「レキジョ」の歴史認識

 「レキジョ」と呼ぶのだそうです。昨今、にわかに増えているという「歴史」好きの女性たち。大河ドラマや小説はもとより、ゲームにマンガ、アニメや同人誌などでも「歴史」ネタは着実に増殖中。興味は実際の史跡やゆかりの土地めぐりなどへと広がり、場所によってはにわかにプチ観光コンテンツにも。思えば少し前、新撰組陰陽師がブームになったあたりから兆しはありました。いまどきの情報環境を存分に呼吸しながら増殖を続けるそれら“おはなし”に織り込まれた「歴史」は、学者や文化人などエラい人たちがこれまで頑なに信心してきたしかつめらしい歴史の水準と、ああ、なしくずしに地続きになっています。

 大学でも「歴史に興味がある」という新入生が一定の割合で混じります。でも、彼ら彼女らは学問としての歴史になど興味なし。当たり前です。そんな歴史は全然おもしろくないのですから。なので、「歴史」という観念自体が〈いま・ここ〉の情報環境においてどれだけいい感じに通俗化しているのか、それが「レキジョ」と向かい合う時の最低限の腹のくくり方です。

 今に始まったことでもない。かつての「皇国史観」も「マルクス史観」も、歴史は常にそういう通俗としての位相も含んで存在してきました。近隣諸国の言い立てるあの「歴史認識」にしても同じこと。“おはなし”の水準と地続きになっている現実を見ないまま、「正しさ」だけで互いに口角泡飛ばしあったところで無駄なこと。その種の不自由なマジメさに、この何でもありの情報環境でうっかり結晶してきた「レキジョ」以下、〈いま・ここ〉の世間に共有されている「歴史」と虚心に向かい合える器量があるかどうか。そういう意味での「歴史」認識の共有こそがいま、文化としての歴史にとって、おそらく最大の勝負どころのはずです。