デザインという記憶装置の不思議――「牧場」「草原」を刷り込まれたホッカイドウ

●「北海道」がつまった空港のフロア

 昨年の夏、新千歳空港がリニューアル。国際線とのコンコースが完成して、それに伴いいろいろ新しいショップなども並ぶようになりました。いまどきのこととて、小ぎれいなディスプレイにさまざまな商品がうまく並べられて、道外から訪れる観光客ならずとも眺めるだけで楽しいのもわかります。

 かつては鉄道の駅がその町、その土地への入口でした。でも、今や空港が新たな駅としてその土地に定着して久しい。とりわけ北海道は言わずもがな。初めて北海道に足踏み入れた人が最初に接する「北海道」は、ここ空港のフロアでまずイメージとして刷り込まれます。

 フロアに土産物の類が大きく面積を占めるのは、近年、鉄道の駅よりさらに顕著。「スイーツ」と称される各種いまどきなお菓子類に、お約束の農産物に海産物、百花繚乱さまざまなグッズ系の小物たち……従来の「おみやげ」というもの言い自体どんどん拡張してゆくような事態そのものが、いまどきのニッポンの情報環境の反映です。わたしたちのこの北海道が、このような新たな情報環境を介して生み出されつつあるさまざまなイメージも含めた新たな〈リアル〉としての「ホッカイドウ」へと、今日どのように転生してゆきつつあるのか、それは「ホッカイドウ学」の重要な視点でもあります。

 そのような意味で、空港のフロアを眺めていて気になったことがひとつ。北海道のイメージが今のように「自然」「大地」系の表象に収斂してゆくようになったのは、はて、いつ頃からだったのだろう。中でも「牧場」「草原」といった方向でのイメージが自明のものとして「北海道」に寄り添うようになっていった経緯とは?

 少し前ブームになった「生キャラメル」を広めたのも、花畑「牧場」でした。でもあの「牧場」はテーマパーク的なもので、実際には生キャラメルやチーズなどの製造工場に観光目的の動物たちが伴っている、といった態。それでも「牧場」と名づけることの効果は見込んでいたでしょうし、実際その威力は十分ありました。六甲山牧場にマザー牧場……それら「観光」文脈で「牧場」のプラスイメージを想定した施設はある時期から全国に出現、しかし、その流れに北海道が先頭切って乗っていたというわけでもない。

 なのに、今や「観光」を介して流布される「ホッカイドウ」のかなりの部分にそのような「牧場」「草原」系のイメージは織り込まれているようです。その程度にニッポン人にとっての「牧場」イメージは普遍的なものにすでになっているということらしい。ただしその分、もともと「牧場」がどれだけ、われわれニッポン人にとって異様なもの、異質な風景だったのかーーがもう遠い昔。「歴史」の層にまぎれてしまっています。



雪印パッケージの偉大なるパワー

 自分自身のささやかな記憶を掘り返してみると、「北海道」がまず意識に刷り込まれるようになった始めは、バターやチーズのパッケージでした。それら乳製品を介して日常に入り込んできた「北海道」が、知らず知らずのうちにあるイメージを形成していったようです。

 特に、雪印チーズのあのデザイン。黄色ベースの下地の上に、放牧地の「草原」に白黒まだらのホルスタイン種とおぼしき乳牛たちがあちこちに点在、遠くに赤い屋根の牛舎も見える構図に、ダメ押しの北海道の地図。以前はもう少し牛の配置がまばらで遠景オンリー、センターでこっち向いている牛はいなかったような気もしますし、何より製品名のロゴがこんなに大きくなかったと思いますが、それでも、基本的な記憶を裏切るようなものでないのはうれしい限り。そうそう、これこれ、これが「北海道」の原風景だったんだよなあ、と。

 もちろん、それら半ば無意識の、日常のモノやコトを介して知らず刷り込まれていた経緯とは別に、表沙汰の知識として、牧畜、酪農の先進地帯といったイメージは小学校の社会科、地図帳や地理の参考書などを介しても流れ込んでいました。けれども、立ち止まって振り返ると、その「牧畜」「酪農」のイメージですら、北海道からだけでなく別の脈絡からあらかじめ引っ張られてきていたフシもある。ざっくり言って「牧場」「草原」といった風景とそれら「牧畜」「酪農」とが融合したところで鮮烈に「北海道」が意識の銀幕に投影されるような仕掛けが、ある時期、子ども心にもすでにできていたように思います。



●唄と給食を通しての刷り込み

 そして「草原」ないしは「高原」――これがまた相当に謎です。特にイメージの領域では。たとえば、こんな唄もありました。

 汽車の窓から ハンケチ振れば
 牧場の乙女が 花束投げる
 明るい青空 白樺林
 山越え谷越え はるばると
 ラーラララー ララ ララララーラ 
 高原列車は ラララララ 行くよ

 昭和29年の流行歌「高原列車は行く」。岡本敦郎の歌で、作詞は丘灯至夫西條八十の弟子で、「高校三年生」などで知られる人ですが、これ以外にも「憧れの郵便馬車」など彼の作った歌詞の中には、なぜか一連の「草原」「牧場」「高原」系のイメージがふんだんにばらまかれています。


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 この「高原」、地元福島県の沼尻軽便鉄道とその周辺の風景を想定したと言われているようですが、毎日新聞記者として仕事をしながら歌謡詩もつくり、コロンビアレコード専属の作詞家でもあったこの人の「モダニズム」のあり方は、良くも悪くも「戦後」のわれら日本人の意識に、イメージとしてのある定型を刷り込む一端になったようです。

 みどりの谷間に 山百合ゆれて
 歌声ひびくよ 観光バスよ
 君らの泊まりも 温泉(いでゆ)の宿か
 山越え谷越え はるばると
 ラーラララー ララ ララララーラ 
 高原列車は ラララララ 行くよ

 峠を越えれば 夢みるような
 五色の湖 飛び交う小鳥
 汽笛も二人の 幸せうたう
 山越え谷越え はるばると
 ラーラララー ララ ララララーラ 
 高原列車は ラララララ 行くよ

 しかし、ここにはまだ「牧場」の具体的なイメージは出てきていません。風景としてと共に、そこに点景されるべき手ざわり伴う生きものとしての牛も馬も、また。

 馬はともかく、牛がわれわれの日常意識に何か特別な輪郭と共にあるイメージとして刷り込まれるようになってきたのは、ひとつは「肉」もうひとつは「乳製品」だったでしょう。文明開化以来の新しい事物であり、戦前から少しずつ普及していった食材。しかし、それらが日常の風景としてごく当たり前に、わざわざ意識せずとも存在するようになり、結果として意識の上でまた別の意味をさまざまなイメージの光彩を伴って想起されるようになっていった過程も含めて考えてみるなら、「戦後」の懐うちで一気に大きく意識せざるを得なくなっていったモノ、ではあります。牛乳にバターにチーズ、そしてヨーグルト……乳製品が本当になじみのある日常の事物となったのは、「戦後」の学校給食を介してのことでした。だからこそ、雪印のチーズのあの箱は「北海道」にまでも一直線に結びつく記憶の形成にも寄与してくれていたわけです。

● 共同の記憶に投影されるイメージ

 けれども、それでもなお、それら乳製品のふるさとでもあるはずの「牧場」とは、多くのニッポン人にとってはほぼメルヘンであり絵空事でした。

 それは「西欧」「外国」というしるしがつけられた、多くの場合望ましい虚構であり、夢の国でもありました。そのイメージは後の『アルプスの少女ハイジ』などにまで揺曳しています。時あたかも70年代、高度経済成長の「豊かさ」が具体的なモノやコトを介して日常に浸透していった時期、われわれのココロの中もまた、それまでと違う組み立てになってゆきつつあったようです。

 流行歌などを介して流布される白いギターにブランコに「草原」……「近代」「文明開化」によって乗り越えられるべき桎梏(しっこく)としての良くも悪くも重苦しさを伴うニッポンのそれまでの「故郷」「いなか」イメージに、このような本来は筋違いの、それこそ「バタ臭い」要素が平然と重なるようになっていった過程が一気に増幅されていったのもまた、正しく「戦後」でした。

 それでも、そこに至る膨大でとりとめない過程でさえも、身近にある何でもない微細なモノやコトを介してたどることもできる。たとえば、こんな断片も。

「四姉妹の記憶のなかに鮮明に残っているものがあった。それは、仔猫くらいの大きさのホルスタインの置物で、ビィスコンで牛を買った時に土産として持ち帰ったものらしい。」
黒川鐘信『東京牛乳物語――和田牧場の明治・大正・昭和』

 明治20年代に海外から乳牛の輸入が始まった頃、そのさきがけのひとりとして東京の市中で牛乳店を営んでいた一族の記憶。白黒まだらの巨大な乳房を持った牛。けれどもそれは見慣れた土着の和牛とはまるで別物、最新式の工業機械のようにすら見える異様な生きもの、だったはずです。だからこそ、土産物として持ち帰ろうとした。ビィスコン、とは米国ウィスコンシン州のこと。耳で聞き倣った和製転訛のカタカナ英語です。

 後に「北海道」にも融合してゆくようになる「牧場」「草原」「高原」系のイメージの歴史を織りなすささやかなひとコマ。今の空港、きらびやかなショップに並ぶモノたちの放射する「ホッカイドウ」イメージの背後にも、このようなわれらニッポン人の共同の記憶、意識の銀幕に投影されるイメージのからくりにひそむ未だことばに十分されていない「歴史」が、とめどない個別具体のモノやコトを介して静かにたたずんでいます。