしていることでしょう。

 確かにそれは「自由」ではあります。たとえば、かつて長谷川伸が記してみせたような渡り職人や渡世人たちと同じくらいには。「近代」黎明期の「自由」な「個人」の生。もちろんそれは安定や終身雇用とは全く無縁の、いつどこで生まれ死んでゆくかもわからない「名無しさん」の苛酷な人生です。しかしだからこそ、「誇り」や「矜持」がないことにはとても支えきれなかった。「自由」な生に同伴するべき「誇り」には、おそらくそんな「自分」を折れぬよう整えておく効用も含まれていました。

 思えば、地縁や血縁によるつながりがどんどんほどかれてゆく中、職場がかろうじて「共同体」であり得た時代が高度経済成長期でした。今やそこからも放り出され始めた「個人」は、むき出しの「自由」にさらされて生きてゆかざるを得なくなっている。かつては世間の一部の、そんな生を敢えて選ばねばならない境遇に限られていたような「自由」が、広く遍くうっかりと提供されてしまう現在。その苛酷さに耐えてゆけるだけの何ものか、それは哲学でも信心でも、はたまたごく素朴に身近な人のぬくもりであってもいいのですが、そんなささやかなよすがさえうまく持たされないままの「ハケン」全盛、「自由」万歳がわれらの現在です。

 だとしたら、そんな風に使い捨てにされるしかない今の「ハケン」の自分に釣り合うだけの「自由」の価値を、嘘でも自分のことばにして武器に変えようとしない限り、「働く」意味は回復されず、手もとには常にありあわせのやせた愚痴や妬みしか残らない。今の「ハケン」に品格がほんとに宿り得るとしたら、個々のそんな試練もまた同等に必要なはずです。

*1:いらぬ誤解がありそうなのでちと改稿。主な訂正・補足箇所は太字部分など。