「尖閣」騒動の教訓

 ここ15年ほどの間、それこそかの「歴史教科書」問題あたりから広まっていた、わがニッポンの健気にもヘタレな草の根ナショナリズムに、ありがたい、一気に火をつけてくれることになったこの間の「尖閣」騒動、現在11月5日時点で、政府民主党があれだけ一般公開はしないともったいつけてきた現場の映像が、ああ、案の定ネット上はYouTubeに流出、さらに大騒ぎになっております。

 いいぞ、もっとやれ、という無責任なヤジ馬気分も、こういう局面じゃひとまず正義。海上保安庁内部からの怒りのリークだ、いや、民主党内部からの義挙だ、そうじゃなくて仙石-菅ラインに反感を持つ小沢一郎サイドからのテロ攻撃だ、アメリカの共和党右派の工作だ、とまあ、これまた例によっての陰謀論も花盛り。政府は政府で「事件」として扱う、とまで言明、徹底捜査などとムダに力こぶいれちまうもんだからあなた、さらに火に油。もともとYouTubeにアップした「犯人」は誰だ、と探し回ったところでアメリカにあるサーバ経由だったようでその特定は難渋中。ファイルそのものは速攻で削除することができても、すでに流出してしまったものはいかんともしがたく、どんどん勝手に保存&複製されて面白半分、義憤半分でばらまかれている真っ最中。件の映像ファイルを焼いたDVDまで街角に置き去りにされていた、なんてありがちな「うっかり作戦」のオペレーションまでわざわざ表のメディアで報道されるようになってたりで、まあ、いろんな意味でニヤニヤしながら眺めているような次第。改めて、情報環境の変貌とその中に宿る「正義」の質がどのようなものになってゆくのか、あらゆる意味でいまどきのメディアリテラシー(笑)を計測し、よりよい未来を選択してゆくための絶好のワークショップみたいになっております。

中国漁船流出映像のDVD放置か 埼玉・川口のJR駅で

 5日午前8時すぎ、埼玉県川口市のJR川口駅で、段ボールに入った大量のDVDが放置してあるのを通行人が見つけ、110番した。DVDの一部に、インターネットに流出した、中国漁船衝突事件の状況を撮影したとみられる映像が収録してあり、川口署が経緯などを調べている。

 県警によると、DVDが見つかったのは川口駅東口の連絡通路上で、約280枚が段ボール2箱に分けて入れてあった。周辺に「これが民主党の実態」「ご自由にお持ち下さい」などと書かれた紙片があり、民主党政権や中国に批判的な人物が置いた可能性もある。

 同署はDVDの映像を再生、ネットの投稿サイトに流出したものと同一の映像を複製した可能性があるとみている。

http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010110501000879.html

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 既存のマスコミの「報道」文体の不自由というのは、こういう場合に如実に暴露されます。

 そもそもどうして大量のDVDが放置されているだけで110番したのか、というあたりの不審は措いておくとしても、できごとに対する解釈において「民主党政権や中国に批判的な人物が置いた可能性もある」という一文がその限界。こういう行為の「理由」をそのようにあるベクトルを持った「意図」としか解釈できない、そういうフレームしか持っていないことを自ら暴露してしまう、まあ、そんな類の不自由です。

 それは「政治」を、あらゆる意味でそういう単純な交通整理のような図式でしか理解できないままに放置してきたことの反映です。これらのできごとの背後には必ずそのような「意図」を持った「集団」「勢力」がいるに違いない、という方向に転がってゆけば、はい、もう立派な陰謀論の基礎工事のできあがり。はるか昔、水鳥の羽音に驚いて潰走したという富士川の平家の軍勢と未だに大差ない。「オモシロいから」という意味も含めて「政治」である、という理解力は、しかし同様に「愉快犯」とおおざっぱなひとくくりの解釈しか発動できないままだったりもします。

 ネット環境がそれなりに整備されるようになって10年ほど、ブロードバンド環境の一般化ならせいぜい4、5年。少し前に起こった大事件の類、たとえば阪神大震災でもオウムのサティアンの「強制捜査」でも、はたまた宮崎勤の幼女連続殺人事件でも、仮に今みたいな情報環境下で起こっていたら、さて、どれだけ違う様相を示していたのか。そういうシミュレーションはネット界隈でもひとつ定番のお遊びになっていて、「もしも○○の時代にネットがあったら」的なお題で示されるのが常。でも、こういう“遊び”はそうバカにしたものでもなくて、仮に今と地続きの範囲でさかのぼったとしても、仮にあさま山荘事件の時に、東大安田講堂の立てこもりの時に、60年安保の時に、今の情報環境があったらどうだったろう、てな具合に考えてみることは、ちょっとしたメディアリテラシーの訓練としても悪いものではないようです。

 たとえば、70年安保めがけた学生運動が花盛りの頃、今みたいなネット環境があれば、各セクトのホームページやブログの類が乱立、リーダーや幹部格は軒並みブログやmixiツイッターで発言しまくり、つぶやきまくり、いや何よりも掲示板系のサイト自体が毎日「祭り」で、デモ情報はあちこちに貼り付けられ、バリストにでもなった日にはバリケードの内側から動画実況など朝飯前、「国会前なう」とケータイ端末からの書き込みが殺到して回線がパンク……なにやら三流SFばりのシュールでトホホな世界が想像できます。

 それらを笑い飛ばすシャレの精神をいまどきのネット環境はすでに幅広く涵養している、それはそれとして高く評価できるわけですが、しかし、と同時に、そのようなシミュレーションを介して最も本質的なところがあぶり出されてたりもする。そこに気づける人間がさて、いまどきの情報環境の内側にどれくらい宿っているものか、そっちこそがもしかしたら一番の課題かも知れません。

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 それは何もそう難しい話でもない。仮に学生運動華やかなりし頃にいまの情報環境があったとしても、いまどきのように誰もがケータイやモバイル端末を持ち、パソコンを常時接続した環境でそれだけ「情報発信」に日々、手間ひまとられれば、実際に走り回って仲間を組織し、路上に繰り出し、デモも投石もやっているヒマも気力もとても残ってなかったんじゃないか、ということです。いやそれより何より、身体を張ってぶつかりあう、ことばを交わす、そうやって「仲間」の幻想をつむいでゆき、何かの目的に向かって集団で動く、そんなことを日常と地続きのあたりまえのこととしてこなしてゆける生身の身体自体が存在できなかったんじゃないか。

 今回、「尖閣」騒動の流れで、全国各地で数千人規模の「反中」「反民主党政権」デモが行われています。一応、世話人役の団体なり組織が核になっているとは言え、参加者の多くは主としてネットを介して呼びかけられ、行動した人たちと言われます。いずれ整然としたデモであり、それは昨今のデモ行動に対する制度的な縛りが大きいのでしょうが、それにしてもなんと穏やかな、行儀の良い、うっかり激発したり予期せぬ方向に動いてしまったり、といった集団行動につきものの気配が驚くほど薄いデモ、ではありました。何より、参加者たちの多くがそのような穏やかなデモであることを「民度の高さを示す」といった方向で積極的に是認している様子。集団での示威行動であるデモがこのような様相を呈するようになっている背景には、良くも悪くも、情報環境の変貌もまたどこかで関わっているはずです。

 付和雷同、軽挙妄動、が洋の東西を問わず、失うもののない“名無し”の武器であり、ある種美徳でもありました。半鐘がジャンと鳴ったらとにかく外へ飛び出しちまう、そんな気風がわれらニッポン人にも確かにあった。そんな記憶、身体の感覚がいまどきの情報環境では、さて、どういう形で眼前に存在しているのか。なるほど古くて新しい問題ですが、それらもまたきちんと詰めておこうとしない限り、どんな草の根の動きも善意もまた、とりとめない現在に流されてゆくばかりでしょう