「ゆとり教育」の本質

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 いわゆる「ゆとり教育」が一時期、問題になっていました。もしかしたら、昨夏の総選挙以降、政局のみならず、足もとのあちこちが棚落ちを始めているようなあれやこれやで日々のできごとからあまりに錯綜しているニッポンのこと、多くの人の脳内ではもうすでに、ああ、そんなこともあったなあ、程度に記憶の背景に後退しているかも知れません。

 若い世代の教育の質が明らかにおかしくなってきている、というのは、それ以前から、教育を中心にしたいろんな現場から指摘されていた現象であり、問題だったのですが、さすがにその当該世代が実際に社会に出る年齢に達し、日々の実際の仕事の場に参加するようになってくると、世間もよそごとでいられなくなったのか、具体的に問題視する声がそこここにあがり始めました。もちろん、根本は明らかに教育政策の失敗、それゆえ、そもそも臨教審が、いや、一部の文科省官僚が、と責任のなすりあいも含めた「戦犯」探しも行われていたようですが、いずれにせよ、のどもと過ぎれば、のご多分にもれず、このところもう正面からはあまり取り上げられなくなったような印象があります。

 まあ、「ゆとり」というもの言い自体は、web界隈ではある種の若い世代への蔑称として、またある種の自虐ネタのもの言いとして広まってきてはいますが、しかしそれらはまた、かつての「おたく」や「コギャル」などと同じように、もともとの文脈などとっくに忘れられたところで自由自在に使い回されることで、その内実すら見えなくなった漠然としたコピーライティング、消費され、消耗のサイクルにだけすでに組み込まれた残骸に過ぎないところがある。「ゆとり教育」と呼ばれる現象が現実にどのような問題をわれわれの社会に、そして未来に残してゆくのか、についてのつぶさな検証などにはまずつながらない。このように、問題は日常化することで、陳腐化し、日々の意識の背景に固定されてゆきます。

 けれども、本当の問題はそこから先、です。

 問題があたりまえになり、普遍化してゆくことで、ひとつ現実のものさしがシフトチェンジする。そこから先はそのチェンジされたものさしに従って現実を裁量してゆくことになるわけで、同じ問題であってもそれが当初、問題として「発見」され「意識」されるようになった環境とはすでにずれたところで、ずっと問題は温存されてゆくことになり、しかしそれを問題として認識し、相手どる足場はすでに別のところにシフトしている、と。

 「ゆとり」がコピーライティングとして陳腐化し、問題が日常化したように見える今こそが、「ゆとり教育」を日常の実践の中で問題として取り組むべき時期が来ている。それは言い換えれば、問題を問題として大文字のもの言いで「論評」し「批評」し、そのことでおのれを高みにおく効果の中で主体を麻痺させておく、これまでの情報環境での「知性」「インテリ」「文化人」的なやり口で、でなく、実際に個別具体の相の中で等身大の対応をし続けることで問題を牽制し続け、その弊害を中和し、制御してゆく手練手管の中でようやく問題と取り組むしかない、誰もが平等に、そういう「その他おおぜい」の覚悟と共に生きてゆく段階でもあります。

 

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 この「ゆとり教育」問題は昨今、「大学」問題を糸口として語られるケースが多くなっているようです。

 一部では時に「学級崩壊」ならぬ、「大学崩壊」といった惹句を弄していることも。少子化と「ゆとり」の合わせ技で経営基盤が揺らいできて、さあ大変、といった経済面、社会面的な角度からの視点以上に、苦労してせっかくかき集めた学生たち相手に講義や演習が成り立たない、という事態が日常化し始めていることが地味に暴露され始めています。

 けれども、考えて見れば無理もない。なぜか、これはあまり正面から認識されていないようですが、今や大学進学率というやつはなんと、50%を超える水準にまで達している。高校全入もすでに昔のこと、大学全入が事実上始まっているのが今世紀に入って以降の状況なわけで、そんな環境激変の中、かつての「大学」のイメージのままで講義や演習が成り立つ道理がありません。

 もちろん、しょせん統計の数字のこと、調査の仕方などによって変わってくるのは言うまでもないですし、この手の数字のマジックは、たとえば最近だと「地デジ受像器の世帯普及率が83.8%」といった数字と同じく、何かもっともらしいもの言いをする時に刺身のツマのようにそっと忍び込まされているのが通例。その程度に眉にツバしてかかるのが常識ではありますが、それでも、少し前までの大学と、昨今の大学とがさまざまな意味で別のものになってきているらしい、ということくらいは、何も身内や親族に大学に通うような年頃の子どもがいなくても、日々まわりの若い衆を眺めていれば、普通に推測できるというもの。

 同時に、これもまた別の統計などによれば、あの偏差値というやつを基準にしても、昨今の大学生の「学力」自体、以前と比べて相当棚落ちしている、ということも言われています。このあたりは受験産業の独壇場、彼らなりの現場の〈リアル〉があるわけで、尋ねてみると、おおざっぱなイメージとして言えば、かつて偏差値が「学力」基準に世代をきれいに輪切りにしてゆく役割を実際に果たし得ていた頃に比べて、全体の天井と底とが共に圧縮され、中ぶくれになったその他おおぜいのボリュームゾーンと、それらの塊から少しかけ離れたところにごく一部、「できる」層が固まっているような感じの由。その「できる」層はというと、大都市圏の私立中高一貫校に象徴される、昨今「勝ち組」と目される層の子弟が中心と考えれば、まず間違いないそうですが、何にせよ、こういう現場からの実感がある程度〈リアル〉だとして、なるほど、偏差値そのものがもうかつての大学をめぐる環境の中で機能していた状況から、間違いなく放り出されてきつつあるのは確かなようです。

 首都圏以下、大都市圏の有名大学の学生と、それ以外、場合によっては地方の小さな大学まで含めたごく一般的な水準の学生とを比べてみても、試験勉強に代表される狭い意味での「学力」には未だそれなりの格差、序列が認められるにせよ、それが宿っている生身の身体、二十歳前後の日本人の若い衆としての実存ってやつには、それほど違いが認められない、というのもまた事実だったりします。なるほど、エンジン自体にもかつてほどの「差」はなくなっているのだけれども、それ以上に、それが載っている車体、ボディーや足まわりに実質的な違いがびっくりするくらいなくなってきている、そんな印象なのです。

 具体的には、根拠のない自信、何を背景にそこまで居丈高になれるのかわからないような自意識肥大の症状が、静かに、しかし根深く広がっています。もう少していねいに言えば、自分がそもそもどの程度のシロモノなのか、についての、若い時期特有の不安や怖れ、のみならず、それらと見合うだけの功名心や虚勢といったものも含めて、何にせよ自覚が希薄なまま。単にコトバとして、情報の断片としてだけ現実はモザイクのように内面化され、しかしそれらをとりまとめて、ある脈絡に従ってひとつの「絵」に、世界に編成してゆくチカラはフシギにも宿っていないのに、カラダだけは一人前に成長、下半身の領域も含めてイキモノとしては成熟の段階に達している奇妙さ。同じような自意識肥大はかつての団塊の世代の青春期、いや、その後「おたく」世代の最盛期などでも、いくらでも見られたそれこそ「中二病」症状の、先進国では万国共通の現象ではあるはずですが、しかし、昨今ニッポンに見られるこの静かな、一見見えにくいカタチでの自意識肥大っぷりの蔓延は、また別の理由があるに違いない。

 アタマの良さ、「学力」の優劣、そんなものが見てくれに、生身の身体に反映されてくることすら、どうやら薄くなっている。いや、そういう「内面」と身体との乖離の度合いが、すでにあらかじめ一気に進んでしまっているのかも知れない。そう言えば、かつてなら、良くも悪くも「ハカセ」とか「秀才」とあだ名されたようなたたずまいの若い衆に対する周囲の視線が、一時期の「おたく」を介して後、今や単によくわからない奴、関わったら面倒なことになりそうな人間、といったものとして、何らリスペクトも賞賛もこもりようのない平板なものになりつつあるのも、昨今の「大学」での風景として気になっているもののひとつ、です。