ネットへの「自殺予告」について

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 「自殺予告」って言われて、またそれがネットへの書き込みってことが強調されてますけど、でもあれって、要するに「遺書」と同じなんだと思います。少し前までは「遺書」だったもので、今じゃもう「遺書」も書けなくなってるというか、書く意味を持たなくなっている、その代わりネットに「予告」めいた書き込みをする、という部分はあるんでしょうね。

 もともと自殺ってのは、対社会的な要素が強いものなわけで。理由は何であれ、単に死にたいならひとりで勝手に死ねばいいだけの話で、またそうやって黙って死んでゆく自殺も今も昔も多いわけですが、ただ、ことばと意味の生きものであるニンゲンですからそれじゃさびしいってのもあるから、何か自分の死にたい気持ちに意味づけをしてわかってもらいたい、ということになる。また、まわりの社会の側も、「理由」や「動機」を知りたがるから余計にそれら「遺書」系のことばには反応する、と。

 でも、あたりまえですが、誰もが「遺書」を書けるようになるには読み書き能力が備わるようにならなきゃムリなわけで、ということは、学校教育が普及してから後のこと。明治時代に華厳の滝に身投げした学生、藤村操の「巌頭の感」が当時、評判になったのも、そういう読み書きができて「自分」を持ってしまった層に対して、でした。また、戦前のテロリストたちにしても、やらかした後に自殺する際、何か自分の行為の意味づけなり訴えたいことなりを書き残すのは珍しくなかった。そういう意味の世界に生きている度合いの強い人たちほど、自殺に際しての「遺書」的な自己説明は必須になる。

 しかし、いまどきの若い衆、たとえば先の秋葉原の加藤にしても、「遺書」にはならないですよね。自分がどうしてこのような行為をして、そして死のうと思うのか、については、まずネットに書き込もうと思うらしい。「これから死ぬよ」とネットに書き込むだけ、死ぬ前に何をやらかすかというのはいろいろあって、またその部分が事件としてはまたさまざまな「理由」「動機」を探らせるものにせよ、でも自分で自分を処分したい、もうこの世に生きていたくない、という想い自体は、これまでの「自殺」と基本的に同じでしょう。なのに、「遺書」にはならない。

 それだけ文字の読み書きが、「自分」をこさえる重要なツールなんかじゃもうとっくになくなってるってことだと思います。と共に、自殺するというギリギリの局面に際して想定する「社会」というのが、すでにそんな文字を介した「自分」との関係で立ち上がるものでなく、ネットや携帯を介したことばで主につながっている広がりになっているらしいことですね。書き言葉、ではない、ある種の話しことば的なメディアによってつくられる「自分」とそれを中心に想定されている共同体。そこに向かっていまどきの若い衆が何か「遺書」的なメッセージを残そうとする時には、素直にネットへの書き込み、ということになるのかも知れませんね。

 あと、先の加藤が典型ですけど、「予告」ということで言えば、言ってしまった以上、やらなければいけない、的な強迫観念も、彼らみたいなタイプにとってはものすごく強まるような気がします。マジメと言えばマジメ、なんというか、不自由なまでに生きづらい、生きるのがヘタだなあ、という性格がありますね。敢えて言えば、昔も今も一定量いてしまう、そういう環境への適応のヘタな個体なんだろうなあ、と。

 だからいま、何かそういう「自殺予告」的なネットへの書き込みを特別な現象としてとらえて、「格差」社会への反抗だ、とか、今の世の中への抗議だ、みたいに「理由」を発見したがる向きも、基本的に大間違いだと思います。善し悪しは別として、これまでのように読み書きが大切じゃなくなっている分、ネットへ「予告」するような形でしか「遺書」を残せなくなっただけのこと。そういう情報環境の変貌と、それに対応する「遺書」という形式の変遷、という視点から、まず前提として考えておいた方が、少なくとも健康的だとは思ってます。