最後の花道――忘れられたアラブのために

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 この国には、忘れられた競馬がある。

 忘れられてもうずいぶんになる。十年? そう、ざっとそれくらいには。

 ばんえい? 違う。もっときれいさっぱりなかったことに、事実確かにあったことすらもう世間の記憶から忘れられかかっている、そんな競馬だ。

 アラブである。そう、アラブ競馬。使うのはアングロアラブサラブレッドではない。正確に言うと、サラブレッドとアラブの混血。そのうちアラブの血量が25%以上あるものをそう呼ぶ。血統書や予想紙の表記では「アア」と小さく、馬名の肩のところにくっつくことになっている。

 ニッポン競馬のおおむね半分、地方競馬だとそれ以上がアラブの競馬だった。

 他でもない、あのJRAだってやっていた。いまから十二年前、95年を最後にJRAでのアラブ番組は全廃されたけれども、それまでは一日何レースかは必ずアラブのレースが組まれていた。たいていは土曜の午前中、まだろくに客の入らない頃にそそくさと、だったが、それはアラブ最晩年のこと。60年代前半まではJRA、当時は中央競馬の番組の半分がまだアラブだったのだからして。

 売り上げがあがらない、というのがアラブ廃止の理由のひとつにされていたけれども、そんな午前中じゃサラの競馬でもろくに売れやしなかっただろう。と言って、すでに市民権を得て右肩上がりの売り上げを謳歌し始めていたJRAが、いまさらアラブの番組を午後のいい時間帯にもってくるような真似をするはずもなかった。かつてはメインがアラブの重賞という頃が中央でもあったのだが。「時代の流れ」――その野蛮なひとことで誰もが何となくそれ以上深く考えないようになり、アラブ競馬はJRAから姿を消した。

 セイユウ、という馬がいた。今から半世紀も前、昭和30年代の初めに中央競馬で走った伝説のアラブ。生涯成績49戦26勝のうち、サラブレッド相手が重賞含めて5勝。セントライト記念でラプソデーやギンヨクなど同世代のサラの一線級に勝ち、オールカマーではハクチカラ、キタノオーといった今ならG?級とも接戦。なんと最後は天皇賞にまで出走した。「怪物」の名を奉られた最初の馬で、一応はJRAの顕彰馬にもなっているが、しかし、今はもうその記憶をまともに語れる者はほとんどいない。

 ついでに、いまはもうわかんなくなっちまってるけど、そのオールカマーだって当時はまさに文字通り、牝馬も牡馬も、アラブもサラも何でもこい、というレースだった。だからアラブも勇躍、サラブレッドに挑戦し、そして勝ってみせた。そういう時代、そういう競馬だったのだ、わがニッポンの競馬とは。

 中央のアラブなら、タマツバキの名前も出る。セイユウよりさらに前、戦後すぐの昭和20年代前半に走っていた馬だから、もはや神話の時代。なんと斤量83キロを背負って勝ったことでも知られている。競馬が今とはまるで違っていたとは言え、アラブのタフさを示すエピソードとしてその後長く語られたものだった。

 そんな神話の時代の後、地方のアラブがずっと強い時代が続いた。アラブ競馬の全盛時代、具体的にはおそらく80年代半ばから90年代初めくらいを頂点として、アラブに関しては中央よりも地方の方が賞金もケタ違いに高く、その分強い馬も集まるようになっていた。数千万もする良血馬、億の単位で種牡馬として買われてゆく現役の活躍馬も珍しくなかった。その頃の記憶が「アラブカネ持ち、サラ貧乏」というもの言いも生んだ。

「アラブカネ持ち、サラ貧乏」という。アラブ関係者がその日陰者の身から裏返しにプライドを保とうとする時に宿ったもの言いなのだろうが、それくらい、アラブ競馬は潤った。馬主も、厩舎も生産者も。サラよりスピードでは劣るものの、値段が安く、手もかからず、タフで一年中競馬を使えて、しかも走る血統からはクズが出ない。真冬でも真夏でも、月に二回、確実に競馬を使えることが求められる地方競馬の日常にとって、そんなアラブは欠くことのできない競走馬だった。


「ほんになあ、アラブは血統が間違いないからなあ」


 古手の厩務員、由緒正しい“稼業持ち”のひとりがしみじみつぶやいた。


「サラブ(註……往々にして彼らはこう言う)じゃとなんぼ母親が走ったゆうても、その子ぉが間違いのう走るゆうことはまずないじゃろ。ひと腹から一頭、どうかしたらそれもあたらん。それに比べりゃアラブは、上が走っとったらその下も、馬さえまともならまずクズは出ん。多少高いな思うても、安心してゼニ出せる、いうところがあったんやわ」
(拙稿「世に遠い、ひとつの競馬場――アラブ競馬最後の聖地、福山の挑戦」『競馬最強の法則』2005年5月)

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 「結局、ババを引くのはどこなんだろうね」
 
 十年ほど前、そう言ってうすら笑いを浮かべやがった、あの顔つきを忘れない。いずれニッポン競馬に責任ある立場のぼったくり……もとい、天下り……いや、その、とにかくまあ、そういう馬関係、競馬に携わる法人組織のエラいさんだ。

 アラブ競馬だけではない、地方競馬自体がなだれを打ってあちこちで廃止に追い込まれ始めていた。と言って特に自分ごととして思い悩みもせず、対策に奔走するでもなく、ただ遠く東京のやわらかな椅子にすわったまま、現場のうまやもんたちの窮状に比べりゃ理不尽な高給ふんだくり、何年かするとまた次の天下り先へと移ってゆく、そんな競馬に責任ある立場のエラいさんたち。当時すでに地方競馬と共に首を絞められ始めていたアラブについてどう考えているのか、尋ねてみた時のことだ。

 そうか、そういうことか。ババなんだ、アラブは。あれだけ世話になっておきながら、アラブゆえにまつわってくるあれこれの厄介も見てみないふりしておきながら、いざこうなっちまえば口ぬぐって知らんぷり、できればなかったことにして逃げちまいたい、そういう代物なんだ、彼ら競馬に責任ある立場のエラいさんにとっては。
ムカッ、ときたのが顔に出たのだろう、相手も自然、喧嘩腰になった。

 アラブなんてどうせテンプラばっかじゃないか。それにほれ、馬主だってややこしいのや危ない筋が多いしさ。せりったって補助馬だなんだとゲタはかせてもらって生産者いじめて、ごねてやりたい放題やってカネふんだくったり。生産対策とか能書きつけてカネ出してるJRAだって、ほんとははらわた煮えくりかえってるのさ。それをいまさらアラブを守れ、何とかしろ、と言われたって、盗人に追い銭、誰がもうビタ一文出すもんか。

 冷酒のグラスを気取った手つきでつまみながら、エラいさんは皮肉に口もと歪めてこう吐き捨てた――要するに、おしまいなんだよ、もう。

 テンプラ、とは、要するに血統詐称。アラブと偽りサラのタネ馬をつけてニセモノをこさえる手法。オバケ、とも言った。かつてアラブ競馬華やかなりし頃、一部の生産者や馬主に横行した外道なやり口。サラの血が入ってるんだから、そりゃ強い。怪物だ、化物だ、と呼ばれて何連勝もするようなアラブは、それが事実かどうかとは別に、とりあえず「ありゃテンプラだよ」ともっともらしく噂されるのがお約束、ではあった。

 さらに、補助馬制度がからむ。詳しく述べるとややこしいのでごくざっくり言う。95年の中央でのアラブ廃止以降、アラブ市場での馬の値崩れを防ぐためにJRAがやっていた、言わば買い支え。もともと中央のアラブも全部抽選馬で、その意味でアラブ生産自体がそのような下支えでようやく維持されていた歴史がある。それは70年代、当時の減反政策でやむなく馬産に転業した零細農家がまずアラブに多くなだれこんだ経緯も微妙にからんでいる。

 当初は95年から99年までの五年間、その後追加もあり、一説には総額20億から30億がアラブ対策に投入されたと言われていて、そして、その詳細は藪の中。 いろいろわけありでうちはもうアラブ競馬やめるけど、あんたら地方競馬はそうもいかんだろ、生産者だっているし、だから当分手当てはするからその間、サラに転換するなり何なり将来のことを考えてよ――当時のJRAの思惑はおおむねそんなものだったはずだ。一頭あたり200万円。タテマエを善意で解釈すれば、アラブ市場の価格を維持してソフトランディングさせる政策的配慮、だったと思うが、この種の補助金の常、ややこしい利権の温床に。

 減反で余った田んぼを牧草地にし、どこからか引っ張ってきた繁殖を年寄り夫婦で一頭二頭養いながら、サラブレッドより丈夫で手もかからぬアラブでしのいできた零細生産者が主のアラブ馬産。商売っ気のある手合いは手合いで、日陰の競馬をいいことに、補助金を馬主会ぐるみでむしりとるのがあたりまえになってゆく馬主や馬喰たち。いずれ世のならい、世渡りにはらまれるよどみの類。

 かくて自前で、自腹を切って馬を買う、馬主という道楽の最低限の矜持さえもいびつなものになってゆく。補助金漬けで地方を、地元に根ざした生を根太板ごと腐らせた、どっちもどっちの「戦後」のどうしようもない難儀。アラブのせりはせりじゃないべさ、始まる前にもう全部誰がいくらで買うか「下」で決まってるんだわ――生産者たちはそう言い、タテマエでとりつくろわれた市場購買価格の数字を眺めて力なく笑うばかり。

 そう、それらは正しく事実である。すでに歴史に繰り込まれつつある現実である。アラブをめぐる〈リアル〉とは確かにそんなもん、だった。だから、これだからアラブは、と、眉ひそめられもした。理由もあった。口で「アラブの灯を消すな」「地方競馬を守ろう」などと言いながら、そういうおのれはとっととアラブを処分して恥じない馬主会の幹部連がどこの競馬場にもいて、そしてまた実際に大きな顔をしてきた。そんな競馬が地方競馬、アラブが支えてきた小さな競馬の、ある部分の現実、でもあったのだ。

 「国際化」の大きなうねりの中で、ニッポン競馬自体はどんどん大きくきらびやかに、陽のあたるところに出てゆくようになってゆき、その一方で、アラブとその競馬だけはどんどんおおっぴらに語られない、日陰の競馬になっていった。それは、JRAに収斂されたニッポン競馬のイメージがいたずらに輝きを増してゆくのに比べて、鋭いコントラストを見せながら、「戦後」のニッポン競馬が抱えた矛盾が最もミもフタもなく現われる切羽になっていった。それらJRAの、つまりは農水省の政策的思惑に反して、南関東や岩手以下、地方競馬場の多くもまた我勝ちにアラブ廃止に殺到していった姿にしても、そう思って振り返れば、自分たちも同じように日なたに出たい、日陰者のままでいたくないという、それ自体は切実な想いの反映だったように見える。「時代の流れ」というあの無責任な言い訳も、また。

 しかし、どんな言い訳や斟酌を後知恵でつけてみたところで、馬に罪はない。いずれそんな人間の都合で配合されて生まれてきたアラブに、何の責任があろう。世のならい、時勢の赴くまま、波乗りよろしく儲けたのなら、その儲けただけのあいさつの仕方、仁義ってもんだってあるだろう。ならばいま、そのことに、どこの誰が、どんな形で思い至ってくれるのか。


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 東につぶれそうな競馬場があれば、行って叱咤激励して支えようとし、西にココロの折れそうなうまやもんがいれば、すすんでやせ馬を仕入れてきて預け、そんな七転八倒を頼まれもしないのに、ずっとやらかしてきた。

 馬を持つ。馬主になる。それもアラブを自分で走らせる。アホだバカだ、とさんざん言われ、笑われた。酔狂もいい加減にしろ、と諭されたもした。

 上等だい。そもそも、いまの賞金水準で地方競馬で馬持つこと自体がバカ丸出し。どうやったって割には合わない。ならばいっそバカついでに、忘れられたまんまのアラブを、できれば最後の一頭まで持ってやる。最後のアラブはオレたちで持ってような――かつて同じバカの眷属と言い交わした約束。それが彼らに対するせめてもの供養、誰ももう見向きもしなくなり、ことここに至っていまなお、競馬の世界で黙殺されたまんまのアラブに対するあいさつの送り方ってもんだ。そう勝手にココロに決めたのだ、このバカは。

 うわあ、あんたまだアラブ持っとるんかい――真情あふれるからかいを甘んじて受けながら、ケガをしたりガタがきてもまだ何とか走らせてやろうとする。馬にとっちゃ迷惑かも知れないけれども、でも、それくらいしかできない。おいおまえ、死にたくなかったら走れ。アラブだろ。いくら不遇でも、忘れられてても、戦後のニッポン競馬を支えてきた誇り高き血統の末裔で、しかもまだ今は現役バリバリ、立派な競走馬だろ。

 改めて言うまでもなく、今世紀に入って大分の中津競馬以来、益田、三条、上山、足利、高崎、宇都宮と、どこもバタバタ倒れていっている。すでにアラブがどうこうという次元じゃない、今のこの時代、馬主どころか地方競馬なんて抱えて立ち往生している主催者からして立派にバカ丸出し、「役人競馬」「財政競馬」の当事者として負け組である。 その並み居るバカの中でも、広島県福山競馬場というのはこりゃもうすこぶるつき、バカの優等生である。ついこの間、2005年の暮れまでは全馬アラブで番組を組んでいたのだから、すでにバカを通り越した人外魔境。いっそ男前ですらある。


 去年の夏、北海道は日高の一歳せりに、まだアラブが上場されていた。事前のエントリーでは四頭ばかりいたらしいが、とても売れないと生産者が引っ込めたのだろう、名簿に載っていたのは二頭。消えた馬がどうなったか。誰も知らない。聞くまでもない。

 地元の軽種馬農協が福山に電話してきて曰く、いまどきアラブなんざどう考えても買う人間が出る気づかいはない。それでも生産者がせりに上場したいと言ってくれば立場上いやとは言えない。ただせり場に出てひとまわりして帰るだけ、初手から主取り確定のアラブだけれども、申し訳ない、ここはひとつアラブを最後まで面倒みると市長自ら宣言までしていた福山さんが、何とか面倒見てもらえないだろうか。

 持ちかけられた福山の広島県馬主会、鳩首会談。おい、どうする。そりゃあアラブにゃ世話になってきたし、わしらええ思いもしてきた。腹いっぱいの競馬をしてきて、その長年のツケがひょんなことからまわって、おととしにゃ補助馬をめぐって事件になって競馬が止まりもした。大きな声じゃ言えんが、そんなもんアラブやっとった競馬場ならどこも同じ、いや、抽選馬をずっとやってた中央競馬とてご同様で、それは捜査しとった県警の刑事も言うとった。言わば競馬という稼業の暗黙の了解。それがちょっとした間違いで罪に問われてもうた。ああ、アラブか、福山か。みなにそがい言われてうちだけが悪もんになったけど、言うちゃなんやが、全部表沙汰にしたらいまある地方競馬全部がアウトや。 みんな想いはあるんや。いろいろあったけど、やっぱりアラブに世話になった、時代の流れで今はもうこうなっとるけど、でも、できるなら何かしたらな人としていけまあ。

 よし、わかった。買うちゃろう。けどな、すまんけどこれが最後。こっちももう馬持つこと自体きつうなっとるのばっかりやで、申し訳ないがこれだけしか出せん。で、これで年明け2月くらいまで養うてやってくれんやろか。それで全部コミ、これまでいろいろ世話にもなったこといっさいがっさい含めてうらみっこなし。そんな想いも含めてその二頭、うちで面倒見させてもらいましょう。

 今年のアラブ二歳、新馬戦が組めるだけの頭数がかろうじて揃いそうなのは、唯一福山だけ。アラブだけの番組がまだある荒尾も高知も、新馬戦などとても無理。その福山でさえ、かき集めても十頭内外か、と言われている。九州産の二歳も地元荒尾じゃもう新馬戦は無理と見て福山に集結中と聞くが、それでも何鞍組めるかはまだ未定。ただ、その中には、馬主会がまとめて面倒見たおそらく最後のせり購買の、この二頭が入っている。


 先に触れたように、その福山も2005年の秋に、サラブレッド導入に踏み切っていた。

 けれども、厩舎も馬主も長年アラブしか知らない者ばかり、サラを買うとて“つて”もなければ血統もよくわからない。古馬は何とか他場さがりを入れられても二歳の新馬はまた格別。恥ずかしい話だけれども、ここは一頭三十万均一で五十頭、集めてもらえないか。日高に声をかけたら百頭以上集まった。恥をしのんで常識はずれの額で申し出る馬主会側も辛かったろうが、すでに一歳の年の瀬、引き取り手もないまま売れ残って、中には種付け料も払えないから血統書すら出ていない馬まで混じるせっぱ詰まった季節のこと、どうせ横積みで肉にするなら、と、応じる生産者も血の出る思いだったはずだ。そんな中からの五十頭が、福山サラの新馬第一期生たちになった。

 当初はアラブより時計が遅く、どうせ三十万口やからなあ、と自嘲気味に言われながらも、それでも競馬に慣れてくればさすがにサラの血、先行有利の小回り馬場でも、ちょっと展開が崩れりゃ短い直線で一気に差してくるような芸当もまま見せる。はあ、えらいもんじゃのう、やっぱサラはサラやのう、と手練れの調教師に言わせるくらいにはなってきた。そうやって、「アラブ最後の王国」福山にサラブレッドは入ってきた。

 サラを入れたら今度は認定競走じゃろ。それまで足を向けたことのないJRAに主催者が日参した。最初は門前払い、話も聞いてもらえなかったが、二度、三度と足を運んでいるうちに、担当と会わせてもらえるようになった。福山さんはまず地域の交流競走でサラの実績を積んでもらわないと――そう言われて姫路の交流戦桜花賞へのステップレースに牝馬のサニーエクスプレスが福山のサラとして初めて参戦、果敢に逃げて二着に粘ってみせた。主催者含めて馬主や厩舎関係者が団体で応援に出かけ、地元放送局に「盛り上がってますねえ」とあきれられたが、その甲斐もあって、今年から認定競走四鞍がJRAから認められた。去年は三十万口のサラやったけど、認定とれるならいっちょパリッとしたの入れたる、というわけで、今年のサラ二歳新馬は能力検定から好時計も続出。福山所属のカク地が小倉や阪神に勇姿を見せる日も、近いかも知れない。



 そうだ、去年には、ローゼンホーマの里帰り、というのもやっていた。

 ローゼンホーマ。かつて兵庫の園田と並んで「アラブのメッカ」と称された福山競馬最大の英雄。一番の金星は大井の全日本アラブ大賞典。JRA含めて日本中からおらが競馬場、うちの地元の大将格が集まっての暮れの大一番。賞金も一番高い時で五千万円近く。72年から「全日本」がつく全国区になり、97年に終焉を迎えるまで、アラブ競馬の最高峰、有馬記念と甲子園が一緒になったようなレースだった。

 それを勝った福山唯一の馬。種牡馬になり、アラブの衰退に伴って日高で余生を送っていたけれども、もう二十歳、先も長くないだろうから最後にもう一度、名前を冠した重賞ローゼンホーマ記念にあわせて地元のろくでなしたちにあいさつさせたろうや。

 当然、予算はなかった。でも、なんだかんだで捻出してみせた。彼を繋養していた牧場も心意気に応じて協力してくれた。そうやって2006年3月、ローゼンホーマは15年ぶりに福山競馬場に立った。現役時代の勝負服をまとったかつての主戦騎手、今は調教師の那我性哲也を背に彼は二日間、何度か小さなパドックをまわり、地元の古いろくでなしたちと言葉を交わし、記念写真を撮り、本馬場もゆっくりと往復してみせた。

 えらいもんやなあ、まだ走れそうやなあ、とくしゃくしゃのスポーツ紙片手に、これまた主催者手作りの顕彰コーナー、当時の写真や肩掛けはもちろん、なつかしい予想紙から登録証までパネルに貼り、古びたテレビに現役当時の映像を流したまるで中学校か高校の文化祭のような一角にたむろしていた福山のオールドファンたちは、なつかしい戦友にまた会ったような顔でいつまでも強かった日の彼のことを語り合っていた。

 そんな素敵な数日間を過ごした後、北海道に戻って半月ほど、彼は逝った。余生を牧場で過ごすことのできたごくわずかの幸せな馬たちの多くがそうだったように、気がついた時には放牧地で倒れていたという。高齢で福山との往復がこたえたんだ、と陰口を叩く向きもあった。だが、仮にもしそうだったとしても、アラブ競馬が最も輝いていた時期に福山に生きた戦友たちに、最後の最後にあいさつに訪れることができた、そのことを彼は喜んでいたはずだ。


 その福山が今年、またぞろ酔狂を始めた。最後のアラブの全国交流競走をやる、と言い出したのだ。

 アラブそのものがもういなくなってるし、全国交流やれるとしたら今年が最後やろう。いっちょ最後のひと花、一発パッと打ち上げ花火、そりゃ五尺玉とはいかないけれども、三尺玉くらいはやったろうじゃないか。葬式やなあ。そうじゃ、葬式じゃ。アラブの葬式。それを福山がやったるんや。うちがやらにゃもうどこもせんまま終わってまうじゃろ。

 かつてJRAのアラブ重賞で、中央でのアラブ廃止以降、地方競馬側に渡されて持ち回りで名前だけ残っていた金看板、セイユウ記念、タマツバキ記念の名前をできればふたつ、まとめて冠にしたろ。もともと中央から預かったもんじゃけ、これで返上するのがスジやろ。なんか暴走族が解散式で旗を警察に持ってくみたいやなあ。まあ、そんなもんや。祝儀よこせとは言わんが、一応趣旨だけは向こうにも伝えとこう。ほんまは場外で馬券売ってもらえたらええんやが、JRAどころか南関東でさえ、アラブだけはダメです、うちじゃ売ることはできません、言うてきよるからのう。なんでかのう。

 6月10日(土)。福山競馬場。仮称「第七回アラブ大賞典 タマツバキセイユウさよなら記念」これが正真正銘、本当に最後のアラブ全国交流重賞。一着賞金○○○万円の一発勝負。
ちなみに5月3日現在、福山以外の全国のアラブ現役馬在籍頭数は、金沢三頭、愛知八頭、岐阜三頭、高知三四頭、荒尾三五頭の計八三頭。福山在籍のアラブ、○○○頭。しめて○○○頭。泣いても笑ってもこれが最後のアラブ、ここから先、もうどこにも行き先はない。それぞれの競馬場でただ走って、そして少しずつ姿を消してゆくだけだ。

ずいぶんとごぶさたしています。
もう忘れてしまわれた方がほとんどでしょうか。


アラブです。元気です。
まだ走っています。


さびしくはありません。まだ競馬はありますから。
月に二回、お客さんの前に元気な姿を見せられますから。
生きている証を示せる舞台は、ぼくたちに残っていますから。


でも、そろそろお別れが近づいているようです。


福山、高知、荒尾……
今の今までアラブだけの番組を組んでくれていた競馬場でも、
今年はもう、新馬戦が組めるかどうか、わかりません。
馬産地では、新たに生まれる仲間ももういない。
あとはもう、サラブレッドと一緒に競馬をするしかありません。
そして、今いる仲間が順番にいなくなれば、
もうアラブの競馬は日本の競馬の歴史から、永久に姿を消します。
そういう時期、そういう節目にぼくたちは生きているようです。


そんな中、
福山競馬場が、ぼくたちに最後の舞台を用意してくれました。
セイユウタマツバキ
かつての中央競馬、今のJRA所属のアラブの、
伝説の大先輩の名前をふたつ借りて、
さあ、これが最後のアラブの全国交流競走です。


ちょうどダービーの季節、全国あちこちでダービーが開かれます。
でも、福山は、ぼくたちの最後の花道です。
よかったら、どうか見に来てください。


ご心配なく。
このレースの後も、それぞれの場所で、みんな最後の一頭まで走り続けるつもりです。
サラブレッドを負かすつもりで精一杯がんばります。穴もあけます。
ただ、アラブとして全国のみなさんにあいさつできるのはこれが最終回、
ほんとのフィナーレ、ということになります。


この国の競走馬として、アラブとして生まれて、
この国の競馬の歴史に足跡を残すことができて、とても幸せでした。
ありがとう。そして、さようなら。
どうかお元気で。