不自由な「学校」の復活を

 野良学者暮らし十年の後、大学に「復員」して一年が過ぎました。ああ、学校って、こういうものだったよなあ、と改めて自分の中の記憶を呼び起こしながら、眼前の現実に向かい合っています。

 どうですかいまどきの学生は、などと尋ねられることもあります。通りいっぺんの挨拶がわりのもの言いは抜きにして、素朴な印象としてはまず何より、そうか、いまどきの若い衆ってのはここまでほったらかされてるんだなあ、という感慨です。学校やセンセイたちからはもちろん、もしかしたら最も身近な身内からも、うまく「いじられて」いない。ことばによって、ことばを媒介に結ばれてゆく「関係」の中で、ロクにもまれていない、という印象です。

 だから、なのでしょうか。講義中、ほんとによく眠る。それも居眠りなどでなく完全に、溶けるように寝る。上半身を机に投げ出して熟睡。部活やバイトで疲れているから、といった理由からの肉体的な欲求というわけでもない。何というか、自分のいやなこと、わからないこと、うまく対応できない現実に直面すると、その瞬間から「寝る」。危険に際して死んだふりをする、そんな生きものとしての反応といった感じなのです。

 生きてゆく上での最低限の知恵や技術、というのをどう教えてゆくか。自分でエサをとる方法を教えるのが生きものとしての親の定法でしょう。学校教育というのも、制度的な枠組みの手前にまず、そんな定法があるはずです。人間ですからそれは、知識や情報やそれらの果てのさまざまな資格や免許といったもののずっと手前に、まず一匹の生きものとして、すぐ隣にいる同じ生きものとどうつきあってゆくか、そのための基礎的技術というのがある。思いっきりひらたく言えば「ことば」であり、その「ことば」の上に成り立つ人間という生きものとしてのつきあいの水準。その修練がおそらく、ふだんの暮らしから決定的に欠けてしまっている、そんな世代になっちまってるのかなあ、と。

 ことのなりゆきとして、初年度教育、ということが大学でもやかましく言われるようになっています。というか、それをやらないことには日々の講義からもう成り立たない。それは小手先の理屈でなく、母語である日本語で「よむ」「かく」「きく」「はなす」という基礎的な訓練をもう一度、それこそ軍隊の初年兵教育のような密度と仕掛けとで半ば強制的にやる、そんな「日本語ブートキャンプ」でも仕掛けないことには、今のわが同胞の若い衆のこの惨状はどうにもならないでしょう。まず声を出して読む、手を動かして漢字をひとつひとつ書く、そして何より自分の思ったことや感じたことを実際にことばにして外に出して、それを互いにやりとりしてみようとする。その積み重ねの経験が日常からすでに失われているようです。

 だから、せめて学校くらい、私物としての携帯もパソコンも持たせない、生身の「ことば」が際立たざるを得ない環境にもう一度戻してみましょう。責任ある抑圧、を大人としてどう与えてゆくか。戦後六十年あまり、懸命にめざしてきたあの「個」なんてものも、実はそんな不自由の中からこそ、初めてようやく自覚できるはずのもの、です。