「クールジャパン」といまどきのお役所気分

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 「クールジャパン」なんてことが、ここにきてそろそろメディアの表舞台でもささやかれるようになってきました。

 マンガやアニメは言うにおよばず、どうも最近ではファッションだの食文化だの、はたまた観光だの、それらあれやこれや何でもありに全部ひっくるめての決して重厚長大、気宇壮大なゴリッと硬質の「生産」主義の目線からは、ずれてくるような部分、まあ、その、いわゆるサブカルチュア系(笑)領域ですか、そんな基本的にどうでもいい、世の中の動きの根本に直接関わりようもないよしなしごとのうち、どういう理由か昨今海外で少しはウケているらしい部分をむりやりにでも抽出拡大、引き伸ばせるだけ引き伸ばして、ほらほら、いろいろ言われてますけどまだまだニッポンだってこんなに大丈夫、世界に向かって「発信」できる「コンテンツ」がこんなにあるじゃないですか、と裏返った声と調子の早口でさえずりまくるような、そんなにわかに信用できないあやしげな能書き。しかも、それをそこらのただの商売人、口先三寸のテキ屋稼業の輩でなく、立派なお役所、国家の官僚のお歴々が眼吊り上げて主張するようになってる、ってあたりがもう、早晩、ロクでもないことになる、ってことは確定なわけで。あたしなんかはもう既視感ありあり、まだ性懲りもなくそういう手癖が生き延びられているんだなあ、と逆に感心したりしているくらいであります。

 そもそも、言わずもがなの風呂敷広げるならば、「文化」を「輸出」しよう、って発想なんざ、別に今になって始まったこっちゃない。あらゆる貿易、交易なんてものは、それに関わる当事者たちが意図するしないに関わらず、本質的に「文化」の「輸出入」という側面を伴うもので、このうっかり地球規模にまで市場と流通のからくりが本格的、かつ全面的に拡大、作動しちまって以降の世界ってのは、事の善し悪しとは別におおむねそんなもの。目くじらたてたところでどうなるものでもありゃしません。

 ただ、それでもなお、敢えてここでひっかかっておかなきゃいけないと思うのは、そういうからくりがすでに全面的に作動しちまっているこの環境でなお、意図的、あるいは戦略的(笑)に「輸出」なんてことを脳天気にもくろむ、そういう意識のあり方であり、何よりも、それを他でもない近代国家の官僚制の内側に宿る自意識が何をトチ狂ってか、いの一番に提灯つけるようになっちまってる、いまどきのわがニッポンの霞ヶ関以下のお役所の風土、気分の共同性、ってあたりのことであります。

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 政治だの経済だの金融だの、いずれひとくくりにされがちな文科系の世界観でも「硬派」と目されてきたマジメな領域と、それ以外のやくたいもない、お目こぼしされて初めて何とか棲息させていただいてきた部分との間の距離感というやつは、今や実質そんな距離感が日々生きてゆく上ですら役立たずになっちまってきてるにも関わらず、ああ、そうか、実にこういう具合に現実の側に微妙な角度から復讐してきやがるんだなあ、という感じです。

 かつて当たり前にあり得た、硬派と軟派、メインとサブ、中心と周縁、マジメなものとそれ以外……何でもいいですが、とにかくそんな二分法の下に世界が統括されていたかのように思えていた約束ごとが、その後なしくずしに意味のないものになっていったにも関わらず、それらの約束ごとの下に育ち、時に若気の至りをやらかし、なんだかんだで結局社会化していった意識たちにとっては、時に、時間差のようにそれが温存されたままになっちまう症例がどうやら見られるらしい。

 この「クールジャパン」案件にしても、お役所方面の中でも経産省がとりわけ熱心、ご執心な様子なのは、さすが「ダホハゼ」の異名をとってきたセクション、相も変わらず卑しさ全開でご立派ですが、それ以外でも「文化」方面なら本領のはずの文科省(特にここの文化庁ってのがいけ好かないことおびただしい)だの、何を勘違いしてるのか外務省までもが、この「クールジャパン」の呪文に軽挙妄動、右往左往し始めているようなのは、何ともはや、情けない限り。

 どうせまた、背後にはこれらを商売で持ち回っている広告方面のあんな商売人、こんな玄人たちがいるだろうことは当然としても、気になるのはそういう商売人たちの手癖にここまであっさりとお役所の中の人たちが煽られ、うっかりとその気にさせられまくるようになってる、そのことです。

 別に国だけじゃない、そこら中の自治体で近年、うそうそとわき続けているあの「ゆるキャラ」と称するシロモノにしても同様。あんな活動にリソース割いている自治体なんざ、オンブズマンだの何だののプロ市民団体こそ真っ先に血祭りにあげてもらいたいくらいなのに、おおむね野放しのまま。自治体の宣伝広報、情報発信などの本旨とはかけ離れたところで、もっと別のあやしげな自意識、それこそ「クールジャパン」にあっさり乗せられてしまうような軽薄さ、地に足のついてなさが、国であれ市町村であれ、わがニッポンのいまどきの「公」、パブリックセクターってところに頑固にとりついちまってるのかも知れません。

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 詳細に検証、論じてゆく紙幅もないので、備忘録の意味も含めて乱暴にひとくくりに言っちまいますが、要は、90年代以降どんどん進んでいたニッポンのことばによる現実把握の仕掛けの衰退が、こういう事態まで引き起こすに至った、そういうことだと思っています。

 別に散文的な意味のことばだけでなく、数字や統計、数量的な脈絡での現実把握も含めて、広い意味での〈リアル〉、依拠すべき約束ごととしての現実感覚、ってやつが、グズグズに煮崩れてきていて、それがついに「公」の現場にまで蔓延するようになった、そんな印象。

 昨今、手のひら返しで全力で全否定、なかったことにされているかの「ゆとり教育」の問題にしても、あの流れの中にいて少なからず重要な役割を果たしていたこと明白な寺脇某も、本性は単なる映画マニア、サブカルの脈絡で主体化してきた新種のエリートだったことが明らかになってます。公教育を結果的に根太板から崩しかけ、それでいて在日朝鮮人のための詰め込み教育の学校の片棒どころか、全力で支えようとするというキチガイぶりは、しかしご本尊にしてみればおそらく、首尾一貫したアイデンティティのうちに選択されたことであるのでしょう。はたから見れば支離滅裂、分裂しているキチガイぶりも、しかし意識としては統合されている、という物件は、そこらの常民ならともかく、うっかり「権力」を行使する立場に身を置いてしまっていること、そしてそれらまわりがうまく認識できず、だから制御する手立ても見つけられないまま、あれよあれよという間にやりたい放題、メチャクチャで支離滅裂なことが、しかし一見理路整然と遂行されてゆく……あれ、これって今の民主党政府の下で絶賛進行中の事態と、まるきり同じじゃないですか。

 「サブカルチュア」のもの言いでくくられてきた領域が、今のこの情報環境でどのようにけったいな役回りを担わされるようになっているのか、とりわけ生身のニンゲンの意識を介して、どういうおぞましい現実を招来しつつあるのか、そこらあたりを本腰入れてことばに、同時代の理解に役立つようなテキストの水準に還元して見せること、今や恥ずかしいシロモノの代名詞になってまってる「ジャーナリズム」や「文科系のガクモン」、はたまた「思想」なんてものはひとしなみにそういう使命感におのれを駆り立てるべき季節じゃないかいな、と、例によって血圧あげてみる残暑の2010年、であります。