ネットに宿る「なつかしさ」

父が昭和を支えたのは俺たち団塊だとかいい、
母が創価学会池田大先生大勝利だとかいい、
兄が環境問題地球温暖化CO2削減エコだとかいい、
姉がスピリチュアルだ波動だ水の伝言だとかいい、
そんな家族に囲まれて今日も僕はひきこもりなのです。


 ネット空間とは、実は世代間「格差」のるつぼである。若い者だけがインターネットに接している、などというのはすでに過去のこと。よほど鈍感なマスコミや評論家でも、そのような妄言は吐かなくなった。その程度に用心深くはなってきている。

 けれども、心の習慣というのは恐ろしい。後発の新しいメディアは常にそのような「若い世代」「新しい層」によって支持されている、という物語はなかなかに頑迷固陋。「若者」とインターネット、という組み合わせで何かを語れるかも、と思ってしまう手癖は、ルーティンで便利であるがゆえに厄介だ。特にマスコミにおいて。

 現実には、今や携帯電話からネットに参入してくる層こそほんとのニューカマー。キーボードとパソコンをあやつりながらネットに積極的に何かを書き込んだり、互いにやりとりをかわしたり、文字を介した相互交流に憂き身をやつしているのは案外「おとな」たち。

 だからかも知れない、ほんのちょっと昔を、漠然とした「戦後」や「昭和」をなつかしむような流れもまた、ネットの片隅に常に一定の確立で浮かび上がる。『三丁目の夕日』の影響というだけでもない。ネット空間に、そこに蝟集する気分に、おそらくはあらかじめ一定の比率で組み込まれている、永遠の「なつかしさ」への志向。誰であれ、回線の向こう側にたたずんでいるはずの具体的で個別の人生に、ふと意識の焦点を合わせてしまうようなことがあれば、その瞬間からそんなノスタルジアが心を包み込んでゆく。

ネットが無い時代、別に辛いとは思わなかった。
ネット以前にあったパソコン通信とか、さらにその前のハムとか、やりたいとは全く思わなかった。
その頃のテレビやマンガやゲームは最高だったから。
今のネット文化がその頃のネタを転がしてるだけなのは、何?

ネットの大勢の愚民のネタを読んでる今よりも、少数の天才が作った一つのゲームにじっくり触れてた頃のほうが、むしろ孤独を感じなかった。

生まれた時から携帯電話やインターネットがある世代は、明らかに人種が違うと思う。
・彼女の家に電話するのに親が電話に出たらどうしよう、というドキドキが皆無。
・夜中でも本人直で電話やメールができるから、「今頃なにしてんのかな〜」という想像力の欠如。
・スグに連絡がつくから、待ちぼうけや行き違いがなくなり、ドラマチックな展開は無くなった。
.告白も別れ話も携帯やメールで一方的に伝えてハイ終り。
いろんな想像力が無い、と言われるのも分かる気がする。便利すぎて考える前に何でもスグ結果が出る。

女の子の家とか、仲間の家とか親に電話取られず連絡つけるために、時間決めとか、合図コールでワン切り後とか。そんな苦労はなくなったな。今じゃ携帯で直通だもの。

今にして思うと、よく携帯なしで生活できたと思うw
バブルの頃のドラマとかたまに再放送で見ると、一番の違和感は服装や髪型じゃなく、携帯の有無だな。

 若い世代が「昭和」と呼ぶその中身には、戦前も前後も一緒くた、どうかするとバブル期あたりまでひっくるめて語っていることも。是非もない。高校生ならばすでに平成生まれ。三十歳の勤め人でも、ものごころついてしばらくした頃に昭和天皇崩御、年号が変わっている勘定。いや、そんな彼らの親の世代からして、すでに昭和三十年代生まれ、まさに『三丁目の夕日』の中の子どもたちのなれの果て。あの中で青春を謳歌していた者たちはというと、嗚呼、すでに高齢化社会の中核を担う立場で、何とか年金すら享受できている「勝ち組」の側。

 このような「格差」を思い切りはらみながら、ネットという場は液晶ディスプレイの表層に、平等に想いを映し出し続ける。改めて静かに凝視してみれば、今の日本という国が抱え込んでいる「世代」というもののとりとめなさに、そこに実際にはうまく語られぬままよどんでいる「格差」の膨大な細部に、思わず遠い目になることも。

しょ
  う
   わ

って発音するやつ死ねばいいのに。

戦前はそれがデフォだったらしいぜ。高度経済成長あたりから平板化して
平成からまた元に戻った。ソース:うちのアナウンス部長。

50代が三丁目の夕日を見て懐かしみ、
40代はバブルへGOとかほざいてて、
30代がセカチューでノスタルジーに浸り、
20代すらニコ動やようつべで懐古、懐古。

 そのような書き込みは文字が未だに主流。その一方で、ここ一年ばかりで動画を掲示板のように貼りつけて互いに眺めてコメントをつける、そんな仕掛けも一気に広まり、ネット上のコンテンツとして急激に確かな足場を築いている。昔のテレビ番組や映画、市販のDVDなどから「違法に」抽出し、クリップしてゆく映像の断片から、どこかの誰かが撮っていた名もない家庭のビデオ、外国のサイトから拾ってきた古ぼけたニュース映像などなど、縦横無尽に貯め込まれ、クリックひとつで供覧。ましてや、そこにいちいち文字でコメントを付して“ツッコミ”を入れてゆくサービスまで登場。あらゆる映像、動画素材がネットを介して共有され、互いの想いをはからずもとりまとめてゆく場にまでなってゆく。

 いまや、「昔」もまたそのように参照されるデータベースとして編成されてゆく。「歴史」という言葉の意味や手ざわりもまた、否応なく変わってゆく。教科書の片言隻句や不作法な近隣諸国の十年一日な難癖にかかずらわって手間取っている間に、当の同胞の間の「歴史」自体がその姿をみるみるうちに変え始めている。そして、そのような変貌は最も足もとに直結した「歴史」、それを生きて経験してきた者たちが未だ語り部として現存している程度の「昔」からこそ、始まってゆく。だからこそ、実体験からの違和感もまた滲み出してくる。

昭和30年代がいい時代だったわけがない。
道路舗装下水道整備が行き届かず少しの雨でも泥だらけ水浸し。
新聞のページ数もテレビラジオのニュースの時間は今よりもずっとずっと少なく、報道されない事故淫行わいせつ事件食品偽装だってずっと多かっただろう。
コンビニやスーパーマーケットチェーンさえ無いので、盆暮れ正月の事前買い出しを忘れたら飢え死に確定。古事記基地外DQNが町にあふれ、公営ギャンブル場では暴動焼き打ち。そういうのが幸せなのかというと…はてさて。

白装束の傷痍軍人の募金(物乞い)が大都市駅頭で見られたのは昭和50年代くらいまでかな。プロ野球優勝で観客の球場グラウンド乱入は星野中日が最後かな。

「昭和はよい時代ですた」と本気で言ってる香具師って事件事故のデータ見ない隠蔽体質なんだろな。監視社会でモラルに五月蝿い今のがマトモだろ常考。少年時代のノスタルジーに浸るだけでいい。昭和時代に戻りたいなんて思わんぜ。

1980年代の若者に関しては、
汚れた社会が悪いんだ、子供や若者達は社会の被害者なんだ、
みんな腹黒い大人達が悪いんだ、
必死に詰め込み受験勉強して、大学出て、企業に入って、
終身雇用で決められたレールの上を走るだけの虚しい人生。
と言うステレオタイプな若者感をマスコミから与えられて、それを信じて甘えてる奴も多かった時代でもある。今にして思えば「決められたレール」がどれだけ恵まれたことだったか……

 今が決して幸せではないらしい、そんな気分は確実に蔓延している。とは言え、飢えや疫病、治安の悪化など、誰もが納得するような「不幸」の指標が具体的に日常化しているわけでもない。さよう、何かと持ち出されるあの「格差」にしても、本当の意味での「貧乏」の内実に裏づけられているものでは決してないのが昨今の日本。グローバルスタンダードの貧乏からすれば鎧袖一触、鼻で笑われるようなものだろう。

 けれども、気分としての「格差」は厳然として共有される。いや、気分が本体であるがゆえに解消もしにくい。景気が良くなり、給料があがり、ささやかでも暖かな家庭がこの先、現実のものになっても、やはり今は決して幸せではない、という気分は消えないだろう。今の日本が抱えている不幸の本体とは、そんな自分たち自身未だうまく意識もできなければ、言葉にしてまわりに説明してゆくこともできないままの、そんな状況もひっくるめての行き詰まりの感覚、という部分がある。

マジで俺、日本がアメリカに追いつくと思ってた。
と言うか当時の雰囲気に騙されてた。身近のことは不安や不満が多くても10年先、20年先には希望を持ててたな。
今は全くその逆だがw

セクハラし放題だったんだよなあ。
普通にエレベーターでOLの尻撫で回したり、後ろから乳揉んだりしても「もぅ、やめてください」とかで終わるし。会社の飲み会も多かったしな、宴会となりゃあOLを脱がしても別に毎度のことだしよ。俺は知らんが通勤電車で痴漢もやりたい放題だったみたいな。
ああ、いい時代だったww

江戸時代は本当によかった。
街は活気に満ち、人々は希望に溢れていた。
ペリーと薩長死ねww


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 政治なんざもう、見世物以上でも以下でもない。そう見切ってからだいぶたつ。何も小子だけのことでもない。国民の大方は大なり小なり、そう思い知っているはずだ。

 だから、民主党党首小沢一郎がにわかに狼狽、右往左往して辞める辞めないの騒ぎにまでなったことも、いまさら何も驚かない。もちろん、「大連立」の仕掛けもどこの誰がどういう思惑で持ち出してきたものか、といった、未だくすぶる話題もまた、やっぱりなあ、とうなずきあうようなもの。

小沢の行動まとめ
小渕との経世会主導権争いに負けたから経世会を割り、
小渕派経世会自民党をまとめられたから自民党を割って飛び出して、
小さな政府と自由主義をとなえていたのが数合わせの為何故か社会党までとりこみ、
細川内閣を作ったが福祉税で社会党が言うこと聞かなくなったら社会党を外し羽田内閣を作り、
自社連立政権を作られたからそれに対抗するために新進党を立ちあげて、
総選挙敗北の責任論が出てきたから保守派だけで自由党を作って、
そしたら自民から誘い水向けられたから自自で連立、
でも公明が連立に参加したら自分の権限が通らなくなってきたので自民を裏切って民主について対抗、
自民の政策にとくかく反対の方針でやっていたら民主内の左巻きが強くなりすぎ、
収拾つかなくなり自民との連立画策中 ←今ココ

 ましてや、あの渡邊恒雄という名前が出てきた瞬間から、今回の政変まがいのスキャンダルもまた、同じく「昭和」風味のリアル茶番として気楽に楽しむべきものになっていった。ましてや、ネットが新たなメディアとして日常に入り込んでしまった環境においてをや。なりふり構わぬフィクサー気取りのご老体の渾身の大騒ぎもまた、何とも微笑ましいものに。確かに、今となっては絶滅品種、余人をもって代え難い貴重なキャラではある。

あれだな、老人と公害を足して2で割るとこんな生き物ができそうだな。

ナベツネこそ真の壊し屋じゃないか?
大相撲の横審になって若貴を引退に追い込み、野球ではFA自由枠で金に明かしたチーム作りで巨人を凋落させ、Jリーグでは企業中心主義を唱えフリューゲルスを消滅させたがナベツネが撤退直後にJリーグV字回復。
アイツがやってる事全て失敗しているように思うんだが。

プロ野球1リーグ制とまったく同じ発想だな。糞ナベツネは政治を娯楽興行と同じレベルで考えてるんだろう。

80過ぎた爺さんには、現代の民主主義をまともな目で見れないのだろうな。
大連立構想なんて、大リーグボール1号とか大どんでん返しとかの漫画のような話。

桑田が大リーグに行ってロートルの二流選手扱いされながらも、なぜ、あんなに伸び伸びと楽しそうに野球をしているのか、読売関係者は良く考えてみて欲しい。

 背後にアメリカの思惑が、いや、ユダヤの国際金融資本が、といった陰謀論も例によって咲き乱れるのもネットという場。けれども、それもまた弄んで楽しむネタとしてしまう歯止めがまだかかっているのも、また確か。何でもありで雑多で、あらゆる「格差」が等価に混ぜ込まれているるつぼだからこその、決して一方向に熱狂したりしない、できない諦念混じりの均衡感覚。こんなネットの気分の最大公約数に、ほんとに信を置けない政治など、与党であれ野党であれ、ずっと見世物、慰みものネタのままでいることだろう。

99パーセントの人かどうかは知らないが、政治が現実に即して行われ、経済混乱・政治混乱が起こらず、堅実な成長を促すものであることを望む人の方が政権交代を望む人より多いと思うぞ。政権交代はそのための手段の一種なんであって、政権交代自体を目的にしたらいかんだろ。

どっちかっつうと恥さらしてんのは、小沢よりも、「やめないでぇ、でていかないでぇ、悪さしないでぇ」と懇願してるアホミンス議員どもだと思うんだよな。