「馬方」の記憶

 ふだんの生活、日常に馬の姿がほとんどいなくなった国、にあたしたちは暮らしています。わずか三、四十年のうちに、みるみるうちに馬という大きな生きものを暮らしの中から追放していった社会。なのに、その時期に「競馬」という装置をほんとに信じられないような速度と規模とで国民規模でのレジャーに育てていった。さらに、いまや「世界」に対してもその存在を認められるようになっています。

 けれども、かつてまだ確かに日常に馬がいた。その頃、その時代の記憶というやつを、ささやかな文字、ちいさなことばの陰からそっと拾い上げる。これだけ「競馬」が大きなものになり、最近売り上げに翳りが見えているのは事実としても、でも何十万、何百万という人が馬の名前や血統を口にして血道をあげるようになったいまのこの国で、もうそのようにかつて馬がそこに共に生きていた頃の風景自体、探したり掘り起こしたりするような酔狂は、ほとんど誰もしなくなったようです。

 でも、たとえばこんなちょっとした記述に、馬が身近にいた時代の匂い、たたずまいがよみがえることもある。

「柳の枝に葉が小さくのびて青かったと憶えている、街燈の下の道路の片脇で、馬力曳きの男が酔払って、自分の馬にあやまっているのを見た。震災以前の芝飯倉の坂下でだった。

 

 「勘弁しろ、なあ、一緒に毎日働いているくせに、おればかりが酔払って、済まねえなあ、勘弁しろ」

 

 酔興といえばそれまでだが、酔に托して、日ごろ口に出来ないことを云って退ける酔払いがある以上、この馬曳きのいうところも、日ごろ心にのみあって、口に出せなかったものが出たとみていいのではないかしらん。」

(長谷川伸『耳を掻きつつ』)

 長谷川伸の書き残したノートに含まれていたもの。こういう風に、街の「馬方」さんは普通に生きていたらしいことを知り、思わずにっこりしてしまいます。もちろん、当時の馬の扱いは日本人の例に漏れず、いまのものさしからすればひどいものだったはずですが、それでも生きている者同士の通じ合いというのはあるわけで。「相棒」といったもの言いもまた、人だけでなく、生きものとの間にも確実に宿されていました。

 「馬芝居」というのもあった。『馬芝居の研究』(森永道夫著 1974年)という、ほとんど唯一と言っていい研究書も残されているが、ここはやはり同じ長谷川伸の記述から。

 「馬芝居といって、馬と人とが主役で、『塩原多助』などを見せる一座があった。姉川仲蔵とかいう役者か座頭の一座が、最後のもので、それ以来は全くアトを絶ったと聴いている。曲馬芝居というものもあったが、それは馬芝居とは質が違っていた。」

 この馬芝居で、馬をどのようにうまく芝居をさせていたのか。

 「このアオのつかい方にはタネがあるのだそうで、聞いた話では、多助の袂をくわえさせるのには、見物の眼をくらまして馬の好物を袂へ入れる。肩をくわえさせるのも馬の好物を手練の早ワザで肩へ入れる、とアオがその好物を口へもって行く、それを役者の方で芝居にして見せるのだそうである。袖が千切れたり帯が引きほどきになるのは、アオの口にハマセてある馬具に、ちょいと引ッかけいいように小さい金具がとりつけてあるのだそうだ。」

長谷川伸『石瓦混淆』

 兵隊にとられた時には砲兵だったので、当然馬の扱いも知っていた長谷川伸ですから、こういう話にも関心を示し、わざわざ書きとめもしたのでしょう。実際にどこで生まれたどんな経歴の馬が役者と共に演じていたものか、今となってはたどるよすがもありませんが、犬芝居というのもあった時代のこと、生きものと人間とが共に生きる場というのは、何も「競馬」だけでもなく、あたりまえのようにそこにひょっこりあった、ということでしょう。

 そんな場が日常に見えにくくなったことも、大きく言えばいま、「競馬」の下支えがどこか危うくなっていることの原因のひとつだと思います。とは言え、おいそれと昔に戻れるわけもなし。ただ、とりあえずそのような歴史、そのようなこれまでというのがわれら日本人にも確かにあった、そのことに気づいてゆける何ものか、を少しでも〈いま・ここ〉の「競馬」の中にさしはさんでゆくこともまた、「競馬」をこの先、まだいきいきしたものにしてゆく仕事につながるはず、と信じています。