――無尽講の件なのですが、銀行法で取り締まられるようになったのは、暴力団の資金源になるなどの理由からですよね?
銀行法その他「法律」が無尽講などを取締対象にしていった経緯などは、詳しくはないですが、戦後、今の相互銀行に移行できなかった部分を、はっきりと規制対象として大蔵省が認識していったはずです。
ムラなどの伝統的な生活習慣(民俗、ですか)が、戦後の現実で新たな網をかけられてゆく過程のひとつ、ですね。「文化財保護法」とか、そういう「管理」と表裏一体の「規制」です。
なので、「暴力団の資金源になる」という理由は、当時は一義的ではないと思います。「暴力団」というもの言い自体、昭和30年代半ば以降の警察用語出自でそれが東京オリンピックに向けてマスコミ経由で一般化したものですし。テキヤと博徒が厳然と稼業違いだったのに、いっしょくたにしたわけです。
っていうか、今回は保険業法が直接問題なんじゃないですか? 数年前に改正されたやつですが。
――今回の事例では、暴力団は絡んでいないので、同じ前科があったことが逮捕の要因なのかと思います。
ああ、前科ありなんですね。だったら、悪質と判断とされたのかな? 警察の視線的には。
――ただ、この人は掛け金を支払えない参加者がいれば、負担してあげたり、まあ、義理人情の世界で、「仲間のために金を作ってあげたかった」という供述の通り、その気持ちだけなんですが。
まあ、コトバ通りならそうですが……(*^^*ゞ その「仲間」ってどういう関係なのか、にもよりますよね。
地縁血縁で「逃げられない」関係じゃないと、持ち逃げ掛け逃げやり放題で、そもそも「講」自体、成立しませんからね。だからその監視というか、担保の意味で、講元はいろんな意味でにらみの効く顔役じゃないとなれなかったわけで。サラ金以前の民間の自発的な相互金融なわけですから、互いの信頼が成り立ってない場だと「講」はできないわけです。
たとえば、戦前の競馬場は、馬券の購入単位となる金額が高かったので、とてもひとりで買えなかったんですが、競馬場で出合った他人同士が複数、「相乗り」で買うことをしていました。その場合、レースが終わるまで互いに逃げないように手をつないでいるのが普通だったようです。初対面の名も知らぬ同士が仮に「信頼」を結ばねばならない場合、そういうやり方しかなかったわけですよね。
―― 結局、無尽講をやる銀行ってないのであれば、法律で取り締まること自体が、おかしいってことですよね。特に、今のご時世では。
取り締まる側にはそうするだけの理屈はあるわけですよ。カネ集めてドロン、とか、あるいは集めたカネで株買ったり、とか、そういうのは趣旨と違うわけですし(出資法違反、になるはずです、後者は)、マルチ商法や和牛商法なんかとも関わってきかねない領域ですから、その意味でまあ、規制は仕方ないんですが、ただ、その運用の仕方が杓子定規になってゆくと本末転倒でしょうね。
月末の支払いとか、事故やケガ、病気やリストラなどで大至急カネがいる、といった場合、現状では保険をかけてないのなら、サラ金、闇金が代行せざるを得ないようになってますからねえ、現実には。
そもそも、カネ儲けのために「講」を組む、というのは、以前のような「貧乏」を前提にしている限り、考えにくいわけで。集めたカネを「殖やす」それを元手に「儲ける」というのは、本来の趣旨とも違ってますね、上記とまた別の意味で。
そりゃ、講元は利子がつくから儲けることは儲けるわけですし、貧乏人同士ですから掛け金払えなくなるのは借金と同じなわけですが、それでも、本来の趣旨は貧乏人同士の緊急金融といった形ですよね。カネだったりモノだったり労力だったり、そういう「共同性」(ソリダリティ)は、ムラであれ何であれ、人の生きる社会じゃ常にあったはずです、少し前までは。
いずれにせよ、「講」という形式は残っていても、その前提となる人と人との「信頼」のあり方や、それらの成り立つ「場」――地域や会社、仲間などが変わってきていますし、ましてこの不況では、こういうぎくしゃくも出てくるんだと思います。