追悼・朝倉喬司

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 命日は12月8日、そう決めた。だって、やっぱり来てたんだもの、朝倉さん。

 その日、札幌での「こまどり姉妹、とその時代」というイベントのトークセッション、こまどり姉妹ご本人を前にしての公開聞き書きという趣向で、民俗学者赤坂憲雄さんと共に朝倉さんもお呼びしていた。

 それが一週間ほど前から連絡がとれなくなり、当日も待てど暮らせど姿なし。いや、実は朝倉喬司さん、このところ行方不明でして、きっと北上の途中、函館か青森あたりのあやしげな界隈でまた沈没してんだと思います、と舞台からは詫びの口上、客席もドッと笑って許してくれる一幕。それが、ああ、ほんとに逝っちゃってたとは。


 祭りのあと、の70年代、折からの週刊誌ブームの中、契約記者やライターとして世渡り始めた一群のひとり。犯罪・事件ものから始まり、ヤクザや芸能、テキヤにサンカ、いずれ分際を超えてふくらみ始めた市民社会の視線から疎外されてゆく領域を生きざるを得なかった生に、そっと寄り添うような仕事をしぶとく続けた。自分ひとりではない。仲間と雑誌をつくり、河内音頭に入れあげては振興隊を組織、いつもそんな“動き”の中で仕事をつむいでいた。

 うん、うん、とうなずきながらはなしを聞く、その表情、まなざしにどこか穏やかさがあった。なんというか、そう、イナカのばあさんのような。実は相当にシャイで内省的でフェミニンで、うっかりブンガクな内面を隠し持っていたことは、多くの人が知っている。酔うと必ず飛び出した「犬殺しの唄」は途中、ぐろーりーぐろーりーはれるーやー、とリパブリック賛歌に転調、野口雨情や西条八十、ついに河内音頭浪曲にまで脱線してゆき、あとはおぼろ。あの奥眼の慈愛と、千鳥足の誠実。それが「朝やん」的日常、だった。

 「そうか俺は無人の舟なんだと思う」

 出世作『バナちゃんの唄』の一節。確かに、潮の間に間に漂うような道行きが常、一直線に目的地にたどりつくことだけを目指す取材、では全くなかった。ふらふら、ゆらゆら、右へ左へ、いつも気分は千鳥足の道行き。なのに、“うた”と“はなし”にだけは鋭敏に反応する、そんなカラダ。そのまさに民俗学的身体と、ルポやノンフィクションの「聞き書き渡世」「よそもの稼業」が手と手をとって、結果として〈いま・ここ〉を斜め下方から狙撃する戦線を現出し得た、そんなシアワセな時代の最前衛だった。晩年、さらに肩の力が抜けた文体で歴史に下降、「紙碑」を刻むようなまごうかたなき現代民俗学、歴史人類学の仕事をひとり続けていたことは、もっと正当に評価されるべきだ。

 当日、こまどり姉妹の舞台は鬼気迫るデキで、数百人の観客を前に72歳とはとても思えぬ声の張り、その生身のスウィング感が、かつてのブルースマンに場末のクラブで出くわしたようだった。

 だから、あの場に絶対いたよ、朝倉さん。ホールの最後方、腕組みしながら眺めてた。「ソーラン渡り鳥」以下、芸能がまだ正しく「異人」のなりわいだった頃のすてきな“うた”に送られて、にっこり笑ってあのままどこかへまた、ふらりゆらゆら旅立ったんだよ。
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