「日本」「日本人」は幻想?

 「日本」なんて幻想だ、「日本人」だって大昔から混血繰り返してきてるんだからあてにならない――こういう系統のもの言いを得意げに振り回す学者、評論家、文化人がいます。先日の国籍法「改正」についての本欄拙稿にも、民俗学者のくせに「日本」「日本人」自体歴史的に形成されたって認識もないのか、的なご批判を頂戴しましたが、どういたしまして、そのへんの議論はもちろん百も承知しておりますです。

 「日本」や「日本人」が歴史的に形成されてきた経緯があり、その意味でイデオロギーだ、ってのはまあ、その通りですが、でも、だからって〈いま・ここ〉の「日本」「日本人」が幻想のままやってゆけるわけないでしょうに。この手の御仁は、そう言うことで自分のアタマのよさ「だけ」をほのめかしたいのが多数派で、ならばあんたはどうしたいのよ、ってのが見えないか、見えても脳内お花畑全開の「地球市民」的妄想か、「多民族共生」的な逆縁のグローバリズム丸出し。かの「九条教」の「反戦平和」「非武装中立」とよく似ているのは、さて、何か理由があるんでしょうか。

 外国人一般を嫌ってるわけじゃない。ちゃんとこの「日本」になじんで「日本人」になろうとしてくれるのなら大歓迎。一朝有事の際は共にこの国を守るくらいの気概を持ってくれれば、信頼できる同胞として遇しましょう。でも、昨今の状況では、そんな善意で有為の外国人よりも、あの国この国、単なるたかりや犯罪者予備軍ばかり押し寄せてきそう、って素朴な不安がどうしてわからないのか。近々、本格的にオシャカになりそうな国が隣近所にスタンバイ、ってことも関わってるのか、とにかく無駄にアタマだけはいいらしい人たちだけに、つくづく謎であります