書評・横田増生『評伝ナンシー関』(別バージョン@改稿後)

 

 

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 いきなり、「あ、仲良しっすか」と言われた。仲間と共に打ち合わせに赴いた、その時だった。初対面だったかどうか、定かでない。ただ、その「仲良し」とサクッとことばにした感覚は、されたこちら側の「やられたッ」感と共に、彼女の本質を反映したものだったんだな、と思う。

 早世して10年。週刊誌以下、雑誌メディアを主な舞台に一時期、各誌紙を席巻したあの「消しゴム版画」のコラムニスト、ナンシー関の評伝、である。

 余人を持って代え難い存在だった。今なおそうだ。誰も彼女のポジションを埋められていない。埋められるはずのないその理由もまた、読んでゆくうちに見えてくる。

 「場」のありようにビシッと合焦する感覚、それこそが彼女の本質だった。その場に関わる生身の人間たちの微妙な感情や思惑、意図や策略などの交錯と、それらもひっくるめてうっかりあらわになってしまうテレビというメディアの器量を十分理解した上で、自身も含めた〈その他おおぜい〉なこちら側の視線に宿る何ものか、をサクッと示して見せる、そんな「芸」をあの消しゴム版画と文章のコラボレーションで、彼女はずっと一貫して演じてくれていた。

 その「芸」がどんな生身に宿っていったのか。青森のガラス屋の娘がメディア周辺の華やかさにあこがれ東京に出てきて、どのような偶然、どのような出会いを介して「自立」してゆけたのか、かつて彼女とつきあった関係者たちの語る当時の挿話はどれも味わい深く、心にしみる。著者自身が一人称で素材を解釈せず読み手に委ねようとした、その一歩引いた態度のこれは功績だろう。

 彼女の生身に最も良質な形で宿った、テレビが茶の間と共にあり得た「昭和」で「戦後」な情報環境に育った感覚は、しかし今後、確実に後退してゆくだろう。時代の変遷とは常にそんなものだ。しかしだからこそ、メディアコンテンツと〈リアル〉の関係を「歴史」の相において読み解いてゆこうとする際、この一冊もまた、ゆっくりと民俗資料へと熟成されてゆくはずだ。

*1:字数等の関係で改稿後がこちら