文化としての「教員」

 教育諮問会議が幕引きされました。安倍内閣下、鳴り物入りで組織された委員会。答申内容を見ても漠然とした文言ばかりで、結局何だったのか、という思いは禁じ得ない。「ゆとり教育」の結果を見ても、こんな言葉遊びで終始している状況ではない。教育をそのように机上でだけ論じるより先にまず、今の学校の「先生」たち特有の価値観や世界観などについても、きちんと言葉にしてゆく必要があると思います。

 事実、彼ら「先生」の行状がらみの問題は山積。たとえば、卒業式などで「日の丸」「君が代」を認めない、歌わない、といった「闘争」を度を超えて繰り返すことから、「平等」をはき違えた評価の放棄、果ては痴漢やセクハラなどの情けない不行跡もあとを絶ちません。何か「先生」という職業自体に、構造的な問題があるとしか思えない。昨今話題になるモンスターペアレントにしても、単に父兄側の病理というだけでなく、「学校」という場における「先生」との関係の中で増幅されてしまっているところはないでしょうか。

 つまり、文化としての「先生」、も共に見直してゆくことです。彼ら「先生」たちの頭の中で 「教育」というのがどのように凝り固まり、偶像化されているのか、「子どもたちのために」という言葉が考えなしの言い訳になっている事情などについて、何も難しい理屈や思想信条などでなく、素朴に言葉にしてみる。これからの教育改革とは、実はそんな作業も含めて初めて実現するものだと思います。