いまどきの大学・考


 大学は最近、どうやらえらいことになっているらしい――このところ、そんな報道が眼につくようになってきました。

 けれども、いまどきの大学で現実に起こりつつあることについて、果たしてどれだけ世間にうまく伝わっているのか、正直、謎です。現場のニンゲンとしては。

たとえば、少子化が絶賛進行中に関わらず、なぜか大学進学率がいまや堂々50%を超えてしまい、かつ、その最前線にはすでにかの悪名高き「ゆとり教育」世代が殺到し始めているというこの瀕死かつ最高にステキな状況で、実際にどのような男前な事態がいまの大学で日々、ミもフタもなく展開されているのか。申し訳ないですが、昨今報道される大学はまだまだ、その〈リアル〉を伝えるまでに至っているようには思えません。

 なぜか。大きな理由はざっと見てふたつ。まず、報道する側も、そしてもちろん世間一般も、どうしてもこれまでの大学のイメージを下敷きに見てしまうらしいこと。そして、彼らだけでなく、おそらくは文科省など責任あるはずの立場のエラい人たちも含めて、いま、そのような大学を語ろうとする側のほとんどが、本当の意味での当事者にはなっていないこと。つまり、こんなグダグダの大学なんかほんとはもうどうでもいいわ、とりあえず知ったこっちゃない、とホンネでははっきり思っていること、この二点です。

 まあ、当たり前でしょう。とにかくいまやニッポン自体それどころじゃない、特にかの3.11以降さらにその気分は濃厚なわけで、目先の課題、問題を処理して何とか日々をやりすごしてそれぞれ身を守るのが精一杯、いくら教育は国家百年の大計、などとマジメに力んでみたところで、ここまでほったらかしにしてきたものをいきなり全部まとめてガラガラポンはとてもムリ。ならば、ああ、こんなにグダグダになっちまってるんだな、いまどきの大学は、お気の毒に、とひとごとで嘆いたり罵ったり、時に激励してみたり、いろいろ好きにいじって放り出すのがせいぜい。あの被災地の人々を生ぬるく、無害な善意で、運が悪かったねえ、と見守ってみせるいまどきの世間の視線と同じようなものです。


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 思えば、大学についてはこれまでも、さまざまに語られてきました。そんな世間の視線の側から。

 たとえば、いわゆる受験がらみであの偏差値ってやつが、何やら諸悪の根源のように取り沙汰された時期もあった。大学受験、が肥大していった頃です。偏差値による輪切りの序列化による価値観の一元化が大学を見る眼に定番として仕込まれるようになって、また大学側もそれを逆手に取ってのマーケティング戦略をやらかし、後になってみれば偏差値バブルと言われたような情けない状況すらありました。一時期話題になった上智大以下、「日東駒専」だの「産近甲龍」だの「大東亜帝国」だのと呼ばれた大都市圏にある私立大学の、立ち位置に応じたイメージアップの手練手管のあれこれも、そういう偏差値がひとつの世界観として大学に対する世間の側の視線に仕込まれてしまった状況を前提にあり得たこと、でしたし、かの「ゆとり教育」にしても、大きくはそのような偏差値教育に対する反省からやらかされたものだったりもする。

 偏差値というフィルターがかけられることで、大学がそれ以前の大学、戦前から連綿と続いてきた高等教育機関としての意味も存在の仕方も変えていった過程がまずありき、でした。戦後、高度経済成長の過程で古くは「駅弁大学」から「女子大生亡国論」などを経由して「レジャーランド化」などと呼ばれるようになっていった経緯は概ねこれに該当するでしょう。このような時期を同時代として過ごしてきた経験をもとに、いまどきの世間の側の大学を見る眼もまた、規定されています。

 ただ、どうやら昨今、そのようなこれまでの経緯さえもあっさりなかったことにできるくらいのとんでもなさで、少子化と大学「改革」、さらに加えて「ゆとり教育」までもが大津波の如く押し寄せている。これまでわれわれの社会が良くも悪くも共有してきたはずの既存の大学イメージそのものからまずカッコにくくらないと、眼前で起こっていることを見る際の障害にすらなる、というのが、いまの大学をめぐる状況の総論であり、〈いま・ここ〉で大学を、本当に未来に役立つように語ろうとすることの難儀の本質です。


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 特に、文科系です。

 理科系/文科系、というくくり自体が、ニッポンの大学自体の歴史にからんだ、思えば妙な枠組みではありますが、それでも昨今、理科系はまだマシで、基礎研究の薄さだの理科系離れだのと言われながらも、いやだからこそ、少なくとも大学行政の範囲内でははっきりと勝ち組、理科系の学部を大学再生の核にしよう、といった動きは、総合大学系の大学では「改革」のひとつの旗印になってたりする。その分、文科系は思いっきりワリを食ってます。というか、もうほとんど世間的にも「役立たず」の烙印が押されている現状。ブンガクは言わずもがな、歴史や哲学、芸術に外国語など、一連の「改革」の中ですでにバラバラに解体されつつあります。

 文科系、ということは、とりもなおさずそれは「フツーの人たち」ということでもありました。とりわけ、受験業界用語で「私立文科系」というくくりで語られるかたまりってやつは、イコール「特に取り柄もないフツーの人たち」、要は「ありふれた給料取り=サラリーマン予備軍」ってことに、もうずいぶん前からなっていました。「改革」に伴って露わになってきた大学の価値下落のかなりの部分が、まさにこの文科系=“フツー”のためのそれなりの居場所の没落、斜陽、役立たず化とそこからくる不安な気分に起因しています。

 そのせいもあるのでしょう、最近では文科省方面が「初年次教育」「リメディアル教育」といったことも言い始めています。大学に入れたはいいがとても講義についてゆけない、理科系なのに二次方程式すらわからない、文科系はそれ以上で、英語はおろか日本語の読み書きすらあやしいのがゴロゴロやってくるようになった。仕方ないので健気な一部の大学が専門の教員やセンターを設けて学習塾よろしく対処してみたら、それがほめられひとつのはやりに。要は、「ゆとり教育」に象徴される中高までの教育で足りなかった分のツケを大学にまわそう、それも同じやるなら早い時期に、というわけで、同じような文脈で「学士力」との強化、いった提灯もつき始めています。これも最近の大卒の中身がいくらなんでもひどい、という認識からでしょうが、いずれこれらもまた、「豊かさ」以降の大衆化と平準化の行き着く果ての、ニッポンの大学の現状に違いない。

 授業を理解できない学生が教授の研究室に足を運ぶのは、気が重い。そうした学生を個別に助けるための学内機関を設ける大学が急増している。

 昨年の「大学の実力」調査では、前年より約100校も多い291校(55%)が設置。一般入試が中心で学力格差が少ないと言われる国立でも、設置率は69%に達していた。学ばせる工夫の必要性に、例外はないようだ。

 神奈川工科大(神奈川)では、入試の多様化を背景に、「he(彼)」を「ヘー」と発音したりする新入生が見られるようになった。そこで7年前、遠山紘司教授らが、大学の勉強だけでなく高校までの英語、数学などを家庭教師感覚で指導する場として「基礎教育支援センター」を設けた。

 成果はすぐに表れた。利用者の成績向上だけでなく、毎年300人を超えた退学者が半減する副産物も。さらに退学者減は高校の進路担当教員の信頼感を生み、「先生に、センターがあるからと薦められて」と志望理由を語る学生が今は珍しくないという。

 学生を自ら学びの場に赴かせる――同大の工夫には、家庭でも参考になる知恵がちりばめられている。

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/campus/jitsuryoku/20100527-OYT8T00561.htm

 実は簡単な話です。かつて中学が荒れる、あるいは高校が荒廃した、授業崩壊だ、学級内暴力だ、などと言われていた学校をめぐる状況が、そのままめでたく大学にまで持ち越されただけのこと。
 高校全入が取りざたされたのもすでに遠い昔話、いまや中卒、高校中退からバイパススクールやフリースクール高卒認定試験(かつての大検)経由での大学受験も含めて、大学もまた今や事実上の全入時代を迎えました。受験地獄、なんてのも実はもう過去のこと。苦しい勉強に切磋琢磨、浪人してまで一流大学をめざす、なんてのは、いまや世渡りのヘタな要領の悪いやつのやることで、いわゆる入試を得ないで大学に進学できる高校推薦やAO入試などの蔓延によって、望めばムリせず入れる大学は確実にある、というところまで来ています。また何より、そこまでムリするほどの価値も大学にはなくなっている、という認識も同時に広がり、だったらなるべくストレスなく進学できた方がいい、という気分が高校生など若い衆の最大公約数になっていて、親もまたそれを追認する流れができています。指定校推薦など推薦入学やAO入試の蔓延は、少子化で定員確保したい大学の側の事情と共に、そのような受験生の側から求められた部分も確実にあります。

 もちろん、高校など学校側もそのようなニーズに迎合したわけで、「豊かさ」を背景に整備されていった「学校」という閉じたチューブは高校から大学へ、さらにその先へ、と継ぎ目を気づかせないように仕組まれつつ、延長してゆくことになりました。この場では直接関係ないので触れませんが、同時期に推進された大学院増員政策の見事な破綻と結果としてあふれかえることになったオーバードクター(いわゆる「高学歴プアー」です)問題、なども、焦点を引いたところではこのような流れの中で理解されるべきものだと思っています。


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 90年代、いわゆる教養課程の解体に象徴された大学「改革」の方向性というやつは、当時の文部省、いまの文部科学省的に言えば、すでに偏差値によって輪切りにされ切った大学の現実をその実態に則して区分けしちえ、ということでした。

 まず、ゼニは出すけど口も思い切り出すから結果出せ、の研究中心大学(いわゆる旧帝大系の国立大や公立大、大手私大など「大学院大学」構想や「COE」プログラムに乗ろうとジタバタしたところはほとんどこれ。ただし、ロースクールその他の大失敗を見てわかるように、現実にはほぼ理科系中心)、次に、商売だから客集めをやっていいからもうちっとまともな社会人、ホワイトカラーをとっとと大量生産する仕掛けを整備せんかい、という大学(多くの私大はこのへん。とは言え、全国区での再編を進めるのには立命館など大手資本が有利なわけで、かつて予備校業界が再編されていったのと似てます)、以下、社会人入学含めてもっと社会に、地元に貢献してくれ、という大学(公開講座や「生涯教育」が看板だったりする)、大学の名前は同じにくれてやるから中身はもっと専門学校か職業訓練校に特化して即戦力で役に立つようにしてくれ、という大学(福祉や看護、医療系や、その他各種実務教育系の資格取得がウリ。専門学校や短大から四年制大学に衣替えしたところも多い)、てなところにきっちり分割統治しようというのがそのココロ。少子化で早晩少なくなること必定のパイを、こういう芸風の違い、看板の色合いで取り合いさせ、市場に競争原理を働かせて維持しよう、というのが、大学ビジネスとそれをコントロールする行政側の思惑だったと考えてそう間違いではないでしょう。

 そしてそれは、すでに少子化による危機が予測されていたにも関わらず、にわかに大学新設バブルを引き起こし、タテ割りの講座制と研究室のヒエラルキーによって組み立てられていた(少なくともタテマエとしてそう思われていた)それまでの大学のあり方を、予想以上に一気に解体させることになりました。この90年代半ばの時期以前と以降とでは、同じ「大学」という名でもその中身はまるで違っている、ということは、いくら強調してもしすぎることはありません。

 当然、学生の側も変わってきます。というか、変わらざるを得なくなった。

 それまでならば、文科系で名前の通った偏差値の高い大学の経済学部や法学部あたりにもぐりこめば、何とか大企業かそれに準じた就職はあったのが、そういう状況じゃなくなった。何か具体的な「実利」や「見返り」が見えない大学は見向きもされなくなりました。何か資格がとれる、就職に確実につながるものがある――嘘でもハッタリでもそんな保証がないことには、出資者である親はもちろん当の学生自身も黙って学費を出さなくなった。ただのブランド、単なる肩書き、アクセサリーとしての大学の卒業証書に黙って高いゼニを払う時代じゃなくなった、ってことです。

 高度成長以降の大学、いや、もっと言えば明治以降の後進国キャッチアップ型の高等教育機関としての大学を前提にした、さまざまな「大学」幻想がこのように相対化され、崩れていったというのが、90年代をはさんで起こってきたニッポンの大学の変化の本質でした。


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 で、それは風通しがよくなったんだ、と、まず思います。このあたしでさえ、も。

 かつての旧制高校生由来の「栄華の巷、低く見て」的な極楽とんぼな特権意識の勘違い野郎ばかりはびこり、役にも立たない遊民意識を培養するだけの「大学」なんざもういらない、と世間からちゃんと表だって言われるようになったわけで、これはこれでいいことです。価格に対するバリューがないと教育というサービスだって商品にならない――あたりまえと言えばあたりまえのことなわけで、このあたりまえが広く認識されるようになったことは、大学にとっても学生にとっても、基本的にいいことだったと思います。

 就職させることも大学に責任、と言われるようになっている昨今、「しょせん、大学も就職予備校だよ」なんて言い方も大学関係者から自嘲気味に出てきますが、ならば、本当に、本気で真剣に就職予備校に徹することのできている大学が、果たしてどれくらいあるものか。年がら年中「就職100%」という数字ひとつを頼りに血みどろの戦いを繰り広げてきている専門学校その他、いずれクロウトの「学校」屋およびその周辺の就活情報業者などに失礼でしょう。多くの大学はまだ、そこまでの認識も覚悟も持てないままたじろぎながら立ち止まっているところがほとんどです。

 もちろん問題は山積、かつ膨大です。

 文科系が総じて「役立たず」と思われるようになった。中でも、少しはマシと思われていた経済系の学部でさえも、「経済」というだけではもう客が呼べなくなってて、不動産だの投資だの、果ては金融工学だのと株屋の手先みたいな講義がないことには魅力がないと思われる。まして、人文系の学部なんざ昔も今もフリーター予備軍養成所なわけで、かつてならそれでも勘違い含めたエリート意識で支えられなくはなかったのが今やそれもペシャンコ。ならば、と「グローバル」だの「ビジネス」だのと頑張ってカタカナつけた新設学部学科をこさえても、気取った装いの建て売りほどイタくなるのが早いのと同じ理屈で陳腐化が加速、一瞬もてはやされた「総合政策」や「国際情報」などもあっという間に賞味期限切れ、もはやヘンな言い方ですが、そのように「大学」にいること自体の士気、活気がまるで低下しちまってるわけです、学生も、そしてそこに働く教員も全部ひっくるめてもろともに。

 特に、90年代の偏差値バブル、大学新設ラッシュで一瞬イメージだけはアップしたあたりの、具体的に言えば偏差値50代から40代後半あたりの一群の大学が一番、深刻な被害を被ってるのでしょう。それこそ、街角で携帯売ってるようなアンちゃん、風俗でも採用断られるような野放しネエちゃんたちが、平然と「学生」として構内を闊歩する。講義ったって、どだい日本語の読み書きからしておぼつかずそこらの留学生以下、1時間でもじっと座って人の話に耳傾けられないような物件が普通に大量に流れ込んでくるようになった。

 そんなバカ学生なら昔からいるぞ、と言われるかも知れません。おっしゃる通り、勉強が苦手で好きにもなれず、でも大学くらいは出ておかないと仕事がないもんなあ、といった理由で何とか大学にもぐりこみ学生やってた例は古今、いくらでもあるし、高度成長期の大学とはその時期その時期にそんなバカを取り込んで大きくなってきました。まただからこそ、そのような中から後に立身出世、ひとかどの存在になったという武勇伝、自慢話もまた、それなりの〈リアル〉を世間に宿し得る“おはなし”として機能していた。

 それでも、バカにも世代差があります。世代の背後にそれらを育てた情報環境の差もあれば、それらバカを宿す生身のどうしようもないたたずまいの落差、というのもあります。

 単なるバカ、勉強が苦手で学力も足りないというだけなら全く構わない。それでも元気に生きてゆけることこそが“フツー”ですし、そんな“フツー”になるための高等教育というのも大衆化の進行した社会では珍しくないわけで、そんな存在価値を大学はちゃんと見い出せ、というのならむしろ望むところ、いくらでも当事者として知恵も絞れば汗もかく覚悟はあります。ただし、そこにビョーキまでうっかり複合するようになっているのは、さすがに想定外の事態なわけで、それこそひきこもりや対人障害、アスペルガーにボーダー……レッテルはさまざまでも、要は生身のニンゲンとして世間で生きてゆく上で何らか問題や障害のあるような物件が一定比率で混じるようになった、これも以前には見られなかった新しいいまどきのニッポンの大学の現実でしょう。


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 「ゆとり教育世代」とは別に、「バブルJr世代」という言い方もされます。今の学生たちはまさにそのへんにあたるわけで、「豊かさ」とそれに起因する生活の変貌、 「モノ」との関係、所有や消費志向の変化は、対人関係やコミュニケーションスタイルの変化とも連動してします。

 たとえば、固有名詞として「眼に立つ」ことをまず避ける傾向は強まっています。そういう意味で「ブランド」志向などは後退しているわけで、ただ、と同時に「自分」が唯一無二であるという「個性」信仰は外面からはちょっと計測にしくいぐらいに絶対領域化しているように見えます。根拠のない自信、現実に根ざさない「個性」至上主義、とでも言うか、外部との関係の中で積み上げられてゆく自信に根ざした「個性」ではない、もっと漠然としたものですが、いずれ昨今、眼前の学生たちの生身には確かにそんな「個」の気配が漂っています。

 よく言われるような、対面よりメイルやケータイ等、メディアを介在させた関係の方を好む、といった「リアルVSヴァーチャル」二項対立図式での理解は、おそらく間違っています。たとえ対面関係でも、その絶対化した「自分」を脅かさない関係ならば安住できるわけで、逆にメイル等でも内輪のなれあい以上の関係は見事に避けてたりする。

 教室で講義中、誰か指名して質問しても、「え?ワタシ?」みたいな反応も普通になってきています。さらにより深刻なことに、その直後、他でもない自分が指名されて質問されていることに気づいた瞬間、あり得ないことが起こった、といった不愉快な表情を無防備に見せる学生すら、このところ珍しくない。情報環境の変貌に対応する自己防衛機制と言えば言えなくもないですが、何か返答をするにしても、単語ひとつの語尾あげだけで返してくる、何か知識はあっても断片的で単語のブツ切りでしかまとまりがない、なので、文脈というものが構築できず、知識相互の連関がつかない……そんな彼ら彼女らにとっての現実が茫洋としたまま、解像度も低いぼやけたままなのもムリはない。すでに人口に膾炙してきた「ひきこもり」にしても、定義はともかく、そう呼ばれざるを得ない状態に至った内実や背景などを個々につぶさにコトバにしようとしないと、一律に単なる症状、現象としてだけとらえることになりかねません。

 と思えば、こんな試みもすでに出てきています。

日本社会復帰大学
http://www.ar-ltd.co.jp/support/
http://www.ar-ltd.co.jp/support/about.html

 「日本社会復帰大学」は入学希望者へ2段階のサービスを提供いたします。入学前には卒業証明書類の取り寄せ、入学申請書類の作成、授業選択といった、ともすれば入学希望者が面倒と感じ、踏み出せない部分のサービスを、入学後には、八洲学園大学専任教員による週1回90分、全15回の通信授業を、共に学ぶ「バーチャルお姉さん」がメール等で毎時間フォローするサポートを行います。また、SNSを利用した仮想教室を運営し、望む方には同じ立場の人間関係を構築致します。

 従って、「日本社会復帰大学」入学イコール即社会復帰を確約するものではありませんが、学びによる双方向の接点を持って欲しい、正規の身分証明(八洲学園大学学生証というID)を得ることで、対外的にも対内的にも安定して欲しい、外出のきっかけ、例えば学割を使った映画鑑賞も試して欲しい等の刺激を提供し、新たな一歩として欲しいと願っています。

 半年後、科目履修を終えた学生は、「日本社会復帰大学」は卒業となりますが、「八洲学園大学」に入学している立場をそのまま利用して、生涯学習として学びを継続する、124単位を修得し学士を目指す、税理士や司書資格等の新たな資格に挑戦する、ライフプランに合わせて休学や退学する等がその後の選択肢となります。

 「研究」「教育」に加え、いまや「就職」までが大学の使命、という、中〜高等教育に関する政策の失敗のツケが最終的に現場にまわってくる、ありがたくもけったくそ悪い流れになりつつある昨今、こういう「リメディアル教育」「基礎教育支援」系の試みもまた、増えつつあります。

 ざっと眺めてみた限りでは、通信制でやってる大学が、ひきこもりorビョーキ系の、言わば底ざらえを狙って立ち上げたアンテナ学校、みたいな印象です。とは言え学長以下、旧東教大〜筑波大人脈で固めてるようで、なるほどこれならば文科省にもウケはいいんでしょう。e-ラーニングで「自宅学習」一科目だけでお試ししてください、ということのようで、なんだかSNSまで使うみたいですが、でも、それってひきこもったまま、を助長するだけのような気も……とは言え、一定のニーズはあると踏んでのことでしょうから、すでに専門学校をアンテナ的に使っている私大あたりがそのまま手を出しても不思議のないビジネスモデルです。

 それにしても、ここまで開き直って商売展開されると、昨今一定比率確実にいるようになっているひきこもりorビョーキ系を“お客さん”としてとりこもうとするにせよ、なまじの大学じゃ勝ち目はない。昨今取りざたされる「リメディアル教育」ってのは、実はこういう裾野も含めてかなりとんでもない奥行きをすでにはらんでいます。


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 かつて、校内暴力、家庭内暴力が問題になり始めた時期に、唯一、「私が直す!」と一人称で世間に言い放ったのは、あの戸塚宏でした。

 彼のやったこと(今もスクールはやってますが)の毀誉褒貶とは別に、昨今の学生に蔓延するこれらビョーキのさまを目の当たりにするにつけ、本当に「リメディアル」を考え、「就職」=社会化のための大学を言うなら、実はかつて戸塚宏のやろうとしたことから改めて学ぶ姿勢も必要かも、と本気で思っています。

 「現実」の回復、〈リアル〉の手もとでの再構築、そんなことまで「就職」という出口から逆算して手当てしなければならないようになった「大学」。こういう状況で、本当の意味で、「ビジネス」としての大学を回してゆくタフさ、を、当事者として自分のものにする覚悟をしないと、この先どんな将来像も想定できないでしょう。

 これは、それまでさまざまな勘違い、幻想、思い込みなどで手厚く守られてきた「大学」という空間自体が、今や最終的にそれこそ世間の“フツー”と地続き、質的に全く等価な空間になった、ということに他なりません。だから、巷をゾロゾロ歩いているような手合いも平然と入り込んできて(文科系、とは思えばそういう“フツー”の受け皿でもありました)、しかも「学生」としてのありようもまた、同じくかつての延長線上にうっかり想定されていたりする。「自由」で希望にあふれた「青春」としての大学生活=キャンパスライフ、という幻想。何も暴力沙汰で「荒れる」わけじゃなくても、こりゃもう十分に荒廃一途、これまでのような大学の枠組みで語ろうとするのはどう考えてもムリ、ってもんです。

 なので、いまや文科省ははっきり、われら国民に宣言すべきです。

 もう中身は何でもいい、実態は専門学校でも職業訓練校でも就職予備校でも、ジジババも現役社会人も含めたゆるいカルチュアセンターでも、さらに現実には高卒の学力もなくなっている「ゆとり教育」被害者の再教育および再訓練機関(最近は「特別支援学校」などと呼ぶようです)でさえも、とにかく全部ひっくるめて「大学」と呼ぶ――このことです。

 その上で、いまや「学生」とは世間にあたりまえに存在する“フツー”の人たちであり、そういう意味での「大学」の最も重要、かつありがたいお客さんであり、それ以上でも以下でもない、と。そして、「研究」とは、理科系およびそれに準じる産学複合の成果が具体的に期待できるような分野に限ってのものであり、昨今のこういう状況での「大学」に一律に保証されるようなものではない、ということも。

 あわててビジネス英会話だのボランティアだのの講座を泥縄でこさえて、そこらの英会話学校や「市民」系自主講座以下のラインナップにしちまったり、公務員試験に蝟集する学生のために公務員予備校と提携、ほらほら、うちの大学に来れば何もダブルスクールで別に予備校通わなくてもいいですよ、と言わんばかりのセールストークを臆面もなくぶちかましたり、そこら中で展開されているいまどきの文科系「大学」の「改革」などは、世間そのものの水準にまで大衆化し、平準化した「学生」の側から即座に食いつくされちまうでしょう。同じゼニを出すならもっとお客さんとしてきっちり扱ってくれる装置は世の中いくらでもあるし、またそのことを「学生」自身、この消費社会の現実を生きる中、身体で思い知っている。そんな状況でなお、かつての大学の、それも文科系的な脈絡での「教養」を真正面からだけ、かつてのもの言いで説こうとすることは、何やら文明開化の世になおチョンマゲを切ろうとせず、電線の下を扇をかざして通ったという、かつてのサムライたちにも似たものになっています。

 ただひとつ、それら日々の現場としての大学自体をうんぬんする言説の水準とは少し別のところで、ちょっと気になっているのは、「団塊の世代」に代表される「既得権益」層(と見られている層=漠然といまどきの“オトナたち”)に対する、彼ら彼女らいまどきの学生である若い世代からの低く持続する、何というか、そう、ある種の怨嗟、軽い呪詛といった気分のありかです。

 それらは決して表沙汰にはならないものの、何かのはずみで彼ら彼女らの表情や口吻に、ふとあらわになる瞬間があって、もちろん持続するものでもからみつくような質を持つものでもないのですが、そのように日々のたたずまいの中ではうまく収納されているらしい分、実は相当根深いものになってきていることを逆にうかがわせるものになっているように感じています。

 オレたちに仕事もないのはそういう世代が居座ってるからだ、オレたちが生きづらく感じるのは生まれた時代が悪かったってことなのか、オレたちのこのニッポンから明るい未来を失わせたのは今いるそんなオトナたちだ――こんな方向での世の中の、自分たちを取り囲む現実に対する「理解」が、その当否とは別に、ある確かさと共に急速に若い世代に共有されるようになっているらしい。それは、いまのこのようなニッポンの大学の現在に対して直接の作用があるとは言えないものの、それでも、進学率50%以上に達しているいまどきの学生たちの生身にそのような気分が、たとえ薄く漠然としたものであっても、どこか共有されているのだとしたら、それらが何らかの経路を介して、何らかの経緯の後に、現実の大学のあり方にいずれ何かの影響を与えてゆくだろうことは十分に予測できることだと思います。

 そんな後進、あとを頼むべき世代を同時代に、同胞としてはらんでしまった現在、そのことの意味と手ざわりとを間違いなく計測しながらでないと、少なくとも「教育」の、特に高等教育を介して将来のニッポンの中堅を作ってゆかねばならなくなっている状況での大学のあり方を考えてゆくことはできないはずです。