「売国阿韓」の百鬼夜行、その背景



 阿る、という日本語を、やはりここは一発、記憶の昏がりから引っ張り出して使っておかねばならないようです。

 おもねる、と読む。いや、読者諸兄姉には釈迦に説法、いまさら何を賢しらに、とお叱りを受けるのが関の山でしょうが、それほどまでに昨今、このことばは普段、耳にも眼にもしなくなって久しい。だからこそ、です。

 辞書や辞典の類をめくると、「気に入られようとする」「へつらう」といった説明が加えられています。あまり気色のいい日本語じゃない。でも、まさにこの「阿る」としか言いようのないみっともない醜態をさらしているのが、昨今のニッポンの政権であり国家であり、いずれ「権力」とひとくくりにして構わない手合いであります。

 阿る、ってどこに? 決まってますがな、かの半島方面、とりわけ今は南半分のあの国――「韓国」に、です。

 もちろん、これまでもそういう傾向はありました。仮に永田町に限ってみても、ことは今の政権だけのことでもない。半島以外、それこそその向こう側にデンと控えるあの大陸の中共(この呼び方も、こういう状況だからこそ本気で復権させたいものです)ともども、どんな事情かは知りませんが、とにかくひとまとめに尻尾ふりふり、頼まれもしないのにいきなり寝っ転がって腹丸出しで媚びまくりへつらいまくりの情けなさは、どうやら個々の人物の立ち居振る舞いを超えて、政界財界学界マスコミその他全部ひっくるめて、いつの頃からかわれらニッポン人のココロの習い性みたいにまでなっていたらしい。

 けれども、その習い性はここにきてまた一段と加速されているような。民主党だから、売国政権だから、という理解だけでは説明できない、それくらい不気味で底知れないものが感じられます。何か明確な意志や主体の気配がどこかにあるわけでもなく、ただそういう現象だけがのっぺりと連なり日常を覆ってゆく、そんな不気味さ。それはどうやら、単にそういう輩が政権に居座っていることからくる不快さでもなく、もっと根の深いところ、われらの日常に「戦後」の来歴と共にすでに拭いがたく埋め込まれている何ものか、と関わっているがゆえ、らしいのです。
 

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 「阿る」を有名にしたのは、「曲学阿世」というもの言いでした。これまた昨今ほとんど使われない熟語ですが、世に一躍、知られるようになったのは昭和25年、時の宰相吉田茂が東大総長南原繁に対して口にした時でしょうか。

 朝鮮戦争勃発前夜、先の大戦後の東アジア情勢が風雲急を告げる中でのできごと。いわゆる全面講和論かつ永世中立論を展開した当時の「良心的」「進歩的」知識人や文化人たち、それに対する政府は単独講和論で対立、総理大臣吉田茂が全面講和論の大将格として当時の東大総長、南原繁を名指しで「曲学阿世の徒」とやった一件。学を曲げ、世に阿る輩、というわけで、これが当時は流行語にまでなった、と戦後風俗史や世相史の類には記されています。

 「学」を曲げて「世」に阿る――「学」と「世」が未だ対立項として自明のものだったこと、何よりそれがそこまで厳然と揺るぎないものだったことに、改めて遠い想いが。今ならさしずめ「ポピュリズム」で片づけられるようなものだったでしょうが、しかし今のポピュリズムと明らかに違っていただろうことは、それをあげつらう「学」の側と前提とされた「世」の側との関係のあり方でした。
 どういうことか。南原繁に代表されるような当時の「良心的」「進歩的」知識人に対する吉田茂の立ち位置としては、たとえ政治家であっても、自らもまたその「学」の側にあるような責任感や矜恃を共に持っているという前提があったはずです。立場は異なれど、共に何らか「世」に超越する価値に対する忠誠を誓ったはずの南原、おまえさんがこんなことで「世」に阿ってどうするんだ、という叱咤激励の気分もどこかにあったからこそ、あんな名指しでのやりとりも成り立ったのだし、「世」の側のその他大勢もまた、そういう責任ある立場を自覚した選良=エリート同士の丁々発止だったからこそ、自分たちと直接関係ないながらも野次馬気分と共に注視した、それゆえの流行語沙汰だったのでしょう。

 世に阿ること=ポピュリズム、と置き換えられるようなものだとしても、阿る側の輪郭もまた未だくっきりと明確だったようです。少なくとも今よりはずっと。

 対して、昨今の「売国阿韓」には、そのような主体意識は感じられません。あるとすれば、矮小な特権意識と、商売だから野暮なこと言うなよ、といった薄ら笑いが貼り合わせになった卑屈な自意識。何のことはない、ただのコンプラドール= 「買弁」です。正々堂々、わが同胞の未来を思えばここは膝を屈して韓国に阿るのが正義、という論陣を張る御仁もいなければ、いや、申し訳ない、これも身過ぎ世過ぎなもんでひとつお眼こぼしを、といった世の気分を慮る程度の謙虚さもない。だから、どこか不気味で底知れぬ感じがつきまとう。政治であれ哲学であれ、思想的に何か阿りととれるような態度をとる必要がある、という判断の上ではなく、ありていに言ってゼニカネの流れ、商売上の事情というやつが優先的に作用しているらしい情けなさ。そう、最近話題の「韓流ドラマ」騒動の味気なさも、まずそこにあります。

 何らかの確信的な思想があるのでもない。たとえ勘違いでも妄想でも、かの国に対するエモーションが介在しているなら百歩譲ってまだ理解できる。そうじゃない、ただの商売の都合、ゼニカネの損得以上の理由があるわけでもないらしい案件で、ここまで阿諛追従が平然とできる、そのことが情けないのであります。フジテレビに限らず、メディア界隈での「売国阿韓」はおおむねそういう理屈で進行しています、少なくとも表面上は。

 ならば、政界官界はどうでしょう。やはり何かの商売、実利が関わっているのでしょうか。巷間ささやかれているような「工作」や「キックバック」も含めたゼニカネの動きがそれらを規定しているのでしょうか。もし仮にそうだとしても、「アジア共同体」構想といった妄想を開いた瞳孔で今なおばらまき続ける昔ながらの手合いはともかく、若い世代の一見冷静そうな顔つきとひとまず理知的な語り口で、しかしそれらによって繰り出される判断はこれまでより一段と症状の進んだ「売国阿韓」ぶり、という尋常ならざる落差は、さて、どう考えたらいいのか。さらに法曹界や財界、教育界は、広く公務員一般の現実認識は……このように考えてくると、ことはどうやら民主党に限らず、また単に一部のマスコミや政治家、官僚だけの問題でもない。韓国や北朝鮮、半島両国からかのシナ中共まで含めて、それらの国々の所行あれこれから、その国籍を有する者たちの立ち居振る舞いに至るまで、積極的に違和感や否定を表明しにくいのみならず、さらに一歩進んで自ら腹を出して寝っ転がるそこらの犬猫以下の自虐、阿諛追従ぶりがいつしか蔓延するようになりました。「戦後」というひとつの閉じた、しかしそれなりに安定したある全体の内側で、できるだけ抵抗なく世渡りしてゆくための「文化」として、それら自虐、媚韓媚中の身だしなみは便利に手軽に流通してゆきました。今のこの「売国阿韓」にしても、それらの水脈のなれの果ての現実です。

 南原繁は、たとえ夢であり妄想であっても、全面講和と「永世中立」を当時、自らの思想として、正義だと信じて一人称で語ろうとしていたのは確かでしょう。その限りで時の首相とも対等に対峙する気概を持っていた、そのことは「敵ながらあっぱれ」と言ってもいい。けれども、昨今の「売国阿韓」にそのような武者ぶり、一人称でおのが思想として、正義と信じてタフに語る者はまず見かけない。この違いは、何でもないようで、しかし実は相当に根の深い問題です。


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 思えば、「戦後」の言語空間で「韓国」は異物であり続けてきました。

 朝鮮ではない、「韓国」です。朝鮮といきなり抽象化してしまうと、それは北朝鮮という国に、あるいは民族としての名称に、いずれ漠然としたものになってしまう。「韓国」という、われらが「戦後」とからんで存立してきた国家との関係という意味で、半島だ朝鮮だ、と口にする前に、ここはまずは立ち止まって「韓国」として考えねばならない。

 とは言え、同じ「戦後」の言語空間で、かの半島自体が主要なテーマになっていたわけではありません。少なくとも高度経済成長が一段落つく70年代半ばくらいまでは。

 あれだけ時代を席巻したと言われる冷戦構造下の「左翼」思想の隆盛まっただ中の状況でさえ、朝鮮半島の問題は正面から真っ先に取り上げられるトピックではありませんでした。当時、取り沙汰されるのはまずソ連であり、次に中共でした。朝鮮戦争は経験していても、東アジア自体が政治的にはアメリカ中心の制御下にあった以上、日本に口出しできる余地はなかったでしょう。実際、日韓の「国交正常化」が浮上してくるのも、アメリカがベトナム戦争に首を突っ込み始めて東アジア情勢が変わってきてからのこと。主体的に半島を政治的に考えることは、日本もまたある時期まで禁じられていたと言っていいでしょう。

 ですから、日韓基本条約締結をめぐる闘争も、戦後左翼史でも中心には据えられず、まず脇役扱い。まして、個々の「朝鮮」「朝鮮人」(在日含む)体験の断片的、挿話的記述などは別にして、それらの背後に程度の差はあれ介在していたはずの「韓国」という国家自体に意識の焦点がことさら合ってゆくようなことは、思想的にも政治的にも希薄だった。その程度に韓国は、軍事独裁政権下では北朝鮮と同じくらい、いや、当時の情報環境ではもしかしたら北朝鮮以上に「得体の知れない閉じられた国」だったかも知れません。

 朝鮮半島が一般的な国民レベルで改めて意識されるようになり、問題化してゆくのは、国内の在日朝鮮人子弟が学齢に達した頃、いわゆる二世たちが社会的に一定の存在感を示すようになってからでしょう。

 「豊かさ」の内側でそれまでと違う意味を担い始めた彼ら在日二世たちが、主として芸能やスポーツといった領域を介してわれわれの意識にのぼるようになってきた。たとえば、歌謡曲を論じる中で「演歌」(このもの言い自体、70年代に入ってから一般化してゆくのですが) に着目する動きが出て、半島との関わりをことさら取り上げるような流れになってくる。また、プロ野球やプロレスなどが普及してゆくに連れ、それらの選手たちの出自にもまたことさら光が当たるようになる。文学にしても金芝河が紹介されると共に、国内の在日作家たちの仕事にもそれまでと異なる注目がされるようになってゆく。それらの動きはもちろん、政治的には韓国の軍事独裁が崩れ、ひとまず民主化が始まったことと関係していました。半島一般でも朝鮮でも朝鮮人でもなく、国家としての「韓国」が突出してくるのはこの過程です。

 60年代の韓国は軍事政権下でしたし、国内左翼(この時点ではカタカナ表記はふさわしくない)の認識としては、日韓条約を推進する与党自民党政権と癒着する政府、といったもので、それゆえ当時の韓国国内の学生を中心とした民主化運動の側に立つのがほぼ自明の正義でした。国家としての韓国とは、当時の与党自民党と同じく「悪」であり、また、概ねその程度の認識で構わないようなものだった。同じく、それら軍事政権に対抗する北朝鮮という国家もまた、韓国民衆と同じく正義の側にありましたし、それらは国内の抵抗勢力である自分たちの側にも、というのが、まずは「良心的」「進歩的」分子の認識の最大公約数でした。

 その過程で、しかし「朝鮮人」もまた、記憶から消去されてゆきました、良くも悪くも。敗戦後の混乱期を暴れまわり、闇市を取り仕切った「三国人」という表象もまた、伝承されないまま消失してゆきました。かくて、残念なことに。わがニッポン人の国民共通の体験としての「三国人」「朝鮮人」は絶滅寸前、今やほぼ消え去りつつあります。

 戦争の記憶は風化させてはならない、と陶酔した眼つき顔つきでのたまう御仁がいます。よろしい、その心意気やよし。全身全霊、本気でそう言う覚悟があるのならば上等です、あなたたちの好んで云々する被爆や空襲、引き揚げや虐殺などの体験などと全く等価に、平等に、彼ら「朝鮮人」「三国人」にまつわる記憶もまた戦争と戦後にまつわるかけがえのないわれら同胞の歴史として記憶されてゆくべきでしょう。理由はともあれ、戦後のある時期彼らがどれだけ横暴を極めたか、そのような生の表現自体がわれら同胞の意識にどのような刷り込みを行っていったのか、そしてそれらがどのようにその後の「豊かさ」の過程で抑圧されていったのか、それらもすでに「歴史」の過程として自省されるべき時期にきています。


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 この場で確認しておくべきことはまず三点。まず、高度経済成長の「豊かさ」が半島を、最低限「韓国」を先行して意識させるようになったこと。その「韓国」とは当面「在日」を媒介にしてのものであり、日常の生活意識の水準ではまず芸能、スポーツといった領域を介してのものだったこと。そして、それらのフィルターの向こう側に、ようやくその内実が情報としても伝わり始めた韓国という国家がぼんやりと姿を現し始めたらしいこと、この三つです。

 今の民主党政権の中枢にいる世代にとっての「韓国」とは、そのような「豊かさ」の中でようやく浮上してきて以降のイメージが前提になっています。その程度に認識の土台がそれまでとは異なっていて、かつて大日本帝国時代のわれら同胞が国民的規模で体験してきた「朝鮮」「朝鮮人」の記憶とはすでにあらかじめ切り離されたところで醸成されたものです。

 それは主として高度成長以降、「豊かさ」の中で文学やスポーツや芸能の領域を媒介に浮上してきた「在日」経由の表象をベースに、同じ「豊かさ」の懐でみるみる身体性を喪失していったニッポンの日常生活感覚において仮構されてきたものです。それ以上でも以下でもない。現実の「韓国」という国家がどのような歴史の過程をくぐり、どのような葛藤を内部にはらみながら、前世紀末からの東アジア情勢をのたうちまわってきたのかについて、彼ら自身の情報収集作業と身体感覚を介して構築された「韓国」像ではない。つくりもの、ないしは自分たちにとって都合の良い韓国なのです。

 だからこそ、彼らは「現場」に、自分の実感にことある毎に逃避しようとします。市民団体やNPONGO系の「運動」の現場にうっかり蝟集してゆく意識はもとより、自ら生身の〈リアル〉を喪失してゆくことへの不安から過剰に、平衡を失した形で「体験」や「実感」を無条件に称揚することは、慰安婦の「証言」を考えなしに受け入れることや、南京事件の言説を無批判に是認することなどに典型的な病理です。今やそれが、個の水準の身の丈の言説に対してだけでなく、眼前の国家としての「韓国」に対してまで拡大して適用されるようになりました。それがどのようなものであれ、「韓国」という“しるし”さえついていれば即座に判断停止、主体的な認識も判断も思考もないまま、あらかじめ刷り込まれてあるプログラムが作動して半ば自動的に「処理」だけが淡々と進められてゆく――こんな流れで昨今の「売国阿韓」が、さまざまな現場で穏やかに進行していると考えるのが、少なくとも最もしっくりくる説明、解釈なのではないでしょうか。


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 かくて、問題の根は明らかです。

 いま、民主党が韓国にここまで阿るのは、「戦後」の過程で当時の与党、自民党とその周辺が当時の韓国と関係を深めていった過程とは、歴史的、政治的経緯としては連続していても、背景も文脈も別なものになっています。現れは一見共通しているようでも、その「売国阿韓」のココロの中身は異なっている。その双方をバランス良く見通すことをしようとしないと、昨今のこの何でもかんでも「売国阿韓」の百鬼夜行の本質はうまくあぶり出せないでしょう。少なくとも、歴史的、政治的な過程とは別に、このいまの民主党政権に集約して宿っているかのように見える「売国阿韓」のココロのあり方は、それ自体、別途独立して考えてみる態度が、たとえ方法的にでも不可欠だと信じます。

 それは、すでに「戦後」というひとつの安定したシステムがグズグズに煮崩れていること、だからこそかつては同じ阿諛追従であれ何らかの意味づけや解釈も成り立ち得たものが、今やそのような背景も文脈もなくなったところで、ただ空虚な身振りだけうごめいている、そんな事態です。司令塔はすでにない。中心もない。上意下達の透明性もなければ、組織として公認された意思決定の過程もない。いや、形だけはあっても、そこに主体的に関わり責任を負う身体を伴う自意識の形跡からしてほとんどなくなっている。ある種の宗教、ないしはカルトに等しく、全体として判断停止のまま組織だけがうごめいてゆく前提が見事に準備されている現在。一見、阿りに見えてもそのような自覚はなく、漠然と正しいことを行っているという意識だけが漂っている。と言って、その「正しいこと」についての検証や自省の回路は存在しないという不気味さ、底知れなさ。そんな煮崩れかかった現場で何かを動かしてゆくような具体性を伴うエンジンとなり得るのは、民間ならばまずはゼニカネの流れ、それ以外なら……あとは言わぬが花、でしょう。

 そのような現場を原体験として、政治の場に向かっていった経歴を持つ者が中核にいる政党が、他でもない今の民主党であることを思い起こしてください。「庶民」「国民」「選挙民」「有権者」……言い方は変われど、彼らの内側に立ち上がるイメージは基本的に共通しています。人間の生の多様性 (ああ、彼らの好きなもの言いです) 、猥雑さや邪悪さ、卑怯未練なども全部含めて何でもありの根源的な強靱さについての、豊かな想像力の欠けた硬直とやりきれないほどの均質性。それは本質的にヴァーチャルであり、〈リアル〉からのフリクションがかからないがゆえに、いとも容易に他国の民衆からどこにもいない「地球市民」にまで肥大、横転してゆくようなものでもあります。その意味では効率的であり、融通無碍であり、時に有能と錯覚させる瞬間すらないでもない。けれども、本質的にそれは信用の置けぬものであり、責任や義務などとも初手から無縁の外道でしかありません。

 かくて、いまやわがニッポンに宿っている「公」とは、そのような意味で本質的にヴァーチャルで自分自身が足つけて生きる現実を見失ったところで、その分漠然かつとりとめなく肥大しているようなものになっています。それら主体なき「公」意識は、いつでも機会さえあれば臨界を超えてメルトダウンし始め、日々生きるわれらの身の丈の現実の境界を知らず浸食してゆきます。

 このような眼前で進行している「売国阿韓」に歯止めをかける方策として、たとえば国民的規模で体験されていた「朝鮮人」の記憶も、全く等価に復権してゆくことを提唱しましょう。差別だ、偏見だ、といったありがちな先回りはひとまず封印して、どのような〈リアル〉がそれらの体験談、断片記録にはらまれていたのか、〈いま・ここ〉から虚心坦懐に、つぶさに省みようとすることが必要です。そのような自省をくぐり抜けた上に初めて、この「売国阿韓」の醜態もいくらかでも平衡を保ったものに修正され得るはずです。