浪花節がつくった日本の近代

浪花節浪曲。日本人のメンタリティーを語るとき、必ず語られる一方で、古臭いものと否定されることも多く、今は耳にする機会も少ない。しかし、四月から札幌国際大人文学部現代文化学科教授を務める民俗学者大月隆寛さんは、浪曲こそが日本を国民国家にした原動力だった−−とその重要な役割を指摘する。(聞き手・橘井潤)

 −−浪曲は昔のもの、古いものと思われています。

 「それがそもそも誤解なんですよ。江戸時代からあった落語などと違って、浪曲は明治の初めには影も形もなかった。今の東京・秋葉原辺りの原っぱにいた、『阿呆陀羅経』という今で言うラップのようなものを語って投げ銭を稼ぐ乞食坊主や、中世以来の説教節などがルーツと言われています。演じていたのも多くは貧乏人や下層の人たちでしたが、それが明治になって爆発的に人気を広げていったんです」

 −−明治の初め、社会が大きく変わった時期ですね。

 「資本主義の勃興期、労働者が集まってくると、彼らの気分を反映した芸能が生まれます。アメリカではそれがブルースからジャズになった。浪曲もよく似た歩みをしています。落語や講談が町人の教養だったのに対し、旧社会が解体して生まれた新たな庶民=国民にとって、浪曲は日々の気分に合った最も身近な娯楽として登場した。とは言え、字の読めないような連中がやっていたので、言葉遣いなどはめちゃめちゃ。『夏とはいえど片田舎』なんて平気です。だから教養ある市民層からは忌み嫌われて、夏目漱石芥川龍之介浪曲が大嫌いでした。ちょうどかつての矢沢の永ちゃんや、今だと『ケータイ小説』にも似ているかも。めちゃめちゃで型破りで敬遠されるけれど、でも、広い支持を得ているあたりが」

 −−自由民権運動とも関係があったとか。

 「演説が?演舌?と書かれていた時代。『雄弁』が求められ、『壮士節』などがはやった。浪曲もそんな雄弁の一つでした。今では考えられませんが、政治演説会の合間に浪曲をやるのも当たり前だった。演舌も浪花節も盛り上がることでは一緒だし、場合によっては会場の巡査とけんかもできるわけで、だから人も集まった。日本の民主主義を作り上げる過程では、実は浪曲も深く関わっていたはずです」

 −−庶民にとって身近な存在だったことが分かります。

 「戦前のレコード産業は浪曲でその基盤を固めました。またラジオの発展も浪曲なしでは考えられなかった。戦地の慰問でも浪曲は断然人気でしたし、銃後でも炭鉱や漁村など近代の最前線で命懸けで働く人たちの心の支えでもありました。戦後、NHKが『のど自慢』を始めた当時も、浪曲のさわりをうなって出場する人が大勢いましたしね」

 −−それがなぜ、ほとんど顧みられなくなったのでしょう。

 「戦後の占領政策の中で、浪曲は武士道や義理人情など封建的なものを題材にした古い芸能、と批判されました。でも、それはとんだぬれぎぬで……浪曲に描かれている侍なんてみんな貧乏でべらんめえ調ですし、単なる職人の貧乏ばなしですよ。もともとそういう連中が演じていたわけで、『武士道もついにやつらに鼓吹され』なんて、皮肉った川柳が残っているくらい。戦後の進歩的立場からの浪曲批判は、全くお門違いだったんです」

 −−誤ったイメージが広がって、廃れていった…。

 「それと何より、日本の社会が豊かになって、浪曲に描かれているような暮らしや感性が身近でなくなってしまった。僕らが子供のころはまだ浪曲を耳にする機会がありましたから、『食いねえ、すし食いねえ』とか、『妻は夫をいたわりつ』とかのさわりも記憶にある。でも、今の学生はそうはいきません。高度成長を境目に、世代の間で文化が断絶してしまいました」

 −−そう言えば、植木等の「ニッポン無責任時代」(62年)で、敵役の社長がラジオで浪曲を聴いていて、会長に「古臭い」としかられる場面がありました。

 「そのころがちょうど転換点だったんでしょうね。でも、日本の国民国家をつくった浪曲という芸能を、このままなかったことにしてはいけない。北海道は炭鉱や漁業が盛んだった土地で、浪曲に親しんだ人も多かったはずですし、これから旧炭鉱街や漁村などでそのへんも含めて、じっくり掘り起こしてみたいですね」

 もともと地方競馬や牧場をフィールドにした日本競馬のユニークな研究で知られてきた。馬主でもある。その一方で手がけてきた浪曲の研究も、北海道を足場にまた新たな展開を見せてくれそうだ。