日高の風景から


 春先から初夏にかけて、梅雨もなくカラッと乾いた大陸性の気候、その分遠くまで焦点のくっきり合ったかのような風景の中、緑の牧草がじゅうたんのように生えそろった放牧場のあちこちに、近く遠くたたずんで草を食んでいる親子連れのサラブレッド……北海道は日高地方、「優駿のふるさと」「名馬の生まれる土地」――そんな惹句と共に刷り込まれたそれらのイメージは、しかし現在、大きく変わりつつあります。
 まず何より、競馬そのものがこれまでと違う様相を呈し始めている。ほとんどの人が「競馬」といった時に想起するはずのJRAの競馬からして、年々売り上げが激減し、特にこの震災をはさんでの凋落はまた一気に奈落の底と言いたいような状態にまでなっています。
 地方競馬はもう言わずもがな、今世紀に入ってからいくつもの競馬場が「廃止」「開催休止」に追い込まれてきている上、何よりもまず、馬を持とうという人自体、もういなくなり始めている。自分で馬を持ち、当事者として競馬を楽しむ糸口がどんどん見えなくなってゆき、肝心の馬主資源からして枯渇し始めているのが、今のニッポン競馬の現実です。

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 実は、いまのニッポン競馬というのは世界に冠たる妙な競馬です。
日常に全くと言っていいほど馬がいなくなった社会で、年間を通じ、純粋にギャンブルとしての性格に特化された競馬がほぼ休みなくこれだけの規模で、しかも「公」が関与する形で行われている――そういうニッポン競馬の仕組みがどのようにできあがってきたのか、それ自体語り出すと長くなるのですが、少なくとも今のこういう競馬になってきた地続きの歴史としては、敗戦後再編された中央競馬会、いまのJRAが中心となって国民的レジャーとして発展させ、市民権を得てきた経緯がまず前提にありました。
 その一方で、馬づくり、馬産というのはしかし、何も日高だけではなく、また北海道だけのものでもなかった。競走馬に限っても青森や岩手、千葉なども少し前まで馬産地として知られていましたし、九州だってアラブ系も含めて競走馬の産地でした。もっと広く、いわゆる軍馬や農耕馬など、かつて日常に確かにそこにいた馬たちまで含めて考えれば、このニッポンのどこにでも馬は養われていました。戦前、馬が国策と密接に結びついていたこと、馬政局という専門の官庁まで設けられていたことなども含めて、いまのわたしたちがきれいさっぱり忘れてしまっている、馬にまつわる「歴史」です。
 日高と馬の結びつきは、明治40年に浦河に誘致された日高種畜牧場に始まります。当時の浦河支庁長、西忠義が国策に沿った馬産振興のためにと国に粘り強くかけあってつくったこの施設が、日高の馬産の基礎になりました。
 馬イコール競走馬、になったのは高度経済成長期以降、農耕馬以下、日常に人と共に働く馬がいなくなってゆく過程と比例していました。同時に、それは日本人の多くにとっての馬が、現実の生き物としてよりもむしろイメージとしての比率の大きな存在に、言わばヴァーチャルなものになってゆく過程でもありました。
 高度経済成長を経て70年代初めの減反政策によって、米づくりができなくなった農家が馬産に移行してゆき、それによって鵡川から門別、三石といった地域にも牧場が増えてゆきました。馬産農家が日高管内だけでも1,500軒程度の規模にまでなってゆくのも、この時期からです。
 前世紀末、90年代の前半から半ばにかけてくらいが、おそらくはそのようなニッポン競馬の最後の輝き、だったのでしょう。それは単に売り上げだけでなく、競馬の質として、大衆化した観巧者のファンのその他おおぜいの視線との相互交感によって支えられる上演として、確実にある高い水準を達成していたと思います。しかしその一方で、ニッポン競馬は、それを楽しむ人たちのほとんどが実際の生きた馬にさわったことのない、社会そのものに馬が存在しなくなった国の、ヴァーチャルなものになっていました。

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 ばんえい競馬 (ここは「輓曳」と敢えて漢字で表記したいですね。明治以来の「馬文化」の歴史と背景をしっかり受け継いでゆく上でも) がしみじみとおもしろいのは、そういう意味で、見ている観客の側に実際に生きた馬とつきあい、日常で使った経験のある人たちがまだ確実に混じっていて、彼ら彼女らの記憶がそこに介在していることです。
 たとえば、「ぼえ〜っ、ぼえ〜っ」と声をあげて走路の脇を一緒に歩いてゆく、そんなお年寄りがたまにまだいたりする。
 「追え」という意味なのはわかりますが、しかし、それをアタマの「ぼ」に強くアクセントを置いて発音し、その分語尾をかるくひきずる、あの発声の気分や、その時の身体のたたずまい、そしておそらくはその身のうちにわきあがっている高揚感……などなど、全部ひっくるめてそこにある“感じ”こそがかけがえのない〈リアル〉。
 馬というのがどういう生き物で、どれだけとんでもない〈チカラ〉を宿した生身であるのか、その体験がまだ記憶として、眼前の生きたひとりの身体の内に宿っている。そんな「場」と共にある競馬は、日本中探してももうほとんどあり得ない。少なくとも、常設の競馬場で公に行われている競馬では。
 あたしが草ばん馬を好きなのも、そういう〈リアル〉に支えられた競馬が、この21世紀のニッポンの片隅にまだ生きて存在している、そのことに関わっています。
 草ばん馬――ばんえい草競馬です。北海道の道内、そして青森など東北地方の一部で初夏から秋口にかけての時期、どこかしらで開催されている。と言って、そこらの観光案内やガイドブックなどには載らない、地元の役所や学校もまず知らない、そんなフシギでステキな競馬。しかし間違いなく、馬と人とが共につくりあげる、そんな競馬の原風景でもあります。自分の家の軒先で養っている馬を、自分で連れ出して競走する。世界標準の競馬というのは、今もおおむねそんなもの、です。
 高橋はるみ知事は、帯広のばんえい競馬を存続させるに際して、北海道の「馬文化」ということを標榜した。なるほど、その心意気やよし、であります。
ならばしかしそこから先、もう一歩進めて、ほんとうにその「文化」という大文字のもの言いに見合った内実を、〈いま・ここ〉の現在につなげてゆく努力をしていただきたい。馬を実際に持って、馬主として当事者として競馬と関わることもまた、そういう「文化」の脈絡でもう一度、きちんと支えられる仕組みを考えていただきたい。それでなくてもうっかりとヴァーチャルな存在になってしまっているらしいニッポンの馬たちに、その実存に見合った手ざわりや質感も含めて立派に回復させてやることからしか、競馬もまた、ほんとうの意味での文化に、あたりまえのものとして日常に埋め込まれてそこにあるかけがえのないもの、に、いつまでも届かないままになってしまいます。