「改革」へ期待した記憶が


 わずか数年前のことですが、もうみんな忘れているようです。だったら、思い出しましょう。振り返ってみましょう。前回、あの「郵政解散」後の総選挙、どうして小泉首相率いる自民党に当時、あれだけ圧倒的な支持が集まったのか。

 「だまされた」と言う向きもこのところ多いですが、「だまされた」だけではただ受け身の被害者意識。そんな了見のままだと、また別の方向から「だまされる」のが関の山。柳田國男が説いていたように、「反省」とはこういう時にこそ、誰もができる未来を選択するための頼りになる知恵であり、武器です。

 あの時、あの「構造改革」に期待して一票を投じた気分というのは、実は今でもそんなに変わっていない。いや、それどころか、さらに切実です。自浄のできない公務員制度、ハコもの乱造の公共投資やどっち向いて仕事しているのか謎なマスコミ、勉強もさせない学校教育……などなど、「戦後」のまま「そういうものだから」とやってきた習い性の多くをそろそろ「どげんとせんといけん」ことは、世代や立場の違いはあれど、この国に生きる人ならもはや誰もが痛感している。それは数年前となお、同じです。

 問題は、ならば誰が、どんな人たちが実際に、身体を張って果敢に手をくだしてくれるのか、でしょう。当時の小泉自民党にはそれを期待させる何ものかが、確かにあった。「改革」の必要が変わらないのなら、あの時抱いた期待とその記憶をもう一度、それぞれの身の内に確かめましょう。いま、多くのマスコミがなぜかこぞって煽る「政権交代」で、その「改革」は果たして実現すると本当に信じられるのか。

 期待や希望はいつもたよりなく、不定形です。裏切られることも、あてがはずれることもある。でも、だからこそ「力」にもまた、なり得る。それらも全部ひっくるめて「政治」なんだ、と民俗学者は考えます