「たかる」側の器量

 「50億」という数字が最近、馬産地を歩くとたまに聞こえてきます。いったいどうやって使うんだよ、という自嘲気味のせりふと共に。

 5月の末でしたか、農水省が発表した馬産地再生のために投入される補正予算の総額。三年間で、ということでしたが、馬産地へのこの種の直接支援というのは異例中の異例の由。日高に代表される馬産地の状況がよっぽどひどいことを、さすがに農水省、よく承知しているということでしょう、とりあえずは。

 けれども、多くの牧場にとっては現実問題として、その金額はほぼよそごと。いざ何かに使おうと思っても、使い道やら引き出し方やら、なんだかんだと制約が山ほどくっついてるのは言うまでもなし、しょせん軽種馬農協やら何やら、関係団体を窓口としてたくさんややこしい書類が行き来した末に、でないと目の前にやってきようのない性質の「50億」。まして、今日明日の支払いも苦しくなっているのに、そんな何ヶ月も先にやって振り込まれるようなカネをあてにして未来を考えられるような余裕がある生産者はまだ恵まれているわけで、もう競馬という産業そのものの将来自体を悲観して、逃げられるものなら逃げ出そう、と腹くくり始めている人たちが静かに、増え続けているのが現実です。まして、制度の説明をしてまわる関係者に向かって、「ウォーキングマシンなんかもうこれ以上こさえたところでどもならん。だったら補助馬でも抽選馬でももう一度、復活して市場に直接注射できるようにしてみれ。しょせん、喜んでんのはマシンや牧柵扱う業者だけでないの?」といった半ばヤケクソのあてこすりまであちこちで出てくるようでは、せっかく太っ腹見せての支援策も、残念ながらその甲斐があまりなさそうです。

 補助金漬けの農政が戦後ニッポンの農業をダメにした――評論家などがよく口にするもの言いですでに耳にタコ。総論それはあたしもそう思いますし、農政の一環としての軽種馬生産という産業もまた、そういうダメにされてきた仕組みの中にあり続けてきた、それも厳然たる事実です。そういう意味で「お役所競馬」を一度清算して、新たな競馬のありかたを、馬産地も含めてまるごと構築してゆこうとする蛮勇が必要――それもまた、懲りずにずっと言い続けてきました。その立場は今もなお、全く変わっていません。

 けれども、と同時にまた、いや、だからこそ、かも知れませんが、そうやって正しく「たかる」側の資質というのも、もしかしたら衰退しているのかも知れない、そんな憂いも全く等価に、等量に抱いています。「お役所」もダメだけれども、それに「たかる」側も以前よりずっと腐ってきているんじゃないの? と。

 誤解を恐れずに言いましょう。たとえ補助金であれ何かの支援策であれ、はたまた素性のあやしい資金であれ、いずれ自分たちとは関係のないどこかの「天の声」ひとつで降ってくる恵みのカネを、どのようにおのれの稼業の側に引き寄せて役に立つように使い回してやるか、そんな知恵と腕力を精一杯振るおうとするやんちゃな活力もまた、正しく馬産地のものだったはずです。

 「乞う」は「請う」ことであり、身ひとつで世を渡ってゆく者に等しく備わっている、「富」とそれを有している側に対峙する上での正当な権利でもあった。

「押もらい、たかり、ゆすり、さまざまのことばで呼ばれながら、それは幕末日常空間に、かすかに、しかし深く走った間隙であり、瞥然たる古代心性のきれっぱしであった」

(松田修「革命と聖痕」)

 いずれ「施し」として投げ渡される「公」の資金を、しかし間違いなく自分たちの生の充実のために、喜々として分捕り、使い回してふくれあがっていったニッポンの馬産は、まさにその果実として戦後ニッポンの競馬という、国民規模での「祝祭」を下支えする資本と化してゆきました。それは何も競馬に限ったことでもなく、「戦後」という空間であらゆる領域で現出されていた「公」と「私」との関係性のある位相、であり、もっともゆるやかな意味での「文化」を支えてきたからくりの、最もニッポン的な「伝統」の領域と関わっているように思います。

 ぶっちゃけた話、いくらふんだくっても構わない、しょせんは「公」のカネ、問題はそれをどれくらい競馬のために、この国の馬産のために惜しげもなく全力で使い倒すか、そんな覚悟と器量がいまの馬産地にどれくらい残っているのか、ということです。なのに、いまやそこらの小役人と選ぶところのない了見で、どれだけ何を買えるか、どれだけ自分だけおいしいことができるか、そんな程度の志で競馬という仕事にいまどき関わろうとするのならば、それは違う意味で、堕落だとあたしは思います。50億まるごとオレによこしてみろ、馬の仕事に関わるみんながシアワセになるように思いっきり使い倒してやるから――嘘でもそう言ってのけられる関係者が、もうどこにも出てこないらしいこと自体、競馬という仕事がすでに枯渇しかかっている証しです。

 馬が売れないのは、何もいまに始まったことでもない。「馬を買って下さい」というセールストーク自体がもう成り立たなくなっている、そんなぼやきも地に満ちている。でも、だからこそ明るく、あっけらかんと「社長、一緒に損するべ」とニコニコしながら持ちかけることのできる、そんな生身のカラダを伴った馬産地がどうして見えなくなったのか。古き良きダンナ、としてのいい馬主がいなくなった理由のひとつは、そのような牧場、馬産地の生身が絶滅しつつあることともどこかで根深くからんでいるかも知れない、と思っています。