永田町オンナ議員=プレデター、説

 「オンナが人前で大声を出せばキチガイかと思って人が寄って来るだろう。」

 実のオヤジにそう言われて演説に立ったのが最初だったそうだ。園田(松谷)天光光。オンナの国会議員第一世代のひとりの追憶談の一節。敗戦直後、場所は新宿駅西口だったとか。いやあ、実に趣き深く、かつ素晴らしい。

 人前に立って何かものを言う、不特定多数の視線にうっかりと身をさらしておのれの意見を叫ぶ、それだけでもすでにカタギではないのに、ましてそれがオンナだったりしたら速攻でもうキチガイ確定。ああ、それこそが「オンナだてらに」などのもの言いとの背景に、かつてわれらニッポンの世間が確かに共有していたまっとうな感覚だった。

 しかし、今やそれはどこかで逆転、ないしはねじれちまってるらしい。だって、人前に意味なく出たがるようなやつはまともじゃないし、ましてそれがオンナだったら速攻でキチガイ確定、だったのが、キチガイでオンナなんだからいっそ人前に出しちまえ、になってるわけで、カラダを張ってなお言うべきこと、たとえキチガイと思われようが何か世間に訴えねばならないことがおのが内部にあるのかないのか、そのへんすらロクに確かめないまま、単に自意識肥大任せに目立ちたい、漠たる世間にただ見られていたい、という始末におえぬ欲望だけで立派なキチガイと化したブツが、因果ものの見世物よろしく人前にしゃしゃり出て、出ちまった以上は何か能書きのひとつも言わねばならないからやっつけ仕事の切り貼りで、そこらに転がっている耳タコのもの言いや陳腐な能書きをパッチワーク、かくて一夜漬けの泥縄どころではない、実に貧しくも情けない水準ののっぺりした「政治」のもの言いばかりが公然と世にまかり通るようになっている次第。

 それこそがいまどきの「政治」、メディアの舞台ともの言いとの対応関係が抜き差しならないものになっている高度情報社会状況下での「民主主義」のありようであり、とりわけ、選挙区というドメスティックな〈リアル〉に全く足をつけずにすむ比例区の選挙が設定されている参院選では典型的に現われてしまうような現在、ではある。そして、それは直近では「小泉チルドレン」(笑)と呼ばれた一群の、片山さつき佐藤ゆかり、はたまた「タイゾー」杉村太蔵などに代表される、いずれ不用意に議員になっちまった連中に典型的に現われた。

 しかし、重要なのは、それが単に自民だの民主だのをはるかに超えて、ニッポンのいまどきの「政治」一般にまで、どうやら敷衍できる症状らしい、ということだ。

 現に、「チルドレン」以前、民主党がかの“永田メール”の一件(業界札付きのヨタ記者の持ち回ったガセ“陰謀”ネタメールに党ぐるみで食いついて国会の予算委員会審議を停滞までさせた壮大な茶番)や、党期待の若手議員(笑)細野豪志が三流女性キャスター(山本モナ@現在はオフィス北野所属のお笑い系)とまるで昼メロのロケのごとき不倫密会現場を無防備に撮られて格好のワイドショーネタになるなど醜態をさらして「ブーメラン政党」(勢い込んで与党批判を展開したネタが次の瞬間、まっすぐおのれに返ってきて自爆がお約束、という意)の名を奉られた経緯でも、それらいまどきの「政治」一般に広がるヘンさ、恥ずかしさが前提となった症状が繰り広げられていた。

 与党/野党、世代や性別を問わず、まさに「平等」にとりついているらしい、「政治」まわりのこういう「恥ずかしさ」。それは世間におおよそ察知はされていても、しかし、まだつぶさにはことばにされるには至っていない。


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 「小泉チルドレン」が、主にその中のオンナの議員の行状を介して語られるようになったのには、それら「政治」の「恥ずかしさ」の現在と関わるところで、おそらく理由がある。

 そもそも、オンナが政治の舞台に進出する、というのは、「戦後」を象徴する現象ではあった。敗戦後に女性参政権が認められ、戦後初の普通選挙でオンナの代議士が39人も一気に誕生。当時としてもかなりトンデモなのも混じっていたけれども、それはそれ、以後も長らく「オンナの議員」は「戦後」の民主主義を象徴するものとしてわれら国民の意識に刷り込まれてきた。

 おおむね、野党の方がキャラが立っていた。「庶民」「市民」「暮らし」の側に立ってくれる正義の味方、てな属性は野党候補だからこそ自動的にくっついてきて、「賢いオンナ」「自立した女性」という、それこそ戦前の青鞜一派の大正デモクラシー由来、『人形の家』のノラこのかたの伝承も複合、それ自体「戦後」の「民主主義」を語るある種のフォークロアとして作用してきた。

 逆にその分、与党側つまり自民党に象徴される「保守」の側から出馬するオンナは、まるで脂ぎったオヤジの妾、汚れた資本家のそのまた手先とつるむいかがわしい愛人、てなキャラにされてしまうのがなぜかお約束だった。そういう妾系キャラは、今だと小池百合子センセあたりになお揺曳しているが、でもあれも女子アナ崩れだから過渡期の複合型で、実は扇千景などの方がよほど本筋。だってタカラヅカだぜ、あれ。根っからのヅカおたくだった桜内義雄あたりがご存命なら議員席で本気で萌え……あ、いや、泣いて喜んでいたはずだ。

 野党系オンナ議員キャラが世間の眼にもわかりやすく立ってきたのは、中山千夏あたりからか。70年代初め、青島幸雄や立川談志コロムビアトップなどと共に参院選に出馬し、当選。「タレント議員」というもの言いの出てくるきっかけもなった。その多くは野党系キャラで、中山自身はその後も美濃部都政に同伴したり、ポスト高度成長の過程で左翼のサヨクプロ市民化ときれいに同調していった経緯などは、吉永小百合と表裏一体、団塊オヤジ世代の偶像の双璧。思えばあの福島みずほ、いや、辻元清美でさえも、そういう野党キャラのオンナ議員の残り香くらいは漂わせている。位相はどうあれ、オヤジを頼り、そのオヤジぶりを前提に自分の身振りも規定する。現われ方やキャラの違いはあれど「オヤジ」が世の中心であり、そことの関係で「オンナ」であるおのれの身振りも決まってくる、という一線は、当時まだ揺らいでいなかった。

 けれども、その後「オヤジ」(=キャラとして世間的に認知された“社会化された個人”)のありようが変わらざるを得なくなってゆくのに従い、オンナの側のキャラも影響を受けてゆく。たとえば、冷戦構造が崩壊、「戦後」の枠組みが揺らいでくると共に、オンナで国防、軍事といった天下国家を口にするキャラも出現するようになった。高市早苗あたりがそのハシりか。「保守」キャラでオンナは珍しかったからそれなりにポジションは確保できたようだが、昨今「保守」も通俗化し世渡りブランドとなったので有象無象、丸川珠代あたりまでが参戦してきてるし、院外でも桜井よし子といった超大物がいつでも登板可能でスタンバイ、いずれにせよ押し合いへし合いでこの先どう転がるやら、これはこれで眼が離せない。


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 少し前、野田聖子が「最初の女性総理候補」と言われたこともある。今考えても正気の沙汰とは思えないのだが、しかしそれは、そんな野田を持ち回った自民党守旧派オヤジたち、それこそ野中や古賀、山拓や森などの下半身がどういうものか、の正確な反映だった。つまり、野田聖子のようなオンナ議員キャラを、勘違い含めて「あり」と思ってしまうようなもの、という意味での、だ。

 とは言え、その野田に対する「刺客」として送り込まれたのが佐藤ゆかり、なのだから、守旧派に対する当時の小泉一党、改革派オヤジたちの下半身も何をか言わんや。

 佐藤ゆかり上智大外国語学部からコロンビア大政治学部に、大学院で修士号もとり、さらにはニューヨーク大大学院で博士号までかっぱいで帰国、日興シティからJPモルガン、クレディスイス外資系金融証券業界を渡り歩いた御仁で、母親はオンナ社長とか。当選直後から、年上のテレビプロデューサー、大手マスコミ幹部その他とダブル不倫がバレて炎上、下半身のゆるさと脇の甘さはその後も間歇的に暴露が続いている。

 同類の片山さつきもいいタマだ。静岡七区の城内実郵政造反組に対する「刺客」のミッションを担って当選。元はミス東大(笑)で、桝添要一のヨメだったこともある。卒業後は迷わず大蔵省へ。フランス留学後、主計官にまで上り詰める。週刊誌等での人となりについての関係者コメントは「勝つためなら手段を選ばない」、(選挙区での土下座パフォーマンスについて)「男らしい、というのも変ですが、ずいぶん強気に感じました。誰かの指示があって一つの儀式としてやらされた印象でした」。当初は小泉流の改革派だったはずだが、安部内閣辞職のドサクサの中、手のひら返して勝ち馬に乗ることを選択、物議を醸した麻生“クーデター”説を広める発信源と目されたり、立ち回りぶりはさすがだ。

 いまどき耳目を集めるこれらのオンナ議員には、少し前までの「戦後」系とは違いがある。これは国会に限らず、県会や市会議員レベルにまで共通しているのだが、ごくざっくり言って、高偏差値系の悪相がすでに標準になっているのだ。

 自分をアピールする機会はマメに逃さず、そこでの目立ち方はまず型通りにおのれのキャリアをひけらかしつつ、同時にとにかくそういうキツいポジション、役回りについて「頑張ってるワタシ」ってのがデフォルト。もちろん、その「頑張り」をアピールする前提としてはやはり「オンナ」という条件を意識しているわけで、その程度には未だ「オヤジ」に対する関係性の中で自分の立ち位置を決めようとするところはあったりするのだが、しかし、しな作って媚びを売り、時に下半身がらみも含めてあからさまに「オンナ」という意識の仕方はひとまず表面化させない、できない。要は、セクシュアリティの領域をあらかじめ抑圧したところで「自分」をアピールしなければ、という意味での「頑張り」なわけで、ああ、これぞまさに高度経済成長以降に全域化していった学校偏差値的世界観に規定された自意識の立派な戦争機械。これがオトコに出りゃ、フェミニズム系言説に過剰に共感を示してみせたりする、一時期よくいたポストモダン系バカになったりするのだが、残念ながらニッポンのフェミ言説自体、オンナの高偏差値からは、世渡りの方便としてはともかくホンネじゃバカにされる程度のシロモノだったから、選良意識のトンがり具合が閾値を超えたオンナはそちらの方向に自意識肥大の出口なんざ見い出さない。

 かくて、おのが身体性の水準、セクシュアリティすらほぼ完璧に「学校」的世界の内側に封じ込めることに不幸にも成功したオンナ型高偏差値プレデターが出現、超伝導なチュープ状態の偏差値的世界観をその「優秀さ」全開のまま滑走を続け、マスコミや官庁、学者にエコノミストといった本質はこれまた同じの高偏差値チューブ内経路を介して、行き着く先を求めて「政治」にまで浸透を始めてきた、という次第なのだ。

 しかし、いかにプレデターと化していても、もとがニンゲンである以上、どこかで生身の部分に裏切られるのもまた必然。それが証拠に、彼女らの多くはその頑張りを生身の側が支えきれず、ジェンダーだの何だの以前に、まずそもそも生きものとしての部分にムリなしわ寄せがきている印象においてどこか共通している。何よりそれは、世間の側には微妙な違和感、ことばにされない気分の水準で敏感に察知されている。

 たとえば、妙に髪が“こわい”、というか、そういう自意識の油断がなぜかヘアスタイルや、髪の毛そのもののたたずまいのヘンさにまでうっかり出てきている感じ。あと、なんか胃も悪そうだしなあ、口臭あるかも。歯ぎしりもしそうだし。肌にしたって、顔や首筋、手先などの見えやすい表側はいまどきのこと、それなりに気を遣ってるだろうけど、でも、背中や二の腕のうしろ側とか、膝の裏やくるぶしなんてところがきっとこれまた気づかぬ荒れ方してるような気が。その意味で、猪口邦子みたいにその衣装や化粧で、その平衡を失した自意識をわかりやすくさらけ出してくれるのは、まだまだ旧タイプ。このプレデター世代はそんなわかりやすいキチガイぶりは見せない分、そのフシアワセも根深いものと思い知られよ。

 かくて、いまどきのオンナ議員ってやつは、ああ、仕事ができる(ということになってるし、当人もとう思ってる)オンナってのはこういう種類のフシアワセをうっかり体現しちゃうのよねえ、といった認識を広くわが同胞に知らしめ、それらも含めて世間の耳目を集めてしまう、そんなパイロットになっている。で、これらプレデターの身振りや立ち居振る舞いは、昨今、おおむね四十歳くらいから下の世代に深く静かに広まりつつある「おんなぎらい」の気分とも、どこかで正しく対応してもいることも、忘れずに指摘しておこう。

 あ、そう言えば、これら高偏差値系オンナ型プレデターの代表格は一体、都内千代田区千代田一番地にもすでに納入、されてましたっけかねえ……