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暖簾に腕押し、糠に釘、どう言葉を尽くしたところでまず絶対に蛙のツラに小便。そんな物件相手に四つに組むことほど、心萎えるものはありません。お題に頂戴した雁屋哲などまさにその代表。これまでも各方面からさんざっぱら槍玉にあげられてはきてますが、ご本尊は何ひとつ変わりなく平常運転なまま。ある意味盤石な恥知らずっぷり、は、もはやあっぱれですらあります。
もの言い稼業としての雁屋哲と言えばオーストラリア、つまり「海外在住」がまずは看板。自分が今現在日本でなく「外国」にいる、という認識と自覚のもとに何かもの申す、なのが芸風であり売りでもある。もちろん日本語で、ということは、日本人が標準である環境に対して、です。
前世紀末このかたのweb環境の充実によってもたらされた恩恵数あれど、実は意外に見過ごされているというか、少なくとも正面から意識されてないのが、これら「海外在住」な方々の発言やもの言いが容易に日本語環境に還流するようになったということ、これです。優劣問わず留学生や在外研究者、海外赴任の各種勤め人から外務省以下公館関係者およびその家族子弟、果ては自分探しなバックパッカーの居残り左平次連に至るまで、老若男女を問わずそれら「海外在住」な方々のさまざまな日常の感想、異文化接触の断片から大文字な悲憤慷慨に至るまで、web環境のあちこちでいとも容易に眼に触れるようになっています。雁屋哲の厚顔無恥ぶりとその野放しにされっぷりには、ご本尊の資質や性格もさることながら、読み手とのその前提に情報環境のこういう変貌も背景に含まれています。
実際、webの日本語環境で「雁屋哲」めいたもの言いはそう珍しくありません。もの言いの中身がどのようなものであれ、いずれ「日本」を遠くに見ている自分の立ち位置がまずあって、そこから発する「日本」への違和感不信感が前提。なのに自分だけはその「日本」のことを真剣に思って心配している、そんな屈折したある種の信心深さ、「善意」だけは共通しています。
ゆえに雁屋哲とはそのような個人である以上に、それら昨今の「海外在住」邦人のある部分に色濃く共有されているらしい屈折した「善意」のある濃縮された典型、です。彼ら彼女らはどうしてそのように「日本」への違和感不信感をこじらせるようになったのか、その背景をざっと洗ってみましょう。それらの典型として、雁屋哲は未だあのようにメディアの舞台にあっぱれ存在している、と思うからです。
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昭和16年生まれ。北京生まれだそうですから、五木寛之や山田洋次、赤塚不二夫などと同じ「引揚げ」組という理解になりがちですが、敗戦時4歳ですから意味は違う。新制高校から大学へ、という学歴をくぐった立派な「戦後」派第一世代です。旧制府立八中小山台高校から東大へ。量子力学を専攻したのに卒業後はなぜか電通へ。高度経済成長のとば口+テレビ草創期でもあった情報環境激変期の広告代理店体験の後、マンガ原作者として74年に独立、以後現在に至る、というご経歴の由。代表作は『美味しんぼ』ということに今ではなってますが、マンガ読み的には『男組』以下の劇画系青年誌掲載作品の原作者としての名前の方が未だにしっくりきます。電通在職時からマンガ原作者としての仕事をしていたそうですから、変わり種ではあったのでしょう。
「戦後」派第一世代の高学歴(理科系)選良+電通勤務、という基本素材に、上げ潮のマンガ業界への関心が釉薬になり、当時の通俗「左翼」的共通感覚&世代性の窯にて見事に窯変、というのがアウトラインでしょうか。
彼と同い年の、マンガ家でもあった真崎守の「ゴールアウト」という小品に、当時の広告代理店勤務とおぼしき男が出てきます。長髪、髭にサングラス、ヒッピーめいたラフなシャツにノーネクタイ。同じ業界の仕事仲間の、こちらはスクエアなスーツ姿の男と喫茶店で雑談しながら、次の企画のアイディアを互いに出し合う場面でのやりとり。
「タテマエが引き上げていったあとは次のタテマエが必要になる」
「ホンネをクリアーにすればいい」
「67年のフラワーサマー以降の具体的なチェックと日常化が始まる」
「デパートで売り上げが増えていくのは切手コイン貴金属などの投資物件だ」
「コーラは牛乳と同じ配達方式の家庭販売を真剣に検討してくる」
「家電特にオーディオの成長率は前年度の50%増を狙ってくる」
「インスタント食品は限界製品になりつつあり生活防衛食が台頭する」
「ユーザーのスタイルじゃない自分の中から出てくるフリースタイルだ」
発表は74年5月『ビッグコミック』。奇しくも雁屋が電通を辞めたという年と同じ。今の雁屋が典型でしかないように、この男もまた当時の雁屋であったとして不思議はありません。
「大衆化」の現実への違和感。それは「大衆社会」という枠組みが浮上してきた敗戦後、昭和20年代後半あたりからずっと、「戦後」の言語空間の中で自己形成してきたニッポンの知識人の自意識の最大公約数に必然的にとりついてきました。高度経済成長の「豊かさ」がそれをさらに変質させつつ加速した。そんな現実にはらまれるさまざまな現象を「衆愚」の方向に見下して憂うのか、それとも違和感を違和感のまま抱えつつ、それら「大衆化」「通俗」の現実とつきあわざるを得ないそれぞれの現場で引き受けてゆくのか。方向は違えど、いずれその葛藤の果てにしか「日本」の現在もまた浮かび上がってはこない。
なのに、それらを一気に放り出すことも選択肢として浮かび上がる。「海外」へ飛び出すこと、の欲望はこのような中で生まれてきました。後にピースボートなどに最も堕落した形で回収されてゆくこれらの動きは、しかし一方で、実際に海外に生活の場を移すことを可能にする一群の人々をも生みました。
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88年から、オーストラリアはシドニーに「移住」。このように海外に生活の場を移してしまうことができた、そしてそれを前提にもの申す文化人、知識人系人士というのは、少なくとも高度成長以降に関してはある臭みがついてまわります。大橋巨泉のように、そしてこの雁屋哲のように。
時ならぬ「豊かさ」に後押しされた「大衆化」と「通俗」の「日本」。それを遠く離れた「外国」に身を置いてあれこれ論評、取り沙汰する。高度成長期、メディアの自意識が急速に肥大拡大してゆく時期に、自らもまた仕事の場の真っ只中でそれらの現実を「操作」し「制御」してきたと錯覚できるような経験に裏打ちされていればなおのこと。同じ眼前の「日本」に対してさえも、他の同胞とはまた異質な距離感、違和感をはらむようになるもののようです。
実際、マンガ原作者としての雁屋哲は、そのままならばおそらくとっくに時代遅れになっていたでしょう。『美味しんぼ』で若い描き手と組むことで新たな方向性を見い出せたのは、彼個人の世渡りとしても幸運だったと言えます。
その「幸運」には、典型としての彼個人の「日本」の現実への違和感不信感を改めてメディアの商品に盛りつけなおし、若い世代に水増しして提供してゆく役回りが「通俗」の身幅で受容されるようになっていたことも含まれています。それまでならおそらく夢想でしかなっただろう「海外移住」を、彼が現実に実行できるようになるのも、そのような80年代の情報環境が介在してのこと、だったと言えます。
「戦後」派第一世代、であることは「個」の「自由」、組織や機構と常に対峙する「正義」が優位におかれていることにも反映されています。それは彼の稼業であるマンガ原作者の“おはなし”の手癖としても有効でしたでしょうし、後には彼自身それを素直に表出することでも仕事につながってゆくようになりました。彼が個人である以上に典型でもある、というのはこういう過程においてです。思想的に何か評価すべきものが彼個人に宿っているわけではない。改めて言うまでもない。ただし、彼がおそらくは「善意」とそこに根ざした「正義感」とで表明してきた時局や世相に対するスタンスは、かなり見事なまでに「通俗」の形象化として評価できるものです。言わば、民話の語り部みたいなもの。
問題は、そのような「民話」としてのあるもの言いが、web環境の浸透を介した21世紀の情報環境においても、いや、だからこそ、より広汎に受容される前提が「海外在住」経由の日本語環境で繁殖し続けていること、なんだと思います。
『これで、私は確信した、日本には事実を知りたくない、あるいは知らせたくない人が大勢いると言うことを。
日本に言論の自由があると言うのは飛んでもない間違いだと今度のことで痛感した。
自分たちの意見に反する意見、例えば、私の記事などにたいする反発は凄い物だと思った。
事実を絶対に人々に知らせるな。その、凄まじい圧力に、私のページは動かせなくなったのです。その圧力に負けたくないが、実際にページが動かない。
日本は,飛んでもない国になって行くのでしょうか。』
昨年3月16日、彼が自身のブログに書き込んだ「中断」宣言。(その後7月からタイトルを変えて復活してますが) 震災直後の彼の発言に対して抗議が殺到してのこと、だったようですが、さて、ここでのもの言い、昨今の「反原発」「脱原発」界隈に限らず、web環境含めた「運動」の場にまるでコピー&ペーストしたように降臨している自意識のありようの最大公約数、に見えないでしょうか。 「通俗」「大衆化」と「戦後」の自意識の関係を考える上でも、恥知らずとかそういう個人に対する評言を超えて、雁屋哲というのは現象としてかように興味深い事例になっています。