小沢一郎という教材

 いやあ、事態の推移が早すぎます。編集部から原稿の依頼があったのが正月明け、「小沢一郎に退陣勧告」という趣旨の特集でひとつ、という話だったけれども、その後の展開は、秘書3人の逮捕も含めてすでにご案内の通り。というか、現在19日の時点でようやくご本尊自ら、東京地検からの任意の事情聴取に応じてもいい、という意思表明をしたとかしないとか。果たして今後どういうことになるのか、誰もが固唾をのんで見守っているのが現状であります。

 年明けから一連の過程で明らかになったことは、まず、今の民主党政権というのがあらゆる意味で「戦後」で「昭和」な政治のあれやこれやの負の遺産の、その澱のような部分を煮詰めて結晶させたような代物である、ということがひとつ。その最もわかりやすい形で小沢一郎という集約するキャラクターが一気に浮上しました。そして、それら事態の表層から一歩引いたところで案外重要なことというのは、今回、わが同胞の間にこれまで考えられなかったくらい広汎に、その「戦後」の政治というやつがどのような環境で支えられてきたのかについての通俗的理解が深まっているということ、これです。田中角栄も「金権政治」もロッキード事件も、金丸も竹下も細川政権も、すでに「歴史」の相に組み込まれつつある概ね40歳前後から下の、高度経済成長以降に生まれ育った新たな同胞の意識の最大公約数にとって、まるで断末魔の走馬燈のように「戦後」政治のあらゆる要素を詰め込んだ形で上演される今回の「小沢一郎」劇場は、上質な「歴史」のテキストとして眼前に繰り広げられつつあります。

 なので、その花形であるわれらが小沢一郎丈にはこの際、徹底的に「戦って」いただきたい。断固、検察「権力」と「戦い」続け、もちろん今やかの半島並み、見事な一枚岩の団結を誇る民主党ともども、徹底抗戦を貫いていただきたい。そのように意地汚く旧来の地位に、利権に、さまざまなしがらみに執着し続ければ続けるほど、われら国民にとっては、ついこの間まで生きて稼働していたはずの「昭和」で「戦後」な政治とは実際どのようなものだったのか、その政治のからくりによって動き、動かされていた世の中というやつの仕組みはどの程度のものだったのか、を一発で理解する、願ってもない生きた教材としてあっぱれ即身成仏していただけるというもの。いずれ過渡期、転形期の様相さらに深まりゆく昨今、どうせならもう何もかも一緒くたに、きれいさっぱり葬り流してまだ見ぬ明日、次なる時代へ顔あげて快活に向かってゆく意味でも、何ひとつ思い残すところのないよう、ここは立派に最後まであがき続けていただきたいものであります。

 仄聞するところでは、何があっても議員バッジだけははずさないだろう、というのが新聞記者や専門家の大方の観測とか。いや、善哉善哉。それでなくてはわが国民の思想善導、身をもって時代の変わり目、「構造」というやつがどのように遷移してゆくのかをあたかものぞきからくりのわかりやすさで眼前に示してゆく名誉ある教導職の役回りは果たせやしない。また一方では、田中角栄のように最後まで抵抗し続けて斃れるのが本望、ともささやかれているとか。それもまたよし。そのような末路を夢見てしまう、その意識のあり方も含めて今の小沢一郎とはすでに等身大の人間であることを超越して、「戦後」の政治の本質を一瞬にして思い知らせてくれるある種の重要無形文化財なのですから。どうかどうか、最後の最後まで検察の横暴、国策捜査、アメリカのさしがね、ユダヤの陰謀、その他ありとあらゆる妄想……あ、いや、豊かな学識見識想像力を全開全力で駆使して見せていただきたい。必ずや、われら同胞、その見事なまでの往生ぶりを末代まで語り継ぐことでありましょう。時と人、場所とをわきまえて降臨したかのようなこの上ない絵解き、見世物としての小沢一郎、嗚呼、以て瞑すべし。

 とは言え、絵解きの果てに残されてしまう、大きな問いというのもあります。たとえば、そんな「戦後」の廃棄物のような政権を、「選挙」という手続きを踏んだ結果、うっかりとこのような「政治」の中心においてしまうようになったその理由。あるいは、事件の本質がどうこうよりもずっと手前、たとえば小沢一郎をめぐる民主党やその応援団たるメディアや文化人その他の反応を眺めていて、なんとまあ、申し合わせたように何かによく似てくるものよ、とつくづく感心、濃厚な既視感に浸らされてしまうのは、さて、どうしてか。想像力の水準において、期せずして析出されてくる「構造」のかたち。「戦後」とは、そのような負の現われをまるで方程式のようにある一定の条件下で常にあぶり出してくる、そんな何ものか、だったらしい。

 この先、果たしてどんな筋書きが準備されているのか、われら国民、名無しの良き観客の矜持に賭けて、しかと耳目をそばだてて見届けておくことにしましょう。真の未来、この国の本当の明日のかたちは、そのそれぞれの経験の上にこそようやくその姿をあらわしてくるもののはず、です。