さらば、朝青龍

「木でつくった家、紙で貼った座敷にくらす間は人間の気持が穏やかでもありのんびりもしてゐた、相撲だって晴天九日のために其都度組み立てる丸太細工の小屋の間は、めいめいの稽古場から土俵へ、土俵から相撲茶屋へやがて花柳界のお座敷へとゆく先々にこわばった気持の起る場所はなかったが、国技館という鉄骨の中で晴雨にかまはず十数日も力くらべをさせられるやうになり、それを見る方の側もコンクリート造りの建物でギスギスと揉みたてられるとなっては、何から何まで理づめにもなりしゃちこばるやうにもなるのだらう。」
――平山蘆江「梅常陸時代」『東京おぼえ帳』住吉書店 1952年




 さて、朝青龍を一発、擁護する。敢えて、してみる。
 一連の「引退」に至る騒動の顛末や、その背後にささやかれるあれやこれやの関係についての詮索沙汰とはひとまず別だ。相撲と相撲をめぐるわれらニッポン人の視線そのものがすでにかつてのものとは違っている、そんな中でいま、この時点でたまたま、あの朝青龍が強いられることになってしまった役まわりについての奇異なめぐりあわせを、深くあわれに思うがゆえ、である。
 もちろん、本人はそんなこと知ったこっちゃないだろう。これもまたテレビ桟敷ならぬメディア桟敷、マスコミ以下、報道機関をを介して流通する「できごと」を消費する立場での太平楽、それこそ呑み屋の戯れ言からブログやツイッターなどまでも含めてリアルとバーチャルとを問わず日々垂れ流されている野次馬目線の塵芥のひとつに過ぎない。
 しかし、太平楽だからこその功徳もある。ことの善悪、眼前の事態の是非とは別に、それら〈いま・ここ〉から「歴史」や「文化」といった迂遠な能書きにまでうっかり届いてしまう何ものか、を垣間見てしまう因果な性癖を持った視線からすれば、やはり敢えて言っておきたいものはあったりする。
 再度念押ししておく。いまや相撲というのは、この上なく気の毒な存在になってしまっている。関取衆の主立ったところは外国人力士で占められて久しく、日本人の新弟子志願者は低調なまま、興行としても低空飛行を続けているのみならず、何よりさまざまな醜聞、騒動、事件がメディアの舞台で報道されているから、相撲そのものだけでなく、それらを支えてきたさまざまなしがらみや慣習といった部分も全部ひっくるめて、世間の眼の前にさらけ出されるようになってしまった。

「「戦後」と言い、あるいはいまどきの若い衆ならば「昭和」と粗っぽくひとくくりにしてしまうのだろう、そんな「少し前までのあたりまえ」の中に安住していたさまざまな“もの”や“こと”、それらがそれぞれの運命の中、いろいろな形の気の毒を体現し始めている。相撲もまたそんな現在の中に、なすすべもなくたたずんで、かつてのような同情も共感も寄せなくなった世間の視線にいいように蹂躙されている、それがいまのニッポンの相撲、らしいのだ。」(拙稿「“昭和の大横綱北の湖とともに大相撲が倒れる日」本誌08年4月号)

 悲しいかな、それが今の相撲である。いかんせん「国技」である。歴史的経緯はともかく、ひとまずそういうことになっている。しょせんは大兵肥満の偉丈夫たちがまわしひとつの裸一貫、頭にはちょんまげさえ結って周囲十五尺の土俵の上で力一杯ぶつかりあって勝負する、あの一見変わり映えのしないままの力業である。けれども、少し前までは確かにわれら国民の多くが共に関心を持ち、熱狂し、いや、それ以外のふだんの暮らしの中にも日々の身振りやものの見方、考え方、価値観など見えない部分も含めてさまざまに根ざしていた、それが相撲のはず、だった。
 そんな文脈、背景などがすでにちりぢりにほどけ、よじれ、それまであった「日本」という後ろ盾自体が揺らいでしまった状況でなお、「国技」として無理に立ち続けようとする不自然、不条理が収斂してしまう立ち位置に朝青龍、不憫にも身を置いてしまっていたらしい。


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 とりあえずは、年明け早々、しかも初場所途中で突然持ち上がった朝青龍の「引退」までの経緯からざっくりと。
 1月16日の明け方、夜の西麻布界隈で、酒の勢いにまかせてシロウト男性をひとりぶん殴って鼻の骨を折り、全治一ヶ月の重傷を負わせてしまった。発端は要するにそういう事件。それが写真誌、週刊誌が例によって報道して表沙汰になり、もともと彼の素行に頭を痛めていた横綱審議会も素早く反応、委員長自ら厳罰の必要に言及したことで一気に事態が紛糾、相撲協会が調査委員会を設置、本人と師匠の高砂親方への事情聴取を行うなどしている中、あけて2月の4日にいきなりの引退表明となった。
 朝青龍明徳。本名ドルゴルスレン・ダグワドルジ。29歳。モンゴルから高知明徳高校へ相撲留学、角界入り。優勝25回の「平成の大横綱」とも。スポーツ紙はもとより、一般紙までも「号外」を出すほどの騒ぎにはなったのは、相撲が、というより朝青龍の行状自体がすでにメディアを介した注目を集めるところに位置していた証拠だろう。
 被害者の男性含め、この一件の背後にいろいろ表沙汰にしにくい関係やしがらみが渦巻いているらしいことも一連の報道でほのめかされていて、それもまたメディアの舞台での朝青龍のキャラクターとも重なり合って増幅されている。だが、前述したようにそれらの謎解きや解説沙汰はひとまず措いておく。
 注目しておきたいのはその「引退」をめぐる世論の方向、いや、もっとゆるやかに世間の気分、程度にしておいた方がよりふさわしいのだろうが、いずれそういう世の風向きというやつが、表のメディアでの論調に比べてかなり微妙なものを間違いなく含んでいたことだ。俗に「巷の声」的な脈絡で紹介されるコメントにしても、「一般人に対して許せない暴挙」「これまでも横綱の品位を傷つけてきたのだから致し方ない」といったまずは穏当な意見に対して、「なんだかんだ言っても強い横綱なんだから残念」「相撲を支える人気力士がいなくなる」といった贔屓めの論調も一定の割合で織り込まれていた。
 ワルだけれども憎めない「悪太郎」――そんな存在への視線がかろうじてまだ、今のニッポンの世間に残っていることに、何かなつかしい、ほっとする感じがあった。たとえそれが、陽が稜線に沈み切る最後の残照のようなものだとしても。
 個人的には、朝青龍にそんなに悪い印象はなかった。むしろ、土俵で見せるやんちゃぶりや、インタヴューなどでのやりとりからうかがえる頭脳の回転の速さ、頭の良さといった部分で好ましく見ていた。それは、あの「のたり松太郎」を髣髴させてくれた。相撲を題材にしたマンガ作品として最良のひとつ。というか、マンガになった相撲というのは悲しいかな、ギャグの素材としての方が目立っていて、当の朝青龍の師匠、高砂親方にしてから現役時代の朝潮でネタにされているが、こちらは珍しく「荒ぶる神」を少年マンガの枠組みで造形して見せたちばてつやの傑作。その主人公坂口松太郎の「粗野で下品で無神経」ぶりが現実に舞い降りたかのような印象に、ひとり微笑んだくらいだ。「悪太郎」ぶりが一気に世間に印象づけられた、あの「ガッツポーズ」事件にしても、素朴な歓喜の表現として許容できなくもなかったし、高見盛の派手な塩まきなどとある意味同じ、いまどきの相撲を楽しめるものにするためのスパイス的な位置づけで納得できた。ただし、土俵上での力士としてのパフォーマンスの高さとは別に、それ以外の部分での素行もまたそれまでよりずっとメディアの舞台にさらされるサイクルが稼働するようになっていた分、「悪太郎朝青龍というキャラクターは、力士という枠を超えたところで造形されてゆかざるを得なくなっていったらしい。


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 明治末から大正時代にかけて、一世を風靡した名横綱常陸山の譚。
 弟子にひとり、小常陸という力士がいた。小柄だが剽悍、幕内にあがった頃はこれぞ常陸山の後継者とまで言われて嘱望されたが、出世して三役を張るようになった頃から増上慢、人を人とも思わぬ言動や振る舞いが眼につくようになり、時に花柳界にもその行状が知られるようになった。
 その小常陸が地方巡業に出て、例によって地元の料理屋で芸者を総揚げ、酒の勢いで無理難題を押しつけ、威張りちらしているところに、たまたま師匠の常陸山が通りあわせた。

 「廊下外で小常陸のどなり声を聞くと、常陸山は障子をがらりとあけ、小常陸の前へのっそり立った。酔っぱらった目にも師匠の顔は見えた、たった今までの勢ひもどこへやら小常陸はちぢみ上って了った。「かへれ」一言睨みつけてゐる。「ヘイ」「かへれ」常陸はこそこそと着物を着なほし、さしもの酔も一度にさめて座敷を出て行った。」

 で、この後、常陸山はどうしたか。

 「その家の女将をよび小常陸が飲みちらかしたあと始末をしてやり其場に居あはせた芸者たちにも一々丁寧な言葉づかひで、迷惑をかけました、若いものの事ですからどうぞ堪忍してやって下さいと詫びをいふと共にそれぞれに心付をしてやったといふ。」

 ありがちな角界美談、いや、何も相撲に限らず少し前までのニッポンの世間、人と人とが共に暮らしてゆく仕事の場、渡世のやりとりにおいて普通にあり得た人情のあり方を反映した「おはなし」ではある。
 ならば、平成のニッポンのドルジ=朝青龍の場合、どうしてこのような「おはなし」に収斂してゆくような回路が成り立たなくなっていたのだろう。


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 ガタイがよくて身体能力も高くて、腕力も体力も人並み優れたものを持ち、気性ももちろん直情径行単細胞、多少粗野で乱暴でも、そういうのを「いいオトコ」として評価してみせた、そんなニッポンが少し前まで、あった。
 「スポーツ」というもの言いが今みたいに無味乾燥になめされてしまう前、「運動」という言い方で引き受けていた領分がまだ大きかった頃だ。まして、スポーツの種目が今よりずっと少なく、ましてそれで食ってゆける「プロスポーツ」となると事実上、相撲か野球、戦後になってプロレスにボクシングなどが入ってきたくらい。公営競技の「四競」を別にすれば、カラダ一本で食う選択肢としてのスポーツ、というのは少し前で、本当に選択肢が限られていたことを、われら同胞みんな忘れてしまっている。
 知育・徳育・体育、という文科省のお題目も、その並び方は並列ではなかった。いつの頃からか「アタマ」と「カラダ」の二分法がことさらに固定化されてしまった結果、「勉強」と「運動」、「文科系」と「体育会系」の二分法も同様の末路をたどることになる。「腕で来い、頭で来い」のスローガンがかつての江田島にはあったと聞くが、「文武両道」「三位一体」は、ひとりの人間に生身に渾然一体、ある「まるごと」として宿るはずのものだった。
 だから、相撲になる、という言い方もした。あの『一本刀土俵入り』は駒形茂兵衛のセリフにもある「相撲にならずにやくざになって…」の、あれだ。単に競技の名前だけでなく、そのような生き方、稼業もひっくるめてのもの言いだったのだ、「相撲」というのは。そしてそこには、そのように生きるしかなかったおのが境遇についての宿命みたいなものも、また。
 「相撲」というもの言いひとつに、そんな宿命までも含めて感知する感覚がまだ世間にあった、だからこそ「相撲」は誰もが気にする「国技」にもなり得ていた。
 清水次郎長の子分には「お相撲常」がいた。富士は裾野の開墾に親分ともども尽力した。神社や学校には土俵のひとつもあるのが当たり前で、祭りの日などはそこで子供たちが、時には若い衆も力比べの相撲大会が開かれていた。酒を飲んで「いっちょやるか」と相撲を取る、仲間同士のじゃれあいのように四つに組む、そんな身振りがどこかにあった。うれしくて手の舞い、足の踏むところも知らず、あげくの果てについ四股を踏んでしまう、という表現すら、かつての日本人にはあった。
 一対一の力比べ、兄弟同士でもそのようなぶつかりあいは自然のものだった。喧嘩のルールを覚えてゆく上で、日常の中の相撲の作法はある時期まで、確実にわれら同胞の身体感覚のある部分を培っていったものだった。ガタイのいい奴と組む時には頭を低くしてふところに潜り込む、あるいは足もとに食らいついて倒す。どうしようもない「違い」が歴然とある生身の身体を思い知る機会は当たり前にあった。そんな「違い」もあっての身の上であり、おのが分際、だったのだ。
 そんな中、おのが身体で秀でていることは何よりの財産だった。大きな身体、並外れた膂力、腕力、そして何より押しても叩いてもびくともしない盤石の足腰。持って生まれたディヴァインギフト、まさに神より賜った得難い道具としての肉体。個人の、あくまでおのれの身の上ひとつに関わる能力を問われるからこそ、相撲は「おはなし」の触媒になってゆけた。相撲を語る時に「伝統」「文化」を言うなら、それらも含めてのことのはずなのだ。


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 ひとつの仮定をしてみる。もしも朝青龍が、あのキャラクターのまま、日本人だったらどうだったろう。メディアの舞台に出てくる水面下にもっと傲慢で不遜な等身大があったとしても、それらも含めてメディアでのキャラクターとしての「悪太郎朝青龍も、もっと好ましいもの、きちんとこれまでの「おはなし」の間尺で制御できるものとして造形されていた可能性はなかっただろうか。
 相撲の外国人力士の是非について、現場も含めた当事者たちの間で当初、どのような議論があったのか。小錦武蔵丸、曙、と、外国人力士時代を本格的に引っ張った力士たちはその後、相撲協会に貢献しないまま、別の人生を歩むことになっている。一方、草分けたるあのジェシー高見山は、初土俵が1964年。だが、世間一般の視線としては、はるばるこの日本に来てそれもわざわざ相撲取りになろうというのだから、やはり何か事情があるのだろう、という視線は確かに含まれていた。それはまだ、このニッポンの世間の側にあの駒形茂兵衛の残像が宿っていた時代だったからだろう。現役最後の取り組みを終えた時、国技館中が暖かいねぎらいの拍手に包まれたというのも、引退時、昭和天皇が「高見山はどうして引退したのか?」とご下問があったというのも、そういう世間がまだ生きていた環境での「伝説」だった。
 そう、相撲になるくらいの何か訳あり、事情のある人なんだろう、という視線。それは言葉本来の「異人」に対する同情と畏敬とがかろうじてまとまりを見せている、そんな視線でもあった。たとえ異国の人であれ、そういう境遇にあるからこそ相撲になっているのだろう、という理解の仕方。長谷川伸の「舶来巾着切」などに描かれる開港地横浜の不良外人たちに対する、当時の明治の日本人、常民のソリダリティにもそれは通じていた。
 ならば、それに対していま、21世紀のわれらニッポンはどうだろう。
 朝青龍の「品格」「品位」をうんぬんする、その気持ちはわからないではない。「横綱」に対する理解が彼に足らなかったのも確かだろうし、眼に余る行状もあっただろう。だがしかし、わざわざ日本で相撲になろうとする人、に対する視線が世間の側から減衰している現実というのも、同時に考慮する必要はないか。
 それは本人が外国人かどうかとは別の話だ。まして、外国人だから、ということにだけいきなり問題を収斂させようとするのはことが逆、それは単なる知的怠惰である。まして「異文化」などというけったくその悪い言葉ひとつで何もかも隠蔽してしまうような横着は言わずもがな。そのような渡世の人情というやつは、あるところで国境や文化の壁など平然と越えてゆく潜在力を持っている。だからこそ危険であり、かつまた美しくもなり得るのだ。
 確かに、モンゴル人だから外国人に見えない、というのもある。露鵬把瑠都など白人系の力士だとどこか見世物めいた印象が強調される分、「苦労」を感じさせる度合いもまだ高いのだが、ドルジや白鵬などモンゴル人力士の場合は一見、日本人と見分けがつかない部分がある分、かえってその違和感が増幅され「苦労」の位相に眼が届きにくくなる。 だとすれば、問題はそのような言葉本来の意味での国際標準、グローバルスタンダードをうまく作動させてゆくことができなくなっている今のニッポンの現在、そのまた煮詰まった試験管のごとき相撲協会のコントロールする「場」、なのではないか。「品位」「品格」を問いたがり、「文化」「伝統」を言挙げしようとする、だがそれは、実はそのように問いたがるこちら側にすでに「おはなし」を稼働させるだけの能力がなくなって硬直していることの反映ではないのか。


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 実は、朝青龍というのは、平成の力道山、なのかも知れない。大きな声では言えないが、そう思っている。
 敗戦後、赤いハーレーを乗り回し、米軍基地に出入りする日米問わぬいずれ〈リアル〉な商売人たちと好んで関わり、その人脈、ネットワークでプロレスと出会うようになった関脇力道山。本名は百田光浩の在日朝鮮人だったことはすでに周知となっているが、当時の「日本」の異物、異人であることは朝青龍と同じ。タニマチとしてついていた人脈も、それまでの相撲の脈絡とは違うものだった。良くも悪くも時代のテーブルがひとつ大きく回ろうとする転形期、
 格闘技に転向、K−1に参戦する、いや、故国モンゴルで政治家に、など、朝青龍の今後についてさまざまな憶測も飛び始めた。カネが力であり、カネ儲けが正義である、という素朴な信心がグローバル・スタンダードとして、ドルジ=朝青龍の内側にはすでに宿っているだろう。折しも、相撲協会の理事選で貴乃花親方の出馬をめぐってのいざこざも表沙汰になり、相撲より相撲協会の体質の旧態依然、およそ考えられないくらいの硬直ぶりはさらに世間の耳目にさらされることになっている。ならば、貴乃花がかつての「天竜事件」のように敢然、協会を割って出て、ドルジら外国人力士の同志と相通じて、外資も含めた新たなタニマチを口説き落として新時代にふさわしい形の「国技」相撲を立て直す――太平楽ついでに勝手な夢想を広げるならば、そんな今後もまた、あり得べき未来としてはそんなに悪いものでもないかも知れない、そう思う。