民俗学的知性、について・メモ

 民俗学に可能性はもうない、と言い続けて久しいわけです。

 大学という場所の民俗学がキライだった、ってのもあります。アタマが悪いんですよね。人が俗物過ぎる。そのことを許容できなかった程度にこっちも若かった、ってことなんでしょうが。

 自由に生きることができればそれでよかった、って感じではありました。そのための触媒としてのガクモン、でした。食えるとは思ってませんでした、ほんとに。大学院ってのがどういう場所かも全く知らず、ただついてみたいセンセイがいるってだけでもぐりこんだのがほんとです。でも、死んだオヤジが「それ、いくつになったら食えるようになんねん」とミもフタもない、今覚えばありがたいツッコミを入れてくれていたおかげで、頭の片隅のどこかには必ず「食う」ことがひっかかってはいましたが。

 でもそれは大学の教員になるっていうものでもなかったです。第一、そんなのムリ、とまず半年で思った。だって、成城大学ですよ、下からあがってきたようなボンボンやお嬢さんばっか。こっちは学部は早稲田で、それも4年間いても教室にきちんと顔出したのはのべ2ヶ月くらいしかなかったようなテンプラでしょ。芝居にアタマ突っ込んでたんでそっちの関係しかなくて、未だに同窓会なんて一度も声かけられたことがない。まともな学生、マジメなカタギの大学生ってのとちゃんとつきあったことが実はなかった。バイトと芝居その他で4年間過ごしただけのボンクラでした。

 ゼミってのもわからなかった。演習とってはいましたけど、数回顔出しただけで、それでも単位くれましたから。

 お行儀よくセンセイの言うことを聞いて、言われた課題をこなして、カバン持ちやお手伝いもやって、みたいな望ましい学生、院生の日常ってやつをかたわらで実見して、ああ、こりゃムリだ、と思いました。で、それをこなしたところで順番待ちでしょ。研究室には上に当時で30代の先輩からずらり、6、7人くらい詰まってましたし、その人たちが全部せいぜいどこかの非常勤講師やってたら御の字の世界。おとなしく待っててもこりゃラチがあかないわ、と思いましたね。

 芝居はまだやってましたから、バイトも辞めてない。精神科の補助看護士です。だからほんとに院生としてもいい加減なボンクラだったんだと思いますね。

 〈リアル〉を求めてたんだ、と思います、ひとことで言ってしまえば。

 自分にとって確かなもの、手ざわりのある現実、ってのが欲しかった。そのための民俗学だったんだろう、と。当時はそんなこと考えてなかったんですけど、後になって振り返ってみて、ああそうか、そういうことか、って感じになりました。大学辞めてからのことですが。

 競馬場の厩舎に通って、ただそこにじっとすわっていることがシアワセでしたね。目的意識や、これこれこれだけのデータをとってこなきゃいけないとか、そんなの関係ねえ、です。民俗調査で、特に市町村史の民俗編なんてのがまだいくらでも仕事としてまわってきてた、その最後の時期でしたから、やろうと思えばそんな手伝いもいくらでもできたんですが、やりませんでしたね。というか、できるわけない、と思ってた。やりたくないし。

 世帯票を分担で持たされて、それに決められた形で書き込んでゆかないと夜、宿でしばかれるわけですよ。明治の人類学なんてそういう場所でしたし、民俗学と人類学が近い最後の時期でもありましたから、沖縄の民俗調査なんてそんなチームばかりがひしめいてたましたね、毎年夏になると。

 アウトプットも論文じゃなかった。というか、註があって組み立てもしっかりしてて、という形式になじめなかった。ここでも、そんなの関係ねえ、ですよ。書きたいように書くし、伝えたいことを伝えたいように表現する、それしかないじゃん、とずっと思ってた。

 本は読んでましたよ。でも、普通の本好きで、体系だてた読書をやったわけじゃない。そのへんは浅羽通明なんかの方がよっぽどしっかりしてたと思います。なにせ司法試験めざしてパスするだけの技術があったわけだし。こっちは巷のただの本好きサブカルおたくですよ。

 つくる会に首突っ込んだことのバランスシートってのは、結構自分の中では重要なんです。大学なりジャーナリズムなり、何でもいいですけど、そういう「文化」ってのはなるほど、こういう仕組みで成り立ってるんだなあ、ってことを自分自身で代償払いながら思い知ったところがある。

 自分じゃ今でも間違ってなかったと思うし、判断もおおむね正当だったと思うんですが、まわりからするととんでもないことやらかしてるぞ、みたいな感じだったんでしょうね。きれいさっぱりつきあいが途絶えた。視野から消えたんでしょう、きっと。その後サイバッチなんかに関わったりしたからなおのこと、でしょうね。

 決して大文字に飛翔しない。できない。個別具体の相から眼も耳も全身の感覚を離さない。そういう方法的意志を持つこと。

 ネット以降の情報環境だとそれはかなり難しいことだと思うんですが、自分がアタマがいいことを証明したいがために、何か勉強をする、ものを書く、話をする、それだけになってしまったから、人文学は、少なくとも日本語を母語とする範囲ではここまでみっともないものになっちまってるんだなあ、と思ってます。

 こういう空間になじむことばであり、カラダであり、そんなものからのアウトプットというのは、必然的にある一定の方向にしかまとまりを持たなくなる。自分自身が不自由であることを自覚できないままでジタバタしているように見えます、いまどきの院生や若い世代の諸君を見ていると。

 書を捨てよ、街へ出よう、と言ったのは寺山修司ですが、街へ出れば〈リアル〉があったってことですよね、かつては。少なくとも寺山はそう思っていたし、そういう理解はあたりまえに理解もされた、同時代的にも。

 ヴ・ナロードの高度成長サブカル版だったわけですが、それでも一定の効果はあった。「現在」=〈いま・ここ〉というのは、そういう意味で言挙げしてきているつもりです。

 生身であること、一点透視であること、ことばの水準は個別具体から離れないこと、話しことばも含めたアウトプットは言文一致を心がけること……

 弱点はあります。たとえば学会に恩恵を被ったという経験がほとんどない。ガクモンの仲間というのを本当に信頼できるような経験はとても乏しいままです。そんなのおまえが悪いと言われるようなものですが、でも実感としてはそうなんだからしょうがない。

 読者に出会えるために書いてきたし、動いてきた、と思っています。学会の枠の中にはこりゃ読み手はいないな、と腹くくった。こんなバカに何言ってもわかるわけない、とさえ思ってました、本気で。

 研究会とかセミナーとか、苦手です、未だに。おもしろい話は聞きたいけど、その「場」の作法や文化が抑圧ですね。