草ばん馬の風景から

 猛暑が続いています。加えて、突発的に異常な集中豪雨や雷などが全国のあちこちで。さらに、それに伴い河川の増水なども目立ったりで、ああ、こりゃあ確かに、これまでの夏とは様子が違ってきてるよなあ、という程度の感想を誰しも素朴に抱くようになっています。

 馬産地北海道も同様の夏、です。とにかく今年は天候が不順。ちょうど先月初めのサミットくらいからこっち、カラッと晴れた日が少ないまま。しかも、湿気が多い。もちろん内地と比べればまだましですが、それでも北海道のこれまでからすればまるで梅雨のようなもので、牧場は夏場の重要な仕事である牧草作業が進められないので困っています。そこに、このところの飼料と燃料の高騰がからんで、ただでさえ厳しい馬産をめぐる環境にさらに追い打ちをかける形に。馬産農家自体の減少に歯止めがかからず、まだ踏ん張っている牧場も繁殖牝馬のタネつけを控えざるを得ず、軽種馬の生産頭数は来年春にはさらにまた減るだろうと言われています。

 飼料や燃料の問題については、畜産農家や漁業関係者などはそれぞれ政府に支援策を強く求めていますし、また政府もそれなりの対処をする構えを見せていますが、こと馬産に関しては他の業種に比べて動きが鈍い。農水省の管轄にありながら、ホンネは牛や豚などと同じ畜産業として実は認識されていないという、ニッポンの馬産の置かれている微妙な立場が、ここでもネックになっています。

 馬が日常生活から見えなくなってゆき、にも関わらず競馬はみるみるうちに大衆化して、イメージとしての「馬」だけは全国的に知られるようになっているという、この世界的にも奇妙なわがニッポンの状況は、まだかろうじて生きた馬が日常に存在している場所や地域にとっても同じこと。

 たとえば、今年も先月来、去年の夏同様、いわゆる草ばん馬の現場も暇を見つけては顔を出すようにしているのですが、道内から東北地方にかけて、夏場は毎週どこかで開かれていると言っても過言ではないこの草ばん馬 (青森などでは「馬力」と呼ぶようですが) も、地元に住む人たちの多くにとっては「見えない」存在になっているようです。会場となる馬場にしても、河原や資材置き場を利用して有志がこさえたものがあり、土地によってはかつての家畜市場跡だったりするのですが、それらの場所を地元の人たちもあまりよく知らなかったりする。実際、草ばん馬の大会が行われている当日でさえも、どうかするとどこでそんな催しが行われているのか、こちらがその気になって意識しないことにはよくわからないことも。
 どこからともなく馬を積んだトラックやトレーラーが集まってきて、昔のせり場の跡や河原の端っこにたむろし始めて、いつの間にやら大きな生きものの気配が……という具合で、それはそれでかつての相撲や芸能の興行の匂いがそこはかとなく漂っていていいものなのですが、それでも、これだけ地域起こしなどが声高に言われているご時世なのに、この草ばん馬を「観光」の脈絡も含めて積極的にアピールしようとする動きが意外に薄いのは、やはり生きた馬そのものがわれわれの日常から遠いものになっていることがどこかで関わっているはずです。


 また、馬産農家と同じく、いやそれ以上に、この草ばん馬の世界も高齢化は目立ちます。実際に生きた馬と暮らしの中でつきあってきた経験のある世代が、馬への想いをよすがに支えているというのがこれら草ばん馬の現在です。なのに、「馬事文化」といったもの言いが持ち出される時に、各地の伝統的なお祭りや神事にからんだ馬は取り上げられても、これら草ばん馬が正面から論じられることはあまりない。

 それでも、正しく「文化」だなあ、と感じるのは、暮らしの中で生きた馬とつきあってきた人たちの身体技法や身振りといったレベルがギリギリまだ「伝承」されているらしいことです。たとえば、むかしの「馬方」の「先追い」「先走り」「先駆け」の類が未だに身体に宿っている。口取りが一緒に走る青森など東北の草ばん馬のルールは、それがまた一段と顕著。あと、「相撲」の感覚も間違いなく重なってますね。だって、呼び方からして「○○場所」だし、 なんというか、ニッポンの「タフ」の現在形というのはこういう表現、こういう場にうっかり宿っちゃうんだなあ、と民俗学者としてはしみじみ感じてしまいます。

 去年は、例の馬インフルエンザの影響で、日程が混乱して開催を中止したり変更したところが多かったのですが、今年はその分なのかどうか、初夏から8月にかけてだけでなく、9月にまでまたいで日程が連なっている様子。どこかなつかしい、馬とわれわれニッポン人とのつきあい方のあるたたずまいに接してみたい向きは、ぜひ一度、足を運んで見られることをおすすめします。