「失言」再生産の構造(改稿)

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 政治と宗教に関してはとりあえず黙っておくが吉――是非はともかく、これはニッポン世間の世渡りの常識、でしょう。政治も宗教も共に個人の思想信条、内面の自由に関わる部分なわけで、うっかり表に出しちゃうとどんな反発が返ってくるかわからないから気をつけよう、という知恵。いや、その自由は憲法で保障されているんだ、などといくら力んでみても、世間ってやつは理屈通りにはいかない。そもそも、そんな厄介な世間とうまくつきあうことも含めて「政治」のはずで、その意味じゃ、「日教組をぶっつぶす」と言っちまったことも、それに対して「許せない」「失言だ」と血圧上げて糺弾するのも、共にその「個人の内面の自由」の枠内、ふだんは隠されている「ハラの中」がうっかり表沙汰になっちゃったという、わがニッポン政治じゃおなじみの風景ではあります。要は「空気読め」、と。なるほど、「政治」は具体的な「力」なんかじゃなく、未だやっぱり「空気」に宿るもののようです、わがニッポンでは。

 とは言え、こういう「失言」を鵜の目鷹の目で探してまわり、手前勝手におのが正義となしてここぞとばかりに糺弾してまわる側は、同時に「人権」や「平和」や「エコ」や「国際協調」を熱心に折伏してまわるような信心深い方々だったりする。でも、そんなご自身の布教活動に対する世間の「空気」の方はというと、なぜか見事に読めないままなのは、はて、どういう心理のからくりなんでしょうか。

 すでに組織率は三割以下に低下、高齢化も著しい日教組に今なお、違和感や不信感を抱く「空気」もまた、確かにこの世間に宿っている。辞任確定後も半ば捨て身で「失言」を繰り返す中山元文科相の背後には、そんな無告の同胞の気分が控えていました。事実誤認だ、勉強不足だ、と優等生の金切り声で否定するだけでは、その「空気」はさらに重く、けだるく同時代の底によどんでゆくばかりです。 

*1:「前半と後半のつながりがよくわかりません」「主体が不明確で意味がよくくみとれません」と注文が……(T.T) なので手直し改稿。主に後半のイタリック部分など。