振り込め詐欺とケータイの関係

 いわゆる「振り込め詐欺」の被害がおさまらないようです。この世界恐慌まがいの状況でなお、被害額は増え続けているとか。手口は国境を超えて、アジアに向けても広まっているとも。お盛んなものです。

 もともと、一人暮らしのお年寄りを狙って、という手口だと言われていて、だからメディアリテラシーの格差が、情報弱者としての世代論が、といった脈絡で例によって評論家から文化人から百家争鳴。そういう背景は確かにあるのはわかりますが、ここは敢えてひとつ、おそらくあまり指摘されていないだろうことを。

 この「振り込め詐欺」全盛、携帯電話が普及したことで「電話」の意味が変わってしまった、そういう情報環境の変貌も間接的に関わっているんじゃないでしょうか。

 かつて、電話は「世帯」に引き込まれるものでした。だから置き場所も玄関先の電話台か、居間の片隅だったわけで、そこではあくまでも「世帯」「家」に対して外からアクセスしてくるもの、というのが前提でした。たとえば、学校の同級生にかける時でも、電話口に出てくるのが親だったりするのは当たり前で、だから「○○クンいますか?」と尋ねる作法が子どもでも常識。まして、彼女や彼氏にかけるとなれば、さてその前に親なり兄弟なり、そこの「家族」と会話をかわさねばならないのが普通でしたから、その前の緊張感はいまからすれば微笑ましいくらいに異様でした。また、めでたく相手が電話口に出てきたとしてもその会話自体、「家族」に聞かれているのが普通でしたから、そうそう込み入った話は電話ではしにくい、というのもまた当たり前。「長電話」が悪徳とされていったのは、単に課金の問題だけでなく、そういうプライベートな会話が「家族」の中にあたりまえに居座ってしまうこと、に対する違和感も介在していたはずです。

 これが玄関先や居間から、それぞれの「部屋」に電話が切り替えられてゆくようになると、会話の内容もプライベートな閉じたものになってゆく。「電話」が「個人」と直結するメディアとして意味づけられてゆくわけで、それがさらに携帯電話になると、これはもう一気に電話口に出るのはその「個人」でしかなくなる。つまり、「個人」を取り巻く関係をすっ飛ばして「個人」同士を直結するメディアとしての携帯電話の普及は、それまで蓄積されてきた「電話」の社会的意味をひとつ、大きく変えてしまった。「社会」が介在するという意識が希薄なまま互いに直結されてゆく「個人」に宿る、想像上のコミュニティがどのようなものになるのか、携帯電話を介したコミュニケーションのあり方もまた百家争鳴ですが、こういう素朴な肉感レヴェルの疑問からもう一度発してみる必要があるかも知れません。

 「家族」、ないしは「家族」に代表されるような「社会」の側に属する他人の眼によるチェックの機会があれば、「振り込め詐欺」もここまで猖獗を極めなかった可能性はあります。一人暮らしのお年寄り、というシチュエーションが社会に蔓延してしまっていること自体と共に、そこに加えて、それらお年寄りすら「個人」として等価に、平等に「市場」としての世間とうっかりいきなり結びつけてしまうメディアとしての携帯電話の普及という条件も、同時にもっと考えてみていいことのように思っています。もちろん、年少者に考えなしに携帯電話を持たせてしまうことの是非などもまた、同じ前提で考えられるべきでしょう。