笠松には「ハマちゃん」――濱口楠彦がいる


 ツバメが低く、高く、何羽も飛び交いながら舞っていた。馬道の小川に沿ってそよぐ柳の木々には、透き通るような新緑が彩られ、馬たちはというと、いつもと同じ歩みで仕事支度、時に一般道を横切りながら、競馬場へと向かう足どりをゆっくりと運んでゆく。

 5月初旬、少しだけ汗ばむようになってきたニッポンの初夏。木曽川のほとりの何でもない風景に埋め込まれた、小さな競馬場とそのまわりのありふれたひとコマ。

 笠松である。地方競馬である。「名馬、名手の里」の看板もけなげな、小さなイナカの競馬場である。

 この笠松、昨今はあのラブミーチャン、でにわかに名をあげている。

 いや、本当なら、にわかに、どころじゃない。2歳牝馬ながら堂々、昨年のNARグランプリ年度代表馬。つまり地方競馬の頂点に立った。しかも、同じ地方でも南関東などとは違う、あの笠松から出現した久々の全国区の大物となれば、もっともっと騒がれていいはず、なのだ、本当ならば。ニッポンの競馬がもっと元気がある状況ならば。

 今日は何の取材? ラブミーチャンはおらんで――顔見知りに、そう声をかけられる。なるほど、その程度には取材陣も訪れていたらしい。いや、あいにく、今日は濱口さんで……そういうと、はあ、そうかい、クスくんかい、名物やでなあ、あれも。

 そうなのだ。ラブミーチャンとともにその主戦、濱口楠彦も同様。もっともっと騒がれていいはず、なのだ、本当ならば。競馬を大好きという?熱さ?がこの国に、このニッポンにまだ存分に横溢していた頃ならば。


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 地方競馬というのは、農産物に似ている。

 調教師や厩務員からなる厩舎そのもの、何より騎手がそうだ。「地元」に根ざしたイキモノ、というのがその本質。だから、よそに移植してうまく根づくかというと、必ずしもそうでもない。その場、その空気、その時代にたまさかそこに居合わせたことによって支えられる技術と存在感。そのかけがえのなさ、ワンアンドオンリーの「いま・そこにあるフシギ」こそが彼らの身上。

 というわけで、うまやで「クスくん」、ファンには「ハマちゃん」で通っている濱口楠彦もまた、そんな「笠松」という土地に根づいて、息づいている。

 当年とって50歳。あの?アンカツ?安藤勝己と同期、どころか生年月日もまるで同じ。ともにこの笠松で、同じ時代を馬の背中で乗って暮らしてきた。地方競馬のこの世代の騎手は、もはや重要無形文化財、この先どんなに競馬が進化してももう二度と生み出せない貴重な資源だ。彼もまた、まさにそんな文化財級、ニッポンの大切な「ノリヤク」のひとり。

 かたやあの?アンカツ?は中央に移籍、今やニッポンを代表する名騎手となり、ひと頃の神業ぶりは昨今ちと影を潜めたものの、好きな馬を好きなように楽しみながら乗る、何やらまるで仙人みたいな雰囲気まで漂わせ始めている三昧境だけれども、さて、われらが「ハマちゃん」はというと、今日も今日とて笠松の同じ馬場、同じ風景の中、同じくたびれた勝負服で、一見無愛想な顔のまま競馬を、自分の仕事を淡々とこなしている。

 笠松は、今でも夜中の1時くらいから仕事を始める厩舎が珍しくない。攻め馬は真っ暗な中。で、そんな時間に代行で馬場に乗りつけてそのまま馬にまたがる、というのは、「ハマちゃん」をめぐる?伝説?のひとつ。

 前の晩から呑み続けて夜中をまたいでそのまま攻め馬、半分朦朧としながら何頭もやっつけてひと眠り、午前中のレースはまだ酒気が抜けないままひと鞍ふた鞍こなしてから、ようやく午後になってひとごこちつく、といったやんちゃで無頼な「ノリヤク」の豪傑譚。

 少し前までなら、どこの競馬場にもひとりやふたり、そんな?伝説?を宿したノリヤクがいたものだけれども、昨今そのテの御仁はさすがに肩身が狭く、影も薄くなっているのがご時世。

 しかし、ご安心あれ皆の衆、ここ笠松ではまだ、この「ハマちゃん」は堂々、そんな?伝説?の主であり続けている。


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 ラブミーチャンが?出世?してゆく過程で、そんな「ハマちゃん」もまた一緒に注目を浴びるようになっていた。

 笠松に彗星のように出現した快速牝馬、京都1200mダートのコースレコードも含めた無傷の6連勝で桜花賞トライアルの阪神フィリーズレビューに挑戦、という筋書きは、なるほどオグリキャップライデンリーダー以来、いや、もっといえばハイセイコー以来、メディアの銀幕に投影されてきた?おはなし?の定型にきれいにはまるものだった。

 その阪神でのパドックラブミーチャンにまたがった「ハマちゃん」の姿に、モニターを見ていたテレビの女性キャスターが思わず吹き出した、という話がある。ウソかまことか、でもあの「ハマちゃん」だったら、と誰もが思う。だから「おはなし」になる。

 あの上から押しつぶしたような短躯、太短いカラダに、悪いことに今はみなプロテクターをつけるからずんぐりむっくりぶりはさらに際立つ。タイトフィットのエアロの勝負服も中年以上のノリヤクには決してやさしいものでもない。

 しかも、ダメ押しに、ああ、あの容貌魁偉。しゃくれたアゴにヘイケガニのようなワイドでゴツい顔面。かつてのフランキー堺を彷彿させる、実になつかしくも味わい深い?イイ顔?なのだが、しかし、細身でスマートな今どきの若い衆揃いのJRAのジョッキーたちに立ち混じると、なるほど確かに異様。

 そう、ラブミーチャンとともに全国区のステージににわかに映し出されたハマちゃんは正しく「異人」、申し訳ないがかのシュレックの如き、見知らぬ世界=地方競馬、からやってきた怪物、だった。

 だがこの怪物、単に姿かたちだけの「異人」ではなかった。

 フィリーズレビュー当日、メインレースまで条件戦に3鞍立て続けに騎乗。6R3歳500万下、7番人気のブラックイレブンで好位差し3着。7R4歳上500万下、5番人気のダスタップで中位抜け出して2着。そして、8R4歳上500万下、7番人気のテイエムカイザーは堂々逃げ切りの1着。

 地方騎手の腕達者ぶりは先刻ご承知の阪神のファンも、まさに口あんぐりの大暴れ。同じく当日、騎乗の多かった元笠松の同僚で今は園田所属の川原正一(12レース中10鞍騎乗で2着1回、4着2回5着1回、すべてふたケタ人気含む人気薄)ともども、笠松のフシギ、地方競馬の底力、をいやでも思い知らせる一日になった。

 肝心のラブミーチャンはご存じの通り、果敢に逃げて飛ばして4角過ぎまでハナに立ち、そして直線、一気に後続に襲いかかられふたケタ着順、12着に敗れ、桜花賞挑戦の夢も泡と消えた。

 その差コンマ8秒。やっぱりダート馬かい、しょせん地方馬だわ、といったお定まりのため息とともに、少しは盛り上がっていた?おはなし?も一気にしぼみ、「ハマちゃん」もまたメディアの表舞台からいったんは、姿を消した。


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 それでも、競馬は続く。「ハマちゃん」もまた、日々の仕事に戻っている。

 取材に訪れた2日間の笠松での戦績。1日目は5鞍騎乗で2着1回、入着2回。2日目6鞍騎乗で1勝、入着3回。

 でも、よく見ると、人気より着順が上回っている結果がほとんど。たとえ馬券にからめないまでも、その馬の人気以上には確実に持ってきてくれる信頼感、というのは、馬よりも騎手で馬券を買う地方のファンにとってはやはり格別だ。

 さすがですねえ、と挨拶代わりに切り出すと、いきなり「いやいや、そんなことないですよ」と全否定。全然、数乗ってないし、勝つウマにも乗ってないし。今はもうボクなんか乗るウマいないですもん。ほんとだったらねえ、一日に7、8頭は乗ってなきゃいけない。今はほら、乗ってても勝てそうな気しませんもん。だって、見てて勝てそうな気のするウマ、います?

 装鞍所の片隅、次のレースの騎乗馬が曳かれてくるまでの間、時間を取ってくれて、ひしゃげたような錆びたパイプ椅子に腰掛けた「ハマちゃん」はそう続けた。薄くはなってるものの案外やわらかそうな髪の生え際に汗がにじんで、ついさっき乗ってきたレースの残骸、白い砂粒が口からあごにかけてまだひとしきりくっついている。

 といって、愛想が悪いわけではない。無理にさからうでもない。素直にさらっと今の自分を否定してみせる。そうか、不本意ではあるんだ、今のこの自分の境遇は。

 ラブミーチャンの話はもう食傷気味だろうけど、触れないわけにもいかない。すでに北海道・門別に移動していたけれども、水を向けると、ああ「ミーチャン」ね、とにわかに表情が崩れた。あ、その「ミーチャン」という呼び方、その響きが彼の声を介すと、なんだか近所のおねえちゃんっぽくて、いいなあ。

 いや、あそこまで走るとは思わなんだですよ。一戦ごとに強うなってきた感じです。まあ、阪神でああいう結果やったから、芝でどうかゆう人もいますけど、ボクは芝も全然大丈夫と思いますよ。距離の短いところで平坦なら勝負になると思う。夏の函館の、ほれ、スプリントでしたっけ、あそこ目標でやってますから応援したってください(註・ラブミーチャンは門別の交流G?北海道スプリントCの結果次第で、7月4日の函館スプリントSに出走し中央の芝レースに再チャレンジする以意向)。

 すでに北海道での騎乗はホッカイドウ競馬五十嵐冬樹に決まっていて、自分が乗れないことを前提に、それでも「ミーチャン」のPR役はしっかり果たす。
 巷間、斤量が軽くて乗れないから、という説もあったけれども、理由はともあれ、本当ならここも乗りたいと思っていたはず。でも、そういう気配は微塵も見せず、言葉を選んで応対する。そんな配慮が自然に身についているのも、さすがにベテラン、苦労人。でも、笠松に戻ったら、またヤネは濱口さん、ですよね?

「まあ、そうやってセンセイ(柳江仁師)はゆうてくれてますが……でも、わかんないですね、こればっかりは」

 正直なんだよなあ。こういうところの「営業」トークの不器用さ、これもまた「ハマちゃん」ならでは。きっと、馬主さんとかに対しても、そういう「営業」は正直、苦手でしょ。

「そりゃあ……営業できてたらこんなふうじゃないです(苦笑)……もう別にしょうがないですもんね。こういうニンゲンですから」

 名誉のためにいい添えておくと、彼を大の贔屓にするようなタイプの馬主さんというのも確実にいる。馬主やオーナーというより、そうだな、たとえば気の置けない呑み友達みたいな感じ。理屈抜きでもう「ハマちゃん」じゃないと、という正しいダンナだ。

 ただし、そういうタイプの馬主さんも、もうどんどん少なくなっている。競馬もまた、そういうふうに時代とともに、移り変わってゆく。?伝説?も、それを支える素地とともに、また。



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 ひとつ尋ねてきてほしい、と編集部から頼まれていたことがあった。

 4年前、彼が全国区で名前が知られることになった2006年のワールドスーパージョッキーズシリーズ、ゴールデンサドルトロフィーでのアドマイヤディーノの、これまた?伝説?のものすごい追い込みについて。

「ああ、あれはキモチよかったですよねえ」

 即答だった。しかも力強く。すぐさま記憶がよみがえるふうで、ここからは立て板に水、で解説が。

「あのときは前行ってくれといわれとったんですよ、でもあのウマ、それまでほかのええジョッキー乗っとっても、出遅ればっかりしてたんですよ。それに(ゲート入る前でも)おかしな格好もしてたんで、これ、ゲート出るんかねえ、と思ってたんですよ。で、普通に出たんですけど、行ってくれいわれとったもんでちょっちょっと仕掛けていったんですけど、まわりもやっぱり速いでしょ、あ、行けれないなあ、と。だから控えた。あそこでムリヤリ行ってもねえ」

 確かに、すぐに位置を下げて道中はブービーあたりを内で追走。直線で外へ一気に出して左ムチ3、4発入れたらエンジンかかって、まるでバネじかけのように伸びる伸びる。


2006 12 03 ゴールデンサドルT アドマイヤディーノ

 短い背中を丸めて追い出すポーズの力感というか、大きな生きものの背中にちょん、と止まった森の魔物……もとい、妖精がフシギな魔法を使ってとんでもない力を引き出すようなフシギな味わい、筋肉のかたまりがかろやかに躍動し、ステッキの一発一発もリズミカルで実に心地よさげな一体感に眼を見張った。「追う」ときの味わいの違いは地方のジョッキーたちを拝観する愉しみのひとつだけれども、こういうときの全身で動く「ハマちゃん」のカッコよさはまた格別だ。

「追い出してねえ、すぐ、あ、これ勝っちゃうね、と思ったですね。もう、勢い違ったですから、ウマの」

 追いっぷりが?伝説?なのだが、でも、よくよく録画を見ると、その手前で馬群をさばいて外に出す、そのさばきっぷりが実は隠れた見どころ。一瞬、画面から見えなくなるくらい一気に外へ馬をスッ、と持ち出し、次に画面に飛び込んでくるときにはもう一頭だけ、脚いろがまるで違う別次元の伸び方で大外を切り裂いてゆく。よくもまあ、あの馬群から抜け出せるコースを見つけたものだ。恐るべし、乱戦ここ一番での地方騎手の腕の冴え。

「確かに内でゴチャゴチャしてて、ほんで外へ出して……うん、でもね、ぜんぜん詰まっとったわけじゃなかったですよ、さあ、どこ行こうかねえ、と思て、あ、よし、外来てないね、と(まわりを見回して)、それから外切り替えて、で、あ、今や、と思て……(笑)」

 残り300mくらいからの伸びがそりゃもう、ハンパじゃない。いくら芝の追い込みでもあんなの、あまり見たことない。言い方悪いですけど、ゲームの画面見てるみたい。

「いやいやいや……(顔をくしゃくしゃにして手を振る)。でも、あれはほんとにうれしかったですねえ。外見て、あ、よし、ここやねえ、と思て、追い出したらもうグーンとハミのとりよう違ったから、あ、勢い違うね、と思て……」

 語尾の「ね」が軽く跳ねる、その感じが想いの重心、気分の根幹。ビデオテープのように「経験」と「記憶」とがシンクロする。何度も、正確に再現してみせる。こういう語り口を自分のものにしているジョッキーは、たいてい?賢い?、そして信頼できる。

「生まれて初めてガッツポーズしたですよ。今までしたことないのに」

 確かに、今見てもハマちゃん、まるで子供のように左のこぶしを振って、やったぜ、のポーズ丸出し。そうだ、これは去年の暮れ、川崎の全日本2歳優駿をミーチャンで勝ったとき、珍しくスタンドの声援(それもまた、オヤジ声の野太い「ハマちゃ〜ん」系が多いのがステキだ)に応えて手をあげて見せたときの、あの感じだ。

「実はあのとき、うちのオヤジもちょうどその年に亡くなってて、あと、ボクがすごく世話になった方が彦根にいたんですけど、その方も亡くなって……あれはうちのオヤジのほうが(亡くなるのが)早かったのかなあ、どっちやったかな……とにかく一週間か10日くらいで相次いでふたりとも亡くなって、だもんで、ああ、やっぱり何か力添えがあったんかなあ、と当時、思いましたね」



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 生い立ちにも、少し耳傾けよう。

「生まれたのは三重県です。でも、転々として、いろんなところいました。岡崎のほうにもいましたね。小学校1年くらいに1年くらいいて、それからまた三重県戻って、親戚のところやオヤジのところを交互に行ってて、小学校3年のときにはもう柳津に、岐阜に引っ越してきて、その後各務原に行って……もうほんでそのあとはそのまま競馬場です」

 それまで、競馬や競馬場には縁があったんですか?

「いや、全然関係ないんですよ。うちのオヤジに決められた。ぼくのセンセイ(師匠)だった不破センセイ(不破敏行・元調教師・引退)と、うちのオヤジの使うとったタクシー会社の運転手さん、武藤さんってゆうんですけど、その奥さん同士が姉妹やったんですね。その縁でオヤジが、うちのはカラダ小さいで、ゆうて話したらしくて、それでボクがこっち(競馬場)に来ることになったんです。


 それまで競馬は見たことなかったですよ、ぜんっぜん。一日体験とかあって、厩舎に顔、二、三回出したことがあったくらい。さっきゆうたように、小学校卒業した日に不破センセイと姐さん(奥さん)が(小学校の)門のところ待っとって、もうそのまま厩舎に連れてかれたんですわ。まさかいきなりその日やとは思わなかったけど、でも、自然とそうなっちゃった」

 この世代、地方のジョッキーたちの?はじまり?をひもとくと、こういう話は珍しくない。自分の意志で決めた道、でもなく、街に遊びに出た映画館で、親戚の牧場の軒先で、何かのはずみで、出会い頭の平手打ちのように「うまやもん」に出くわして、そのまま競馬場に連れてゆかれる、そんな人生。そしてそのまま数十年、いつしかその道でずっと生きてゆくことに。競馬とは、少なくとも地方競馬の仕事とは、概ねそんなものだった。

「当時の笠松(の騎手)ですか? 古賀さん(古賀土生・元調教師・引退)や柴田さん(柴田高志・現調教師)が全盛の頃でした。そりゃ乗り方からして今とは違ってたですよ。やっぱり昔は拍車つけてあぶみ長くして乗ってましたけど、だんだん変わってきましたからね。でも、ボクらくらいがデビューした頃はまだそんな感じでしたよ。みんなそうやって直されましたね」

 一時期、特指競走に笠松から連れてゆく馬とともに、阪神や京都で精力的に乗っていたように見えた頃があった。それがある時期からふっ、と回数が減ってフェイドアウトした印象なのだが、そのへんのことも思い切って聞いてみた。ぶっちゃけ、?アンカツ?みたいに中央目指そう、とか思ったことはなかったのか。

「まあ、ねえ……」

 それまで訥々と、素朴に言葉を出してくれていたハマちゃん、ここらで一瞬、真顔になって少しだけ微妙な間をあけた。あけて、でもまたくしゃ、っと顔を崩して、いった。

「……そんなのは自分じゃムリやねえ、と思とるから」

 またまたあ、そういう謙虚なところが……

「いやいやいや、謙虚とかそういうんやなくて……ボクじゃまず、試験受かりませんもん(笑)」

 それってペーパーの試験だけでなく、面接なども含めて、という意味なのか。やんちゃで無頼な、かつてどこの競馬場にでもいたような「ノリヤク」という生き方は、今のJRAに代表される「正しい競馬」からはしょせん場違いな存在ということを、もしかしたら言外に含んでもいるのか。

 たとえば教室の内と外、学校の中とそれ以外、さらに世間一般とそこから明らかに違う「異人」としての生……そんな距離感は、一見同じに見える競馬という稼業の場にも一本、眼に見えにくい色とかたちとで、でもやはりくっきりと、今もなお引かれているもの、なのか。

 お酒はあいかわらず……と水を向けると「呑みますよお」とニヤリ。「でも、呑まんときは全然呑まんですよ。どっちかです」。これは確かにそうらしい。ただ、呑むと人が変わる、というのが地元の常識。ときにからみもする由。どこかのパーティーで、カンパイとともに勢いあまってグラスをたたき割ってしまったことも。

 ミーチャンのおかげでいろんな表彰式や祝賀会、そんな華やかな場に立ち混じらなければならなくなったので、調教師の奥さんはぴったりマークして離れなかった由。だってクスくん、一杯飲ませたらどうなるかわからんのやもん、地元やったらみんなようわかってるからええけど、日本中いろんな人に注目されとる場やと、あぶのうてとてもひとりにさせられん。

 でも、それでも、なのだ。ノリヤクというのは、ときにそういう生態のイキモノなんだから、という理解がまだかろうじて「場」に生きて残っている、笠松はまだそういうステキな競馬場だ。そう思わないか、皆の衆。

 家族は、奥さんと双子のお子さんがいる由。その奥さんもとてもいい人、というのがまわりの評判。例によって酔っぱらって帰ったハマちゃんに、カラダにいいから、とアサリの味噌汁をこさえて出してくれるような、そんなよくできた人、とか。もっとも、ご本人はそのへん、あの笑顔でごまかし、黙して語らず、なのだけれども。

 今はじゃあ、仕事が楽しみ、ですね、と月並みな言葉をかけたら、「いや、仕事はぜんっぜん楽しくないですよ」と、再びにべもない。一瞬、先行きが見えない地方競馬笠松の現在が顔をのぞかせた。

 確かにここ笠松は、主催者のどうしようもなさはいわずもがな、現場の厩舎同士、調教師たちの連携もどこかちぐはぐになりがちなのが最大の弱点。せっかくの「ミーチャン」人気すらうまく活かし切れていないうらみは、正直ある。

「昔からですよ。バラッバラですもん。また、騎手なんてもう全然(調教師とは)別の世界ですからね。(地元の)馬主さんにしても、もうあまり(人数が)おってやないですし……」。

 また今の笠松は、騎手の年齢構成がいびつだ。川原正一が抜け、同年代のアンミツも去り、今や彼、ハマちゃんが最高齢。一方、20代の若いジョッキーがひとかたまりで、逆にその上、30代から40歳前後の世代がスッポリ抜け落ちてしまっている。

「ぼくらの下がもう東川(公則、40歳)くらいでしょ、生え抜きは。(40代に)牧くん(向山牧・元新潟競馬)や正三(花本正三・元益田〜高知)がおるけど……」

 いきおい、若いジョッキーたちと一緒になって遊んだりもしなくなる。

「また、向こうからもあまり構っては(関わっては)こんですね(苦笑)」

 だから眺めていても、ひとりぽつん、と仕事をしているように見える。若いジョッキーたちが軽口叩きながら馬具を整え、身支度をし、洗いものなどしている中で、ハマちゃんだけはひとり、何十年もこなしてきた決められた流れで自分の仕事を淡々とやっている。

 孤立しているわけではない。若い衆なりのリスペクトの空気は確実に、そこにある。あるけれども、でも、それはかつてあたりまえに競馬場にあったものとはまた別のものだ。

「ああ見えて義理堅い、ええコやでねえ、クスは」

 ある古い調教師が、ぼそっ、といった。朝の攻め馬だけやのうて午後の厩舎仕事なんかまできっちりやらされてたのは、今おるノリヤクらの中じゃ、もうクスくんくらいになってるんやないか。

「カツミ(アンカツ)やクスくんらの世代は、たとえ遊んで酒食ろうてやんちゃしているときでも、話はウマの話ばっかりやったですよ。あのウマはこうや、いや、こう乗るのがええと思う、今度はオレのウマで負かしたる……そんなことばっかゆうてた。遊んでてもライバルというかね、そういう気分、キモチが絶対に根っこにあった。今のコたちは遊びなら遊びのことしか話をせんです。仲がええというのか……なにくそ、何が何でも負かしたる、といったキモチが互いに薄いように見えますで」

 50歳は、全国でも屈指のベテランの域。でも、見ている限り、他の同年代のジョッキーと比べても、肉体的な衰えなどはあまり感じられないタイプなのだが。

「カラダですか? いや、体重なんかは全然問題ない、大丈夫なんですけどね。ただ、足腰のほうはやっぱり……いっぺん大ケガしとるしね、ここ、ヒザのところの十字靱帯切っとるんで、これがきついです」

 船橋の、あの桑島孝春がとうとう引退した、という話題になった。的場文男石崎隆之森下博といった同世代のベテランたちの話にもなる。

「的場さん、元気いいですよねえ、パワフルですしねえ。ようしゃべられますし、すばらしいですよ。バケモノやね、あの人は」

 そういえば、南関東で短期騎乗したこともあったっけ。ワールドスーパージョッキーズシリーズの翌年、2007年の春から2カ月。でも、正直期待していたほどの活躍が見られなかったのは、なぜだったのか。

「あの浦和のときはねえ……これ、今やからいいますけど、実はこっちで突き指して、しばらく乗れんかったんですよ。だから、いいウマ乗せてもらったんですけど、結果があまり出せなかったもんで、悔しかったです。言い訳になるんで、あのときはいわんかったんですけど」

 それでも、競馬という仕事に就けたことはよかった、と胸を張る。ここでの迷いは、ない。

「ボクとしてはすごくよかったですね。特に、ボクの兄弟子が松原義男(現調教師)という人なんですが、今でもいろいろ、公私ともに面倒見てもろてるんですけど、あの人が兄弟子やなかったら、とっくに騎手辞めてたと思いますよ。実際、いつ辞めてもおかしくなかった。イヤになったのもあったし、やっぱり早めにリタイヤしてたと思いますね」

 ほかに生きようがない。辛くて、苦しくて、イヤになったとしても、ここ以外にもっと生きやすい場所など、こんな自分なんかにあるわけがない――だったら、ここで頑張る、それしかない。それしかないことを積み重ねて、今がある。でも、いつまで現役でいるつもりなのか。

「まあねえ……(ウマに)乗してもらえれば、ねえ。依頼がある限りは乗ってたいですけどね。まあ、今は普通に、淡々と仕事してる感じです」

 一時期、存廃の危機も何度かあった笠松。この先、もしも競馬場に何かあったときはどうするのか。またどこかほかの競馬場に移籍して、別の根づき方を模索するのか。余計なことと思いつつ、そっと尋ねたらこれまたあの顔で破顔一笑

「うはははは……ここが終わったらもう終わりですよ、終わり」

 この競馬場がなくなるようなことがあれば、自分の人生も終わる。その先どうするか、そんなことわからない。今はこの続けてきた競馬の仕事をするだけ。でも、願わくば、また中央の晴れ舞台でも、その「異人」ぶりを見せつけてほしい。

「いや、ほんとは乗りたいです、JRAで(笑)……ほんとはね、ほんとは、ですよ」

 おどけるようにいったとき、ちょうど騎乗馬が曳かれてきた。すっと立って、パパッ、と身づくろいをする手つきが、ひとつまた粋なノリヤク、の証し。

 今日は開催の最終日、あとふた鞍乗れば自由の身、またいつもの店に駆けつけて顔見知りと騒ぐ「ハマちゃん」の姿が、いつもと同じように見られるはずだ。