「昭和レトロ」の深層心理

 「昭和レトロ」が地味にブームのようです。前作がヒットした映画『三丁目の夕日』のシリーズ第二弾も好調のようですし、誰もが「あの頃」に焦点を合わせる昨今。

 単に「懐かしむ」という意味だけでもない。当時をリアルタイムに体験していた、今やすでに老境に達しつつある世代のノスタルジー、とだけ片づける向きも多いですが、それは早計。少し前、NHKの人気シリーズ『プロジェクトX』に対して、しょせんはオヤジの懐古趣味、とあざけり笑った評論家や文化人の浅慮即断と同じです。

 当時『プロジェクトX』を録画までして真剣に見ていた中には、三十代が結構いました。今も若い世代が高度経済成長期の「あの頃」に興味津々。それは、90年代に表面化してきた「ナショナリズム」と呼ばれる流れの背景にあった、高度経済成長期の、もっと大きく言えば「戦後」の歴史の失地回復への欲望でもあります。

 日本は「豊か」になった、でもその「豊かさ」の中身や手ざわりについても通りいっぺんのまま、ましてどうして「豊か」になったのかについて国民の最大公約数としての理解がはっきりとことばにされていない不幸。自分たちの現在がどのような「歴史」の上にあるのか、大文字のことばでない小さなもの言いと語りとで構築してゆく場がないままの現在は、このように不安で脆弱です。〈いま・ここ〉と連なる、誰もが「ああ、そういう時代だったよね」とそれぞれの体験から引き出して省みることのできる「歴史」、本来の意味での「現代」史が、学校教育は言わずもがな、メディアの水準でさえもないがしろにされてきたことのツケは、実にこういう形でまわっています。

 そう言えば、歴史教科書への異議申し立てに代表される草の根ナショナリズムの隆盛を「オヤジの慰撫史観」とレッテル貼りした連中もいましたっけ。そんなご本人たちは、いつまでもおのれを「若い」と思い込んでいるみっともなさには、全く気付いていないようですが。