大正初期浪曲雑誌の一動向――『正義之友』から『駄々子』を素材に

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――この間初めて一席ぶっ通して聞いたがね、妙なもんですな、浪曲って奴は。なんとなく憎めない駄々っ子といった感じですな。古い浪曲の範疇に属する語り手なんだろうが文句なんか相当デタラメが多い。それでも糞ッと思えない所がなんとも妙だ。 *4

――何でえ生意気野郎、浪花節を藝術だの通俗教育だのと俺には分らねえやうな符牒で云ふやうになったから浪花節藝人なんてものが頭が高くなったんだい、チョンガレの時代が餘ッ程面白かったぞ藝人も亦其の時の方が熱心だった、聴く方の奴が詰らねえ事を云って褒めやがるから藝人なんて云ふものは蛸坊主のやうに飯を頭に食ひ上せて了ふんだい、褒めるのも大概にしやがれ。*5



 浪曲雑誌、というのは、とりあえずの便宜的呼び方である。明治末から大正期にかけての浪曲浪花節)勃興期に、専門誌として一定の版元から定期的に刊行されるようになった雑誌(紙)メディアをさすもの、と理解していただきたい。

 浪曲の興行にまつわる印刷物には、「三点セット」と呼ばれるものがあり、それらは、1.チラシ・ポスター類、2.雑誌・番付、3.大入袋、とされている。*6

 これらは実際の興行の現場における宣材として機能する「もの」であるわけだが、ここで取り上げる浪曲雑誌というのは、これら具体的な宣材としての「もの」としてよりも、むしろ一般的な意味での専門誌(紙)、浪曲という芸能を媒介に読者を相互に共通の「趣味」でつないでゆくような役割を主に担わされたメディア、という意味に重心をかけているつもりである。

 本稿で紹介、考察を試みるのは、そのような意味での浪曲雑誌の中でも、ごく初期のもののひとつ、『駄々子』『正義の友』である。共に、筆者の手もとに、何部か現物がある。市井の浪曲研究家であり、今なお唯一の浪曲定席として残る「浅草木馬亭」の後見のような立場にあった故芝清之氏の所蔵されていた資料を、氏のご厚意によって生前、譲り受けたものの中に含まれていたものだ。*7

 『駄々子』という雑誌については、浪曲関連の研究の中でも、これまでほとんど触れられていない。何よりこれら浪曲雑誌自体、これまでのメディア研究、新聞雑誌研究などの脈絡でも正面から言及されたことは、まずなかったと言っていい。実物がまず現存していないということと共に、やはりここでも「学問」の視線の側からどのように分類して位置づけていいものか、悩ましいところがあったものと思われる。浪曲の研究というのが、まず浪曲という芸能のジャンルの成立から転変についてと、個々の演者や演目そのものについての言及で埋められるのが常で、それが同時代の情報環境でどのように聞かれ、楽しまれ、そして意味を持っていたのか、といった広義の歴史的/文化的な脈絡も含めた複合的、立体的な解釈にまではなかなか手が届かないのが実情だった。*8

 わずかに、唯二郎がこの『駄々子』に言及している。

 「大正に入ると、浅草千束町の立志社から『駄々子』が出版される。最初は週刊誌大で花柳記事などもあるが、のちに一回り小さい菊版となり、『芸界の友』と改題され浪曲専門の雑誌となった。昭和のはじめまで約十七年間、時に休刊はあるが通巻にして百五十六号を数える。(…)『芸界の友』は昭和のはじめ『浪界新聞』とさらに改められ、一面が浪界消息、裏面が番付となり、さらに十数年つづく(定価十銭)。」*9

 通巻百五十六号と言われているが、いま、手もとにあるのは、このうち週刊誌大の初期のもの十二部と、菊版になってからの一七部。すでに発行以来一世紀近くたつ資料であり、どれも背表紙はあちこち破れ、また本文も含めて紙自体朽ち始めているので、できるならば早急に保全管理が必要な状態になっている。

 それら『駄々子』名義のものに加えて、同じ発行所である立志社から、これまた同じ木村正義名義で発行されていた『正義之友』と称される週刊誌大のものも三部、残っている。第一号の発売日は、大正二年五月十日で、以後三号まで現存。こちらは内容的に特に浪曲中心というわけでなく、むしろ社会評論や言論中心の構成だが、目次を見ると一部筆者が『駄々子』と重複していて、広告欄にも浪花節関係が散見される。さらに口絵に『駄々子』同様、桃中軒雲右衛門など当時の浪曲師たちのポートレートがあしらわれている号もある。(図1)

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 『正義之友』創刊号は、今のB4版ほどの大きさを横にふたつ折りにした形である。一応は中とじになっているが、版組みは横長の縦組み。ふたつ折りゆえ、奥付が真ん中に隠れてしまう形になり、実際に読むにしても読みにくく、何より目次が中身と対応していない部分もあり、その部分を「二部」と称したり、と、雑誌としての定型からは大きく外れていて、とりあえず試験的に刷ってみたという印象がしないでもない。第二号からは通常の左開きの冊子になり、丁合もノーマルな形になっているが、内容について第一部第二部という区別はまだ残っていて、第二部の方に小説や創作系の原稿が集められている形になっている。 経緯から言えば、これら『正義の友』は『駄々子』の前身にあたる。だが、この『正義の友』については、前出『実録浪曲史』でも具体的には触れられていない。さらに、この『正義の友』は三号まで発売されて発売停止の処分を食らっている。その次号から『駄々兒』(のちに「駄々子」)として再出発。しかしその再出発した『駄々兒』第一号もまた、発売禁止処分になっている。メディアの性格として浪曲雑誌の形を整えてゆく以前の段階で、まずこの『駄々子』は御難続きだったようだ。


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 『駄々子』(当時は「駄々兒」)創刊の辞は、こんな具合である。

 「雑誌「駄々兒」新に生る、爾は何を駄々捏むとする乎、世事爾の意に満たざる乎、爾よに容れられざる乎、何ぞ、與に拗たるの名詮自称なるぞ、今や、時は昌平に屬し、與は文明を唱へ、人は平安を願ふの時、獨り、爾が之に逆ふて、世を迎合せざるは、文を以て法を亂す儒生の流れを汲み、當世を冷罵し去りて、獨り、自ら高うせむとするの意乎、抑も、亦武を以て禁を犯す游侠の徒を學び、人の難に趨りて、郷曲の誉を博し、以て流俗間に矜らむとするの意乎、嗚呼豈に何ぞそれ然らむ、彼の儒生の強ひて世を避け、好で俗を罵り、獨り、自ら潔うせば足れりとするが如き、非社會的の言動は、固より爾の取らざる所なり、又其行ひの不軌にして、正義と合はず、往々気を負ひ、時の文罔を干して、顧みざる任侠の如きは、初めより、爾の與みせざる所なり、爾の義苟も當世に合はず、臂を攘て崛起し、身を挺して、時潮に抗するは、斯の如き非社會的の偏狭、没道義の誇負心より起りしものに非ず、更に、一段の高尚なる、倫理及び風教上、黙止せむと欲して、黙止する能はざるが故なり、豈に、何ぞ漫然世に拗ねて自ら快とするものならむ哉。(…)人は物質に流れ、世は名利に奔り、社會は虚栄を競ふて、人間貴重の他あるを知らず、故に人道を無視して、不義の暴冨を極むるものあるも、社會はこれを咎めず、世は反って之を適存の優者と唱へ、人は之を成功者と称して、其膝下に讃辞を捧ぐるに至れり(…)爾の傲然として世事に拗ね、敢然として現状に駄々捏ねるは、社會の不在、人心の堕落を慨すればなり、強者の跋扈、人権の蹂躙を憤ればなり、富豪を迎合し、権門に阿附するを惡めばなり、是れ「駄々兒」の駄々兒なる所以の本領なり、然れば即ち、時艱にして、世事日に非なるの今日に於て爾の生れる、亦偶然に非ざる也。」*10

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 当時の「雄弁」のスタイルが直裁に反映されたとおぼしい、ある種の美文調である。実際に声に出して朗読することも想定されていただろうし、筆者は筆をとりながら音読していたかも知れない。いずれにせよ、「駄々ッ子」という自己規定に、素朴な「自由」を込めようとしたことは明らかである。そして、このような文体とそれによる自己規定をよしとして受け入れるような「気分」を持つ者たちが、ある一定の層と共に浪曲の周囲に、雑誌を媒介に集まり始めていたということだろう。

 雑誌の成り立ちはどのようなものだったか。

 一応は月刊の定期刊行物だが、経営的には「賛助員」と呼ぶ同人のような立場の者を募って賛助金を徴収、広告と共に運用を想定して、雑誌自体は郵送で会員のもとに送る形をとっていたようだ。1.名誉賛助員、2.特別賛助員、3.普通賛助員、の三種類で、それぞれ年に十円以上、五円以上十円まで、二円以上五円まで支出できる者、と規定がある。ちなみに、賛助員は本誌を無料講読できると共に、「何時にても紙面を仕様して自家の意見を發表する」権利を有することになっている。いわゆる同人誌の形式に近い。

 一般読者に対しても一部単位の頒布を想定。市中の書店などの一般販路で配本されていたのかどうかは、現状では不明だが、装丁まわりに定価が記されていないところから、現実には郵送での配布が主だったのではと思われる。定価一冊十五銭、郵税一銭。三ヶ月以上一年までの定期購読は郵税込みになっている。

 末尾の奥付のページ、賛助員規定の欄の上に朱書がある。

 七月末日現金入
 百八十五円三十銭
 残四十二人分あり
 一人○四○見積るも
 八十四円あり

 発売月の末日での決算なのか、賛助員ひとりあたり二円として約百人程度。一般読者にどれくらい読まれたものか現状ではわからないが、当初は推定数百部前後といったところだったのではないだろうか。*11

 ちなみに、発行の趣旨に規定されている雑誌の性格とは、このようなものだ。

「第一絛 本社發行駄々兒の目的は毎號内外の實業、経済、文學、演藝、其他凡ゆる社会の出来事を最も確實に最も詳細に報道し以て實業の振作、國家の發展に資する所あらんことを期すに在り。」*12

 「実業」「経済」が最初に置かれていることに注目しよう。「実業」というのは当時、新たに使われるようになっていた新しいもの言いであり、近代化がある程度の段階に達して、社会自体も初期の大衆社会化が進行していった状況での新たな〈リアル〉を表現しようとした一群の言葉のひとつである。*13 実際に誌面も、経済関連の記事が一定の割合を占めているし、広告も金融やマスコミ系が多い。

 デザインも見てみよう。

 表紙は黄と赤の二色刷りの背景に、文字などは濃紺で乗せられている。意匠は、シルエットの子どもが装具ともども外されて転がっている形の佩刀(サーベル)にまたがり、握りを右手で持ち、手前のシルクハットの紐を手綱よろしく左手で握って、おそらくは後ろ向きに仁王立ちしている図。子どもの服などはシルエットゆえに不詳だが、輪郭などから推測するに、厚手の靴下に半ズボン、襟回りなどから上着はセーラー服様のものを身につけているように見える。頭髪も洋髪に、何か小さな帽子かかぶりものを乗っけたような形。何か海外の雑誌か何かに図案の雛型でもあったのかも知れない。版面左肩に縦書きで「駄々兒」と記され、そのやや左下に「(ダダッ子)」と読み下しが付されている。(写真a)

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 裏表紙には広告が入っていて、こちらも三色刷。出稿は、帝國鑛泉株式会社と、日本蓄音器商會本店。前者は「宮内省御用達」の「三ッ矢平野水、サイター、ヲレンジ、シナルコ」清涼飲料水の、後者は「鷲印」「赤鷲印」レコードの新譜広告で、ピアノ入り唱歌などの新譜が並べられている。

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 版型は、ほぼ現在の週刊誌大。写真も含めた口絵もついているから、同人誌のような成り立ちのメディアながら、当時としてはかなりの豪華版と言っていいだろう。


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 『正義之友』から『駄々子』に移行する中での、発行禁止処分について見てみよう。

 文中、大正二年五月十五日に発行禁止命令を受けたとある。前号『正義之友』三号は五月十日発行だから、発行後五日で処分がくだされたことになる。理由は明らかに記されていないので、目次や誌面内容から推測するしかないが、「霞外」署名で書かれた「土地所有権」と題する原稿中、私有財産制度を撤廃する主張あたりが当局の禁忌に触れたことは考えられる。

 「斯くして、地主は文明の進歩、社會の發達に因りて生ずる利益を、坐ながら獨占して、暴冨を極むるに至れり、之れ佛のプルドン、獨のマークスが、地主と資本家を捉えて、社會を強奪する盗賊なりと喝破したる所以なるべし、(…)苟も、此弊害を人類社會より除却せんと欲せば、先ず根本に遡り手て、倫道に反する私有制度を撤癈し、天意に適ひたる公有制度を復帰せしめざる可らず、(…)假令ひ百の地上權法を設定し、千の小作絛例を制定したりとて、決して、此弊毒を根本より●除すること能はざるなり。(…)今日の社會的弊害を除かんと欲せば、必ず先つ土地私有制度を癈して、國有制度に改めざる可らず、乃ち、天惠を少数者に獨占せしめずして、社會人類に均等に之に浴せしめざる可らず、而して後ち初めて社會の精算は、自ら公平に分配されて、現今の弊害は、自然に消滅するに至るべし」*15

 前掲「發刊の辞」の頁の右肩に重ねてさらに、朱書で「大正貳年七月八日発行禁止発賣停止ノ事あり」と記されている。前号『正義之友』三号で発売禁止処分を食らい、雑誌名を変えて心機一転、再出発しようとしたこの『駄々兒』創刊号においても再度禁止処分。当局ににらまれていたのかも知れない。さすがにその次の号では、社長の木村正義自ら釈明をせざるを得なくなっている。

 「余輩は元来文士にあらざれば、妙句麗語を並べ、意を婉曲に用ひて、事を論ずるの道を知らず、直情流露、動もすれば言論、危激に渉り、筆端、矯越に馳せて、往々、不測の奇禍に陥いることあり、曩に五月號の正義之友は、發行停止の命を蒙り、又前號の駄々子は、治安妨害の簾を以て、發賣禁止の厳命に接し、同誌は挙げて其筋の為め押収せられたり、之れ固より自ら作せる●にして、又誰をか咎めむ哉、然れども、屡々忌諱に觸れ、再三筆禍を重ぬるは、自か、ら世俗の誤解を招き、當路者をして、益々、危惧を抱かしむるを以て、余輩所信の要旨を一言明治するの必要を、感ぜずんば非ざる也。(…)余輩は、彼の極端なる個人主義が、國家の職務を、漸次縮小して、終に自由放任の無秩序に、陥らしむる主張の如きには、初めより賛意を表せざるなり、又凡ての職務を舉げて、國家の経営に委ね、個人の自由を、全然没了し去らむとする社會主義の如きは、素より絶對に、反對を唱ふる者なり」*16

 文面を見る限り、やはり個人主義社会主義を鼓舞したと受け取られる部分があり、そこが問題にされたらしいことがわかる。続いて、それらふたつの主義の中間をめざすのが自分の本意であり、その意味で国家社会主義に立っている、と弁明した後、以下のような部分に続く。

 「而して、猶ほ此主義は上古より既に我國に於て實施せられ、上列聖の、下細民を慈しみ給ひたる、幾多の例證は、明に此世運の進歩と共に、我國體の精華をして、益々發耀せしめ、我民をして、益々其堵に安ぜしむるには、此國家社會主義を、汎く實施するの外途なしと、余輩の確信するに至りし所以也。」*17

 大正二年。数年前の大逆事件の記憶も、東京市内在住のこれら新興知識層においては、まだなまなましかったはずだ。釈明にもその影は揺曳している。巻頭、先に紹介した葬列の口絵の次ぎにある「正義の友を弔ふ」と題した、黒枠で囲まれた文章も高い調子の悲憤慷慨になっている。

 「嗚呼哀哉
 正義の友よ、爾は五月十五日夜、●焉として逝きぬ、爾は今春呱々の聲を舉げ、月を閲する僅に三ヶ月、號を重ぬる未だ三號に過ぎず、而かも、羽翼既に就り、将に大に高飛せむとするの時、突然天の一方より、發行禁止の厳命下り、茲に敢へなく、終焉を告ぐるの止むなきの運命に至りぬ。
 正義の友に、夙に爾は遠大の経綸を懐抱し、高遠の志望を把持し、社會人類の為め、前途大に為すことあらむことを期し、着々之に向て、其歩武を進め居りしも、良薬は口に苦し、直言直行は、國法の耳目に逆ひ、終に奇禍を蒙りて、空しく永久の闇に、葬られることとなりぬ。正義の友よ、爾は不幸短命、未だ抱負の萬分一も、世に行ふ能はずして逝きぬ、遺憾何ぞ限りあらむ、然れども、世豈に其人中ラムかな、必ず爾の遺志を継ぎ、爾の事を行ふものあらむ、故を以て、仮令ひ、爾は世に亡しと雖も、爾の志は永く社會に存す可し、以て爾は地下に瞑目して可なりぬ、噫。
大正二年五月十五日發行禁止受命の夜 編輯同人謹記」

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 『駄々兒』第一号には、折り込みの口絵もある。これもまた異彩を放つ内容だ。

 発売禁止処分になった『正義之友』の葬儀の様子が色刷りで印刷されていて、先頭に「弔 正義之友」と書かれた幟、輿の後ろには「正義之友の霊位」と記された位牌が続き、さらにそれに続いて「博善株式会社」と典礼社の社名とおぼしき名前の入った旗を捧げ持つシルクハットの紳士連が描かれていて、ごていねいにもその少し後のページの広告欄には典礼社の広告まで入っているという趣向。さすが「駄々っ子」を以て任じるだけの揶揄、諧謔の精神を髣髴させるが、個人主義社会主義に連なるかのごとき主義主張もさることながら、こういう茶化したような書生流の態度に必要以上に当局が神経を逆なでされたのかも知れない。(写真b)f:id:king-biscuit:20080220135555j:plain*18

 これらの箇所以外にも、手もとにある『駄々子』には、随所に朱で書き込みがされている。表紙周辺に記されている「だいちょう」「台帳」以下、主に広告欄に集金の金額やその成否などだろう、記号や数字が多い。*19

 これらのことから考えると、手もとにあるこれら資料は一般に流通していたものではなく、発行元の編集部に事務作業の控えとして保管されていたものと思われる。発行元の立志社主幹の木村正義は、浪曲関連の事業をやっていた人物。後には、公民教育や郷土教育などについても著書がある。立志社名義での浪曲雑誌や番付の発行は、息子の正一氏に引き継いでいたらしい。おそらくは、その関係者周辺の資料を芝氏が譲り受けたなどの事情があったものと推測される。


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 このように、『正義之友』から移行して創刊された『駄々子』だったが、当初はまだ必ずしも浪曲雑誌としての内実を伴っていない。『正義之友』の二部にあたる芸能評論、批評や芸界消息、ゴシップといった部分が拡大して、浪曲と女義太夫のふたつのジャンルを主に取り扱うようになってはいるけれども、浪曲専門という誌面にはまだなっていない。目次前半には木村正義以下の社会評論、主張などが並び、それに小説などの創作が連なるという、ある意味では素朴な同人誌的構成になって、それが週刊誌大の版型のまま、ひとまず大正二年いっぱいは続いている。

 それが、翌大正三年にはいると版型を菊版変えてくると共に、一気に浪曲専門誌の色合いを強めてくる。誌名にも「藝界之友」という副題的なものが付与され、目次もあるパターンができ始めているのが見てとれる。

 たとえば、創刊三年目の第三巻、大正四年春の二十三号を見てみると、天中軒雲月と津田清美の速記が目玉として配されていて、それらをはさんで前半に浪曲の、後半に女義太夫の芸界消息やゴシップ、演者月旦といった記事が並ぶ組み立てになっている。『正義之友』以来の社会批評、言論系の記事は前半にまだ残っているが、小説や短歌といった創作原稿と一緒になっていて、誌面全体の重心が浪曲以下の芸能に移行しているのが見てとれる。

■駄々子 藝界の友 廿三號 第三巻第二號
大正四年二月廿六日 印刷納本
大正四年三月一日 発行

感想と評論 「浴後の安楽椅子にて」主幹 木村正義
短歌 「亡き妻の位牌を抱いて」樋口麗陽
泰西思潮 「オイケンの社會主義」城北散史譯
新聞記者の手帳より 「火の女その一 棄てられたる琉球の女」落花流水亭主人
短歌 「をりにふれて」 園田璋子
雑録 「現代女性観」杢兵衛
    「歓楽へ歓楽へ」樋口破魔二 三津木榮子
    「良心のない奴」 一記者
    「旅客虐待列車」
小説 「病葉」南繁夫
北雪美談「金澤實記」湊家秀蝶
「藝界駄々子」
「浪界私見」白頭巾
「蓄音機に現はれた雲と奈良の相違點」狭山孤影
「浪界月旦 東家楽燕」猪股秋霧樓
「浪界ポスト」
「雲月と我輩」萍浪
◎「赤垣源蔵徳利の別れ」天中軒雲月
「竹本素昇さんへ」尾上鈴吉
義太夫五段聴」喜美夫
「女義評論 豊竹富榮」美奈美生
「駄々子ポスト」
「自殺した和光」鳩の舎
「ピラミッド底遍文學」山口初子 樋口麗陽
「五九郎のすましぶり」
「熊に於ける駒子と萍緑と五九郎」白波權三
「新派の捨て所」
「へなぶり」四藝子 樋口麗陽
◎「明治武傷對T木将軍 濱松の美舉」津田清美

……◎は、口演の速記。

 小説や短歌などがあしらわれているのは初発の同人誌的な性格からしてともかくとして、浪花節と共に、女義太夫に大きく誌面が割かれているのが眼につく。同時に、批評や評論、ゴシップの類も、「女義」と称する女義太夫についてのものが浪花節とほぼ同等の分量がある。このあたり、当時女義太夫を支えていた書生、ないしはそれに準じる新興インテリ/知識人予備軍層の「書きたい」欲望に適合していったことがうかがえる。『正義之友』の頃のような生硬な社会批評、評論は後退し、おそらく書き手もある程度入れ替わったのではないだろうか。

 寄席を中心とした芸能、相撲、そして花柳界以下、「玄人」女性の話題。当時の社会的人格としての「成人男性」の日常的な関心事というのはそのようなものだった。いわゆる芸能と女性、この二本立ては当時の『都新聞』に代表されるようなジャーナリズムの世界観に重なる。「大新聞」――政治や天下国家の動きを漢文脈のリテラシーをフレームとして切り取って行くメディアではなく、それ以外の分野に焦点を当てる、明治二十年代に「小新聞」と呼ばれたようなメディアのそれだ。一般に、この大正初期にはすでにそのような区分は溶解していたとされるが、この『駄々子』の目次からうかがえる世界観は、たとえば当時、花柳界専門紙と揶揄され、同時に「実業家の虎の巻」を任じていた『都新聞』のテイストに近しい。

 本来の『駄々子』に加えて「藝界の友」という名前が誌名に寄り添い始めた理由も、当初は直言型の言論誌をめざしたいたものが、当局の弾圧を食うことで、浪曲や娘義太夫といった「芸能」に焦点を合わせた「趣味」雑誌との性格に変えることで、存続をめざしたものかも知れない。言い方は悪いが、浪曲を隠れ蓑にしたとも言えるだろう。

 とは言え、当初から浪曲関係者の広告は入っているし、本文中に浪曲に関係する原稿がない場合でも、口絵に桃中軒雲右衛門以下、当時の浪曲師の写真が載せられていたりするから、もともと浪曲への共感はあったのは間違いない。もっとも、それらと同様の扱いで芸妓や女義太夫の演者たちの写真も口絵になっているのだが、それらは当時の視線からは同じ「芸能」として等価のものであったということを、ここでは再度指摘しておきたい。浪曲とは同時代の「場」において、そのような位置づけにあった。


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 このような批評や評論も含めた言説を大きく扱うような浪曲雑誌の出現は、浪曲という芸能がそのような批評眼にさらされるようになってきたことでもある。

 紙媒体への浪曲のコンバージョンについては、いわゆる速記本の出現が先にあった。これは落語や講談などに始まる速記術の転用の一環として位置づけられるが、ふりがなつきで口語混じりの文章を読み得る程度のリテラシー初等教育の普及によって身につけた読者層がそれら速記本を、新たな「読みもの」として消費するようになっていったのと少しずれながらも並行して、このような批評や評論といった言説を生み出すようなリテラシーを持った読者層が浪曲の周辺に集まり始めていた。

 もちろんこれは東京周辺に限ってのことであって、当時浪曲がまた別に盛んであった名古屋や京阪神、さらには軍談語りなどと融合しながら雲右衛門のリニューアルに力を与えた九州など、それぞれの地方で、このような紙媒体へのコンバージョンなどがどのように行われていたのか、比較検討してみないと断定できないところはある。たとえば、九州におけるこのような浪曲雑誌(紙)として、すでに『藝一聲』なども知られているが、彼の地において台本作者の介在が早くから行われていたことなどを考え合わせてみても、類似の批評、評論系のメディアが先行してあった可能性は十分あり得ると思われる。特に、立川文庫に代表される速記本から新講談へと移行する時期にこのような出版物が簇生した大阪および京阪神地域の状況は、今後さらに精査が必要と思われる。*20

 あと、この時期の浪花節の勃興を考える場合には、「寄席」と「劇場」という、「上演」の「場」を規定する物理的な建物=「ハコ」の違いにももっと着目が必要だろう。雲右衛門の爆発的な人気に要因には、「劇場」という新たな千人規模上限の大きな「ハコ」での上演形式を自ら編み出してきたという部分は見逃せない。

浪花節は聞くと同時に見るべきもの也、其の演ずる節調と演者自身の態度と相待って其處に人物は活躍するもの也と云ふ、然り演者の演中人物と同化が藝の真髄。」
大石内蔵助を演ずるの人、態度野卑ならんか聴衆誰か内蔵助を眼前に髣髴するものあらんや、態度表情は演者の最も注意を要する處たらずんばあらざるなり。」*21

 上演としての浪曲が、声やフシと共に、視覚的な要素もまた重要な芸能だったことを表わしている。その限りで浪曲は演劇的であり、「個」としての演者に観客の、そしてその背後に想定され得るようになった不特定多数の視線を一点集中させてゆくような「場」の編制が可能になっていったことでもある。

 当時、雲右衛門がもたらしたとされる「総髪」「紋付き袴」以下の「演出」の機微についても、このような脈絡からもう少していねいな解釈が施されるべきだろう。衣装はもとより、舞台上の装置、道具だて(立っての語り、テーブルとテーブル掛け、幟など)から、発声や節まわしに至るまで、それまでの「寄席」の大きさに適応して発達してきた関東節とはひとつ別のステージを提示したと考えていい。もともと関東で修行をしていた雲右衛門が、九州へ「逃亡」して上演形式を一新してきたこと、そのような「劇場」に対応する形式の「発見」に当時の西南日本、とりわけ九州の「軍談」「薩摩琵琶」「筑前琵琶」どの語りもの、話芸が大きく作用していたことなども含めて、一律に「草の根ナショナリズム」「国民国家形成」といった術語でのっぺりと塗り込められるばかりの当時の「気分」のディテールをほどいてゆくことにつながるはずだ。

 浪曲についての研究は、これまで十分な蓄積がされてきたとはとても言い難い。そのこと自体がまず、浪曲を「歴史」の相においてとらえようとする時の興味深い補助線にもなり得る。それは大きな枠組みで見れば、日本の近代の「学問」がどのような枠組みで現実を、〈いま・ここ〉をとらえようとしてきたかについての限界について、裏返しに示してくれる地点でもある。

 いわゆる大衆文化をそのような脈絡でとらえることについては、カルチュラル・スタディーズなどの文脈で近年、一部で称揚されてはきている。それは従来の大衆文化研究の脈絡とはまた違う位相、異なる情報環境において〈いま・ここ〉を相手どる動きとしてとらえることができる。そんな流れの中で浪曲浪花節についても言及されることもないではないし、また、多少は光が当てられてきているところもある。それ自体は喜ばしいことだが、しかし同時にそのカルチュラル・スタディーズそのものが近年の日本の「学問」をとりまく情報環境においてどのように受容されてきたのか、もっとはっきり言えば、日本におけるカルチュラル・スタディーズが受容されている枠組み自体を相対化する視線を共に等価に内包しておかない限り、真に「歴史」の相において浪曲をとらえることはできないだろう。

 もちろん、これは浪曲に限ったことではなく、いわゆる大衆文化、サブカルチュアの領域を現在、日本語を母語とする広がりにおいて「学問」として相手どろうとする時に、まず最前提として要求される、知的誠実さでもある。それなくしては、浪曲なら浪曲を語る、そのもの言いや言説自体がある限界や不自由の内側にあらかじめ閉じこめられていることを等閑視した手続きが自明のうちに行われるばかりで、言葉本来の意味での「歴史」の復権、〈いま・ここ〉からの一点透視が可能なものにはつながっていない。これは80年代以降、いわゆる「ポストモダン」状況以降の日本の人文/社会科学の言説が置かれてきた情報環境の問題なのでこれ以上この場では深入りしないが、それら既存の「学問」市場内側に幽閉されたままの平板な言説よりは、ここで焦点を当てた芝清之氏や唯二郎氏といった市井の研究者、言葉の最も豊かな意味での「好事家」の手による素朴な資料整理や収集の仕事の方が、〈いま・ここ〉を中空から俯瞰して素描をするだけの既存の「学問」の言葉に比べれば、信頼するに足る知的共同性を前提にした下ごしらえとしてはるかに誠実で、何より本当の意味での「学問」の未来につながるものと思う。何よりも、彼らが浪曲を素朴に「好き」であったということ、それがまず彼らの作業を推進させてゆくエンジンになっていたということが、浪曲を語る言説にどのような違いを与えているかも含めて自省の俎上にあげてゆく構えなくして、今後、国民国家形成の重要なメディアとして機能した浪曲の歴史的/文化的意味を本当に説きほどいてゆくことはできないだろう。

 ともあれ、この『駄々子』の誌面が浪曲雑誌として安定してゆく過程、そしてそれらをとりまく人脈や時代背景などについては、次回以降の機会にまた改めて、詳述してみたい。

主要参考文献 (文中で言及、指示したもの以外)


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佐野  孝 『講談五百年』 鶴書房 1943年(昭和18年

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関山 和夫 『説教と話芸』 青蛙房 1964年(昭和39年)

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祖父江省念 『節談説教七十年』 晩聲社 1985年(昭和60年)

高橋 安光 『近代の雄弁』 法政大学出版局 1985年(昭和60年)

秩父 重剛 『浪花節大全』 八興社 1954年(昭和29年)

土屋 礼子 『大衆紙の源流――明治期小新聞の研究』 世界思想社 2002年(平成14年)

永嶺 重敏 『雑誌と読書の近代』 日本エディタースクール出版部 1997年(平成9年)

 『モダン都市の読書空間』 日本エディタースクール出版部 2001年(平成13年)

      『〈読書国民〉の誕生――明治30年代の活字メディアと読書文化』 日本エディタースクール出版部 2004年(平成16年)

梅中軒鶯童 『浪曲旅芸人』 青蛙房 1965年(昭和40年)

平岡 正明 『浪曲的』 青土社 1992年(平成4年)

堀江 誠二 『悪声伝――広沢瓢右衛門の不思議』 朝日新聞社 1982年(昭和57年)

正岡 容  『寄席風俗』 三杏書院 1943年(昭和18年

      『雲右衛門以後』 文林堂双魚房 1944年(昭和19年) 

      『寄席行燈』 柳書房 1946年(昭和21年)

 『日本浪曲史』 南北社 1968年(昭和43年)

『寄席恋慕帖』 日本古書通信社 1971年(昭和46年)
      
 『正岡容集覧』 仮面社 1976年(昭和51年)

水野 悠子 『娘義太夫――スキャンダルと文化のあいだ』 中公新書 1998年(平成10年)

南 博+永井啓夫小沢昭一・編 『浪花節の世界 うなる』 白水社 (芸双書7) 1981年(昭和56年)

三好 貢・編 『浪花節一代』 朋文社 1957年(昭和32年

矢野 誠一・編 『都新聞 藝能資料集成』 白水社 1991年(平成3年)

山本 武利 『新聞と民衆――日本型新聞の形成過程』 紀伊國屋書店 1978年(昭和53年)

『近代日本の新聞読者層』 法政大学出版局 1981年(昭和56年)

吉川 潮 『江戸っ子だってねえ――浪曲師広澤虎造一代』 NHK出版 1998年(平成10年)

李 孝徳 『表象空間の近代――明治「日本」のメディア編制』 新曜社 1996年(平成8年)

W・J・オング (桜井直文+林 正寛+糟谷啓介・訳)『声の文化と文字の文化』 藤原書店 1991年(平成3年)

*1:註が紙媒体から挿入されないままアップしてあるのはご容赦。図版など含めて、いずれちゃんと入れるようにします。

*2:註部分の原稿が発掘できなかったのをようやく見つけましたので、註を挿入しました。ただ、図版や写真の方は未だしなので当面ご容赦いただきたく……211112

*3:勢いで、図版や写真も発掘できました。挿入しておきました。……211113

*4:浪曲街頭録音」(某私立大學講師 四十二才)『浪曲』第八号 昭和28年5月 浪曲の友社 p.7

*5:「浪界ポスト」(投稿欄) 『駄々子 藝界の友』 廿五號 第三巻第三號 大正4年5月 p.52

*6:「ここで浪曲興行印刷物の三点セットともいうべき、チラシポスター類、雑誌・番付、大入袋について紹介する。興行の場合、近日来演の近日ビラ、いよいよ公演の当日ビラでせめ、新聞の折り込みや手まきのチラシで宣伝する。当時の会場では雑誌・パンフレット・番付が売られ、公演が終われば大入袋が関係者に配布される。ビラ・ポスターには新聞全紙一枚半大の全身カラー印刷の派手なものから、電柱に貼る手書きのビラまで種々様々である。(…) 雑誌・パンフレット類は個人用から大会用まであり、番付は周囲に顔写真を配布した新聞全紙大のものが多い。(…)ファンはこれを壁に貼って楽しんだ。このように番付はある程度まとまれば特別に注文される場合が多い。そのため、「大関も金次第なり番付屋」などの戯句が生まれる。」(唯 二郎 『実録 浪曲史』 東峰書房 1999年 p.183)浪曲関連のメディアの「発達」の順序としては、まず速記本が登場し、その後に番付が発行されるようになってゆく。新聞紙上に浪曲関連の記事が増えてはいたが、この『駄々子』にーのような「趣味」を媒介にした専門誌(紙)という形式の独自のメディアはまだ登場していなかったようだ。逆に言えば、浪曲を「趣味」として互いにつながってゆくような「場」の創出の仕方が可能になるくらいに、明治末期から大正初期にかけては浪曲をめぐる同時代の情報環境が変わってきた時期だったということだろう。

*7:これら芝氏の資料が筆者の手もとにやってきたのは、九六年の夏頃だったと記憶する。 芝氏が病気療養で入院されたことをきっかけだったか、浅草木馬亭の二階の『月刊浪曲』編集部としても使われていた一角を、編集長の布目英一氏などと共に整理していた時に発見したものだったはずだ。後に芝氏から、浅草土産雷おこしの何の変哲もない紙のショッピングバッグに納められたまま、片隅で埃をかぶっていたそれらの資料が送られてきた。そこには、古い新聞やこれら浪曲雑誌に各種パンフレットの類、そして今となってはすでに名前もわからない者も含まれた浪曲師のブロマイドなどまで混じっていた。当時、籍を置いていた国立歴史民俗博物館の企画展示として、浪曲をテーマにした企画をあたためていて、そのために各方面に連絡をとったりする中で、浅草木馬亭や芝氏ともそれまでより密なおつきあいをするようになっていた。企画には「おお、浪曲――「にっぽん」を作った国民芸能」と仮題をつけて、「音」も含めた展示、という試みとして、NHKとの提携を試み、さらにテイチクその他、浪曲音源を管理しているレコード会社から、SP盤の愛好家や民間の研究者などに広汎に協力を求める計画だった。この企画は諸般の事情があって頓挫したが、一連の作業の中で、当時まだ健在だった関西浪界の重鎮、京山幸枝師の聞き書きなどもVTR資料に収録することをやらせてもらえたし、また、浅草の日本浪曲協会事務所にある巣鴨プリズン慰問時の写真や、宮崎滔天孫文の立派な揮毫なども見せてもらったり、浪曲とその周辺の勉強をやっていた。芝氏はその後、九八年の年明けに帰らぬ人となられた。その前年、筆者も博物館を辞し、年来のもうひとつの現場だった地方競馬とその周辺を経巡ることに忙しく、手をつけていた浪曲に関しての勉強は残念ながら中断せざるを得なくなっていた。それでも、芝氏が託してくれた、あの雷おこしの袋いっぱいの資料のことは、いつも心にひっかかっていた。いつになるかはわからないけれども、きっとまた落ち着いてこれらを存分に縦覧、活用できる時があるはず、と言い聞かせながら、それこそ股旅ものの定形、わけありで道中を急ぐ兇状持ちの三下の片手拝みのように、心の中で無沙汰と不義理をわびていた。去年の春、縁あって十年ぶりに大学に復帰することになり、あの浪曲関連の資料をきちんと整理することを思った。あの木馬亭の二階にも劣らぬほどの埃まみれの仕事場の隅にあった紙袋は、ふたたび陽の目を見ることになった。改めて、この場を借りて、貴重な資料を託していただいた芝氏、および「浅草木馬亭」関係者の方々にお礼を申し上げておく。

*8:新聞研究、メディア史といった分野でも、これら浪曲雑誌が意識的に取り上げられてきた形跡はほとんどない。また、大衆芸能としての浪曲も、研究の対象としては決して十分な扱いを受けてきたとは言えない。川上音二郎添田唖蝉坊の業績にはすでに光が当てられて久しいが、同じく明治期のそのような身体的技芸によって「民衆」に対する上演を組織していった浪曲の周辺の者たちについては、良くも悪くも突出した固有名詞であった桃中軒雲右衛門を別にして、未だに驚くほど認識が薄いままだ。たとえば、伊藤痴遊や津田清美など、いわゆる知識層から当時、浪曲に吸引されていった者たちの軌跡も含めて、「戦後」の文科系学問領域を規定していた「気分」――左翼/リベラル系イデオロギーの側から見通しがつけやすかった部分からすれば、浪曲とその周辺は見事なまでに「影」の部分として等閑視され、正視されてこなかったと言っていい。だが、浪曲と政治的な演説会や集会とが同じプログラムの中で併存していたこと、それらを上演していた小屋や劇場自体、同じである場合が珍しくなく、当局の統制にしても、そのような現実を前提にしたものであったこと……などなど、現在の「研究」の視線の側から、それほど明確に線引きがされるようなものでもなかったらしいことが、少しずつ見えてきている。たとえば、当時の勃興期浪曲の一座についてのこんな記述はどうだろう。「そこえ行くと手軽なのは浪花節だ。長髯と肩書でヲドかすのなら幾何でも転がってゐる。引抜き早替りをやる虎吉、衣冠束帯で唸る宮川中納言横綱の土俵入りと甚句踊を余興にやる綾瀬川日清戦争の勇士、玄武門十吉と名乗る原田重吉、そのた図々しく独演をやる先生方なら数え切れぬ程ある。(…)法学士の浪花節語りさへある世の中だから不思議ではない。」(「法学士の浪花節語り」 『都新聞』 大正2年5月3日/芝清之・編 『新聞に見る浪花節変遷史 大正編』 浪曲編集部 平成9年 所収 P.62)早替りに衣冠束帯に相撲に日清戦争の勇士英雄……出自も文脈も本来異なるさまざまな芸能、雑芸、見世物の素材が分解され、都市の浪曲の周辺に蝟集し始めているさまが見てとれる。「法学士」とて例外ではない。それらインテリ/知識人の世界観において序列化されていた素材もまた、このように並列に「何でもあり」にフュージョンされてゆく。浪曲勃興期の草の根ナショナリズムとは、このような「何でもあり」の空間としての寄席や劇場、上演場の「気分」を下支えにして成り立っていた。その程度に、同時代の「路上」――物理的空間としてではなく、文化的空間として「都市」のフュージョンを可能にしてゆく「場」とは、正しく〈いま・ここ〉だった。だからこそ、柳田國男流に言えば「眼前の事実」をもう一度、できる限り手ざわりのある形で、すでに歴史的経緯の中でさまざまに分断され、線引きされた枠組みの中に互いに押し込められている資料を、もう一度既存の文脈を越えたところで縦横に関連づけて重層的に立体化してゆくことが求められる。特に、明治期末から大正期にかけての草の根ナショナリズムの勃興と、それらに支えられた国民国家形成の過程が近年、また新たな脈絡で見直されている現在、これら当時の浪曲とその周辺の「気分」が可能にしていった現実については、既存の「学問」領域を越えたところで、また新たな「評価」の視点が必要である。

*9:唯 二郎 前掲書、p.184。唯二郎のこの仕事はもともと『月刊浪曲』に「わたしの浪曲史ノートから」と題して長期連載されていたもの。浪曲研究史上でも、大きな空白となっていた戦後の浪曲界の動きに主として焦点を当てながら、近代の日本の浪曲の流れそのものも穏当に俯瞰してみせた労作である。浪曲に関する研究の基礎文献としては、戦前に出されたものとしては、正岡容『日本浪曲史』『雲右衛門以後』などがあげられる。戦後は、秩父重剛『浪花節大全』三好貢『浪花節一代』、平岡正明浪曲的』、芝清之『』などがある。これら浪曲の「研究」の言説の歴史と来歴は、それら文献についての整理、解説と共に、また別途論じる準備がある。

*10:木村正義 「駄々兒生る」『駄々兒』第壹號 大正2年6月 p.5

*11: この種の「趣味」を媒介にした雑誌の嚆矢とも言える野間清治の『講談倶楽部』が1911年(明治44年)創刊時、10000部以上刷って1800部しか売れなかったと言われている。その前年、『雄弁』創刊号が18000部の大ヒットになったのに気をよくしてのものだったというが、当時の「雑誌」の一般的な読者層のリテラシーの水準を補助線として考慮すれば、この程度だったということか。また、時代は異なるが、町村敬志「戦前期における在日朝鮮人メディアの形成と展開――内務省警保局資料を中心に」(『一橋大学研究年報 社会学研究』40、2002年 pp.181~233)で紹介、言及されている内務省資料によれば、昭和初期、『浪曲藝術』『藝の友』『浪曲番付』の三誌/紙が「在日朝鮮人刊行物」として捕捉されていて、それぞれ200部から500部と記録されている。これらは崔永祥(祚、または昌、とも表記される場合もある)が主宰する永昌社とその周辺が発行していた浪曲雑誌だが、この種の半ば同人誌的な規模でのメディアの発行部数をある程度推測する場合のものさしのひとつにはなるだろう。ちなみに、崔はこの時期、興行も含めて東京の浪界で活躍した朝鮮人。東家楽燕を校長とした浪曲学校を設立したり、盛んに動きを見せていた。三波春夫浪曲師としては南条文若)が少年時代、東京に奉公に出てきた時に入学した浪曲学校はここだった。

*12:「駄々兒賛助員規定」 (立志社名義) 『駄々兒』第壹號 大正2年6月 巻末8

*13: 当時、二百二十版あまりを重ねたと言われる、ベストセラー『実業読本』の著者、武藤山治はこう定義している。「実業なる言葉は英語の Business という言葉の訳語である。(…)実業とは、虚業に対し、真面目に働く者の仕事の総称である。」武藤は、それまでの武士道に代わって新時代の国民精神の中核に、この「実業」を置こうとしていた。その意味で精神主義的であり、成功した明治期の実業家としての矜持が感じられるものだが、しかし、同時代にある過剰な意味を伴って流通するようなった「実業」というもの言いに込められていた仰角の視線の内実については、そのような外面的な解釈からだけでは理解できない多様性があることは言うまでもない。それは、先回りして言っておけば、資本主義社会の現実をどのように日本人が理解していったのか、という膨大な過程のひとつでもある。

*14:日本蓄音器商會は、「ニッポノホン(フォン)」レーベルで当時知られていたレコード会社。もとは日米蓄音機製造株式會社といい、アメリカから輸入したプレス機でレコード製造を始めた草分け。後に日本コロムビアになる。(『日畜(コロムビア)三十年史』 株式会社日本蓄音器商會 1940年)帝國鑛泉は、大阪の川西市平野にあった会社で、「三ツ矢シャンペンサイダー」の製造元。後に日本麦酒鉱泉に合併され、さらに大日本麦酒を経由してアサヒビールになったが、この大正二年当時はまだ明治40年創立から間もない時期で、自前で清涼飲料水製造をやっていた。「サイター」と清音の表記であることにも注意。

*15:霞外 「土地所有權――地上權 小作權」『正義之友』(第3号……ただし、表記はない) 大正2年5月 pp.7~8。 とは言え、その後も同じ「霞外」名義の原稿は続けて『駄々子』に掲載されていて、内容についても「社会学概説」「経済小観」などの題目で自由主義思想、当時の外来社会思想の概論のようなことを堂々とやってはいるので、具体的に原稿のどの部分が問題になったのかは現状では、特定しにくい。 この「霞外」は、目次では「前田霞外」とされている。「前田」の苗字は『正義之友』の発行人としてクレジットがあり、『駄々兒』になって名前の消えている「前田俊彦」と同一だが、個人的にはこれは原霞外である可能性を疑っている。原霞外は、山口孤剣や白柳秀湖らと共に、大原社会問題研究所に連なる「火鞭会」の発起人で、唯二郎の前掲書中にも、「社会主義者として健筆を振るい、伊藤痴遊著『記憶を辿りて』によれば、社会主義の宣伝に浪花節を活用することを考え浪曲家になった。明治44年刊の台本集『浪花節有名会』の巻末の番付に、欄外に別格として宮崎滔天と対比してその名がみえる」とある。「新聞・雑誌に寄稿すると共に、自ら蓄音機を背負って地方を回り、浪花節や講談を演じながら社会主義の普及に奔走した。この霞外が片山潜らと語り、痴遊、浪速亭峰吉などを招き、労働者の向上と慰安を目的として開いたのが「労働者奨励会演芸会」である。「浪花節はなぜ義士伝なのか」と問い、「貴顕紳士の玩具になるな」と説く。」(唯 二郎、前掲書 p.11)また、その伊藤痴遊も霞外との交友を、このように述懐している。「彼が、私の所へ、来るやうになったのは、社會主義者として、警察官に、逐ひ廻されて居る、時分であった。幸徳や堺が、平民新聞を興して大いに社會主義の鼓吹を、はじめた頃、彼は、山口孤剣と、連れ立って、よく私の家へ、訪ねて来た。(…)彼は、義太夫を語り、都々逸を唄うことに、最も得意であった。三味線も、爪びき位はやって、すべて唄うことには、一種の趣味を、有って居た。社會主義の宣傅に、浪花節を、利用して見たい、といふ考へから、私にその相談があった。是れは良い思附きで、うまく行けば、大したものだ、と思って、駒子、峰吉、重勝なぞいふ、浪速節語りに、紹介してやった。」(伊藤痴遊『政界表裏 快談逸話』『伊藤痴遊全集13』所収、平凡社、1930年、pp.463~464)このような「民心教化」「思想善導」のための有益なメディアとして、思想的な立場は異なれど、浪花節がとらえられていたことは、広い意味での「路上」の芸能がこの時期、国民国家形成に重要な役割を果たしていたことを補助線として、初めて正当に理解されるはずだ。それは何らかの意図や方向性をあらかじめ定められていたか否かだけで判断されるべきものでなく、国家の側からであれ、何らかの思想信条の側からであれ、あるいは宗教教団からであれ、そのようなさまざまな方向からの「意図」や「思惑」が乱反射するような同時代の「場」に置いて現出された現在であった、ということにおいて、まず解釈され評価されるべきものだ。また、別の資料でも、「原霞外、岩本無縫例の痛快淋漓なる社会主義的新講談を演じ」(『光』第1巻第8号、光雑誌社、1906年3月、p.6.)などの言及もある。「例の」と称されるほど彼らの演説、ないしはパフォーマンスが有名だったらしいことと共に、それが「新講談」と表現されていることにも注目したい。これらが当時、現実には浪花節と隣り合わせの上演実態だった可能性も含めて、このような身体的、演劇的な「マニフェスト」への欲望が膨張していた時期だったことを指摘しておく。ちなみに、ここで霞外と並んで記されている岩本無縫は霞外同様、社会主義者の詩人で、霞外との共著と共に、『東京不正の内幕』(明治40年)などの単著もあるが、いずれも古書市場でいささか異様な高値がつけられており、残念ながら現物は未見である。ちなみに、無縫関連では以下のような記述もある。「今年の「神田古本まつり」の 古書特選即売会で147万円なりで販売予定の『煩悶(はんもんき)記』てゆう奇書、その全文が『遊星群 時代を語る好書録 明治篇』by谷沢永一(2004,和泉書院)に収録されているとゆう新聞記事をみてスケベイごころがムラムラ。早速図書館で借りてきて、『煩悶記』の部分だけをまっさきに読んでみました。何でもかんでもにギモンをいだき、もだえ苦しみ自殺未遂をくりかえした果てに1度は奇怪な1個の「肉塊」と化した「予(おれ様)」が、ついにハラペコ問題の究極の解決法を発見。それは「積極的な自殺としての盗賊」になることだったのでした。北海道で異人の海賊にさそわれて密出国し、北欧で窃盗団の一員となり、仲間の処刑になみだをながしたりするなかで、新‐盗賊主義者としての瞬間の哲学を研ぎすませていく。みたいなドス黒いセンヅリばなしが、熱にうかされながらの妄想日記風につづられているのでした。序文として、近代ニポン自殺史上の有名人、日光‐華厳の滝に哲学的身投げ自殺をしたはずの明治時代の旧制高校生‐藤村くんのその後の談話を「或人」が口述筆記したノートを写した「草稿」を、「柚木唯在」と名乗る青年から借金のかたとして託された編者‐岩本無縫が公刊した。とゆう、怪奇幻想小説にありがちな枠ものがたりみたいなふちどりがついていて、ウワごとのような妄想てつがくの作者がどこの誰でドンナひとなのかを決めるのは、読者の妄想におまかせしますというかたちになっていて。。」 http://www5f.biglobe.ne.jp/~dobunko/index16.html#nik51020 ※ web上の資料の哀しさ、URLが404.なのでWayback Machineにて復活&画像化しておいた……211112 f:id:king-biscuit:20211112110335j:plain

*16:木村正義 「筆禍」『駄々兒』第壹號 大正2年6月 pp.1~2。

*17:前註15に同じ

*18:この他、口絵は「東京浪花節芸妓」と題された写真版が両面二ページ、後半に差し挟まれている。「福岩田 駒奴」「松春よし 源平」「(浅草)玉さくら 喜蝶」「(新橋)新辰中 長次」「(新橋)角力家 力八」の五人が掲載されている。このうち、大きくフィーチュアされている「角力家 力八」は男装の総髪で、羽織袴にテーブル掛けのかかった西洋テーブルに右手は扇を突いて、左手は腰に、という、雲右衛門ばりの浪曲師の装いである。f:id:king-biscuit:20080220140807j:plain「大阪初上りの力八は義太夫でたたき上げた腕前、同じ達者の綱八の処から昨日披露に及んだり。義太夫が嫌なら浪花節をやりませうかと入道張り奈良丸張りの器用な咽喉をもって御座る。」(「おひろめ――新橋角力家の力八」『都新聞』大正2年5月18日/芝清之・編 『新聞に見る浪花節変遷史 大正編』 浪曲編集部 平成9年 所収 P.65)この時期東上していたのにあわせてのプロモーション活動の一環だったのかも知れない。いずれにせよ、女義太夫浪花節とが芸妓と花柳界を媒介に相互流通していることが見てとれる。

*19:これら当時の浪曲雑誌の経営状態や読者の広がりを推測する上でも、この朱書自体、言うまでもなく貴重な資料である。いわゆる名刺広告に名前を連ねている議員や商店、会社などの詳細や、誌面ゴシップ欄に含まれる人や組織についての背景など、相互に手間をかけて連携、解読してゆけば、当時の浪曲とそのファンをめぐるある種の「場」の復元がある程度可能になるかも知れない。これらの「歴史人類学」的な作業は今後の課題である。

*20: 『藝一聲』の主宰は本多哲。寿々木米若の十八番『佐渡情話』の台本作者である。もとは早稲田出の「学士浪曲」のひとりで、早川辰燕の弟子となり本多燕左衛門を名乗って浪界デヴュー、雲右衛門の周辺にも出没して宮崎滔天と一座を共にしたこともある。その後何度も芸名を変えて大阪を中心に活動、時には台湾や上海などまで放浪、また日蓮宗にも深く帰依したり、と、その有為転変ぶりはなかなか興味深い。表題づけも、「米薪しょう油、酒肴、一切合財ただにして、寄席も芝居もロハで見せ、男は女に惚れ邦題、女は野郎に腰巻の洗濯までさせたなら、ソッチの都合はよかろうが、さうは問屋じゃ卸さない」といったケレン味たっぷりの時流ものをやっていたりもしたらしい。(『都新聞』大正9年2月11芝清之・編 『新聞に見る浪花節変遷史 大正編』 浪曲編集部 平成9所収 p.189)

*21:「浪界 匕首一閃」 『駄々子 藝界の友』 廿四號 第三巻第三號 大正四年四月 駄々子三周年記念號 p.51