ネット対マスコミ、という対立図式について

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 ネット対マスコミ、という対立図式は、すでになんとなく一般的になってます。確かに、そういう印象はあるよなあ、という程度にうなずけてしまうのも、そのひとつの理由でしょう。けれども、本当にその図式のまま、ここまでネットが普及してしまった今の情報環境で起こりつつある事態を理解しようとしていいのか、個人的には正直、首をかしげ始めているところがあります。

 確かに、インターネットが普及し始めた頃、前世紀の終わりくらいにはそういう状況は、現実にあった。ネットにアクセスするのはまだまだ限られた層で、何よりパソコン自体が明らかに趣味のもの、ウインドウズ98以前ならばDOSのコマンドを打ち込まないことには動いてくれなかったわけで、もちろん、ブロードバンド環境の整備などまだ行われず、さすがに一般電話線接続でなくてもISDN接続がせいぜい。定額の常時接続サービスも「テレホーダイ」(深夜23時から朝7時に限ったサービス)しかなかった状況では、今のように常時インターネットにつなぎっ放し、などということは、普通の個人ではちょっとあり得ませんでした。そのように考えればわずか十年足らずのことですが、いわゆるIT環境の変化というのは、改めて隔世の感があります。

 また、そんな風に手間もコストもかかっていたこそ、ネットでのやりとりが切実になっていたところもある。マスコミが当たり前のように流している情報に対しても、実はそうじゃないかも、といった視点からさまざまに勝手な補助線を引いてゆく、それこそ「ツッコミ」を入れてゆくような営みは、その頃のネットには普通に備わっていましたし、何より書き込む方にもある種の“熱さ”がありました、良くも悪くも。

 議論、というとちと大げさですが、いずれ無名の者たちがそうやってやりとりしてゆく中で、紛糾したり荒らされたりといったお約束のトラブルもありながらも、それでもそれなりの共通理解というか、穏当な落としどころみたいなものが見つかってゆくことも、また珍しくはなかった。単なる野次馬、それこそ妬みやひがみ、匿名性に隠れて「大衆」の悪しき属性をそのまま増幅したかのように見えもする者たちだけでなく、中にはある種専門性の高い、思わず「野に遺賢あり」とうなりたくなるような物知り、碩学、隠れた知識人の類も普通に跋扈していた、少なくともそのように見えたのが当時のネットをめぐる環境でした。


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 マスコミに対するネット、という自己規定も、そんな環境の中で育ってきました。

 それは表の現実、タテマエの声に対して異議申し立てをする、それまでのインテリ、知識人、エリートといった立場の自意識ともなじんで、「自分だけはわかっている」「自分だけは他と違う」という矜持が、ネットにアクセスする者に自然に宿るようになっていた。

 けれども、昨今の状況では、ネットとマスコミという対立図式でだけ見るよりも、マスコミもまたネットである、と言う方がより納得いくこともあるように思えます。それらは対立項でなく、ネットがつむぎ出してきた環境の変化の中にマスコミ自身もまたのみこまれ、変質さえしています。いつまでも対立項としてだけとらえていると、そのマスコミ自体の変質を見逃すことになりかねません。

 このようなパラダイムの変化が起きてきた背景には、ひとつ、ネット環境にアクセスするのにパソコンを使わなくても構わない層が急速に増えていった、ということも無視できません。具体的には、携帯電話を介してネットに参入してくる若い世代の存在です。彼らのリテラシーはキーボードを叩くことよりも電話のテンキーを入力デバイスとすることで、それまでの活字のリテラシーとの連続性からいっそう遠いものになっているところがあるようです。彼らに代表される、それまでになかった層がネットに流入してきている。それは、女性が急速にネットに関わるようになってきたのと並んで、ここ数年のネットをめぐる情報環境の変化の大きな要因になっているはずです。ネットは昔のネットならず、なのです。

 「ネットの闇」といったマスコミがよく使うもの言いも、その意味ではかなりもう、陳腐なものになり始めています。「闇」と言う側は光の当たる側、常識の宿る健全な側にいる、という気分があるわけで、それは戦前の「どん底」だの「底辺」だのを「庶民」「民衆」幻想と貼り合わせてみようとしたがる、古典的なインテリ/知識人の精神構造や世界観と未だ通底しているわけですが、そういう世界観、自意識のありようそのものが、ネットがここまで普及した今の情報環境ではなじまないものになり始めている。そのことに、ネット対マスコミ、にこだわり過ぎると気づかないまま、という危険性があります。


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 もしも、ネットに「闇」と比喩し得るほどの何ものかがあるのだとしたら、それは、人の悪意がうっかりと表沙汰になってしまう、そのことについてだと思います。

 ただ、それはネットによって増幅されたというよりも、それまでも世の中にあらかじめあったような種類の悪意が、ネットを介して不用意に見えるようになってきた、敢えて言えばそれだけのこと、だとも言えます。そのようにことさらに「闇」といった比喩で語りたがること、そのことの方がいまやよほど危ういことかも知れない。敢えて「闇」と言うなら、世の中そもそもそういうもの、なわけで、そういう認識をネットがもたらしやすくしてくれている、そういう側面の方にむしろ注目しておくのが、ココロの健康としてはまっとうなことだと思います。

 たとえば、あたしはもうずっと『サイバッチ!』というメルマガに関わっています。

 「入った情報はウラをとらずにとりあえず書き飛ばす」というのを売りにした、いわばアングラ情報系、ゴシップも含めたあやしげなメディアですが、もう創刊8年ほどになりますから、この手のメルマガとしてはもう古い方でしょう。実際、ネット草創期からやってきて未だに何とか生き残っているのは、珍しいかも知れません。

 よく「大月のやっているサイバッチ」といった言われ方もされたりしますが、別にあたしが主催しているわけじゃない。主催者というか、勧進元はちゃんと別に存在している。とは言え、確かに片棒をかついでいて、原稿も書いたりしますし、何より「暴力でぶ太郎」なんてキャラづけされて好き勝手に使い回されている分、なんかそういうイメージになるのもしょうがない。でも、それをいちいち訂正しようとも思わないし、何よりそんなことをしても始まりません。ああ、ネットを介したイメージとしてはそういう風に見られるんだな、と思って、その見られ方をまたわが身にフィードバックしてネットと関わる時の身のこなしに繰り込んでゆく、まあ、そんな感じです。

 このサイバッチに関わっている者の中に、現役のマスコミ関係者は正直、たくさんいます。どの程度関わっているかはともかく、彼らが日々仕事として接している現場の情報がないことにはこのメディアは成り立たない。その意味で、単に個人が思いついただけで続けられるものでもないことも確かです。それなりの目算と方法意識と、それを動かしてゆくある程度の経験と、危機管理のスキルの蓄積がないことには、この世知辛いネット環境であつかましく生き延びてこられるわけもない。なにしろ、「ウラをとらずに流す」が看板ですから当然、誤報誤爆は茶飯事で、そのたびに「またやっちまいました、うけけけけ」と卑しくごまかすのがお約束になっていますが、けれども名誉毀損だの賠償だのといったことにほとんどなっていないのは、「ウラをとらずに」というのもまた、ある程度コントロールされた“キャラ”に仕立てようとしているから、というところがあります。

 「サイバッチなんかソースにものを言うんじゃねえ」といった「常識」も、ネットにはある程度備わっています。それもまた、先に触れた「マスコミのくせにネットからネタ拾ってんじゃねえ」と同じ意味で、頼もしい「名無し」の価値観、メディアリテラシーの「民度」の反映です。

 現実に、マスコミの側がネットで流れている情報を素材にリリース記事をつくってゆくこと自体、もう珍しいことでもなくなっている。現場では当然、ネットも利用していますし、普及して便利に使えるようになった情報収集ツールのひとつとして、少し前までのように構えずに使うようになっている。もっと言えば、ネットを利用しないマスコミ関係者というのは、もし現実にいたら今やただの役立たず、でしょう。その意味でもう、ネット対マスコミ、という対立図式は、現実的にはあまり意味のないものになっているように思えます。

 実際、このところ一部で話題になることの多い J-castなども出てきた。ZAKZAKなどは以前から、ネット発の情報を意識的に取り上げて、仕事としてのスキルとフットワークで確認しながら情報として流してゆく手法をとっています。そのような方法的ポジションを積極的にとるメディアが、ネットとマスコミ、という対立項のはざまに今後、まだ出てくると思いますし、それは時代の必然でしょう。社会系や芸能関連のネタなどは言わずもがな、硬派と言われる経済や政治に関してさえも、初発はネットに流れた情報から表の報道につながってゆく場合があります。ある情報があったとして、それが事実かどうか確認し、利害関係ある方面から無駄にクレームや訴訟沙汰にならないよう配慮しつつ、何より広告主や代理店の意向も意識しながら、マス=〈その他おおぜい〉を相手どる限りはタテマエとしての「報道」を守らねばならない、つまりそういう責任を持たされてしまうマスコミの立場に比べれば、素人の匿名性、無名性をタテにしたネット空間は、なるほど、無責任な言いたい放題たれ流し、という面があるのは間違いない。

 それでも、おもしろいのは、「マスコミのくせにネットの情報で動きやがって」などと言ってクレームをつけるのは案外、ネットユーザーの方だったりすることです。ある意味、「プロ」のメディアであるマスコミに対する要求が高いとも言える。「仕事でやってんならもっとちゃんとしてくれよ」という感じでしょうか。その感覚は、正しく「大衆」のものとして頼もしくもある。誰もが電話を使う、テレビを見る、それと同じようにネットにもアクセスするようになり始めている、素っ気なく言えば、まあ、それだけのことです。

 確かに、いわゆるマスコミのこれまでのようなやりたい放題は、ネットの普及で大きく制限されることになりつつあるらしい。彼らが抱いていた特権意識が脅かされつつある分、敏感になるのもわかる。けれども、だからと言って、ネットがマスコミに「とってかわる」わけではない。並列に存在しながらその位相を変えてゆく、そんな感じです。ニュースに接するのならば確かにネットですむところは増えてゆくでしょうし、その分マスコミに頼らなくてよくもなるだろう。新聞や通信社の報道系メディアはネットを介して速報を随時流すようになっているし、物議を醸しつつもテレビなどの映像コンテンツもYouTube などのサーヴィスの出現によってどんどん勝手にネットに流れてしまう。マスコミという枠の中に囲い込まれていた
情報が、その外側の環境に流出し始めているのは確かで、その流れは当面、止めようのないものでしょう。

 敢えて言うならば、マスコミであれ何であれ、既存の〈リアル〉と対立関係にネットがあるのではない、今やネットもまたわれら同時代の現実、〈リアル〉である、ということをどれだけ穏当に認識することができるか、そのための態度を自ら保とうとしてゆけるのか、今必要なのはひとまずそういうことだと思っています。