ホッカイドウ的「ゆるさ」の空気感

 勤め先の大学は、札幌ドームの近く。なので、地下鉄東豊線福住駅からの人通りを横目に眺めて、あ、今日はドームで何かあるんだな、と察する次第。その混雑で駅から大学までのバスも多少遅れたりするわけで、学生たちもまたそういう「読み」を普通にしています。今日あるのは日本ハムファイターズの試合なのか、サッカーその他野球以外のスポーツなのか、それとも何かのコンサートやライブなのか、はたまたそれ以外の催し物なのか、歩道を行く人通りの数や流れ方、その人たちの年齢構成や性別、身なりや服装などまで勘案しながら、およその見当をつけるのがいつしか習い性になっています。

 そんな中でも、やはりファイターズの試合だけは格段にわかりやすい。いや、何も道行く多くの人がレプリカのユニフォームを着てたり各種グッズを手に携えてたりするからといったミもフタもない理由からだけじゃなく、明らかに独特の雰囲気があるんですよね。  

 まず、女性の比率が高い。それは一見してわかるんですが、それだけでなく何というか、その人通りの雰囲気自体をも規定している何かゆるい人の良さ、おだやかな空気感みたいなものが共に感じられる。これがそれ以外の、たとえばコンサドーレ札幌の試合に行く人たちや、それこそ嵐だの何だのの人気タレントやバンドのライブを見に行くお客さんたちなどの醸し出す雰囲気とはまた別の、当「ホッカイドウ学」的視線&感覚にとってはにわかには見過ごせない何ものか、になってたりします。ファイターズ人気を支えているのが女性ファンであることは、各種調査などデータや数字で裏付けられていますし、何をいまさら、でしょうけれども、でもだからと言って、この独特の雰囲気は単にそのような女性ファン由来というだけでもなさそうな。はて、これっていったい何なんだろう。


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 野球ファン一般として見ても、ファイターズのお客さんはもしかしたら勝ち負けに淡泊なのかなあ、と感じることがあります。

 たとえば、ドームに試合を見に行く時だけでなく、むしろ帰り道、デーゲームならば夕方、ナイターならば夜の9時台から10時前後、来た時と同じ福住駅への道をドームの方から戻ってくる人たちの表情やたたずまいを眺めていると、その人たちの様子や交わされている会話を耳にするだけじゃ、その日ファイターズが勝ったのか負けたのか、ちょっと判断しにくかったりする。

 あたしは生まれこそ東京でしたが、すぐに親の仕事の関係で関西に引っ越したもので育ったのは阪神間、高校を出るまでずっとそこでしたから、野球と言えば阪神タイガースが至高にして絶対の存在、という空気の中で大きくなりました。しかも地元甲子園球場のある町に棲んでたもので、阪神タイガースの勝ち負けは子どもにとってさえも、いやだからこそ、ヘタに怒鳴られたりしないようまわりの大人と平和で友好的な関係を保ち、大げさに言えば身の安全、心の平安を維持しておくための重要な情報になっていました。

 野球人気がかつてほどでなくなって久しい今日ですら、阪神電車に乗ればその日タイガースが勝ったか負けたかすぐわかる、と言われます。それくらい、地元チームの勝ち負けが世間の人々、とりたてて熱狂的な野球ファンでなくとも、そこらの何でもない大人たちの表情たたずまいにまで露骨に影響を与えるのが当たり前な環境で育ってきたんですが、そういう身からすると、この札幌ドームのファイターズ戦帰りのファンの、見ただけでは地元チームの勝ち負けが判別できないたたずまいは、当初かなり新鮮でした。

 もちろん、勝負ごとですからその場では全力で応援するし、負けたら悔しい思いも普通にする。何より、調査によっては、試合の勝負にこだわる度合いは男性よりむしろ女性ファンの方が高い数字が出ていたりもしますし、例の震度3になると言われた稲葉ジャンプにしても、その他今や全国区で知られるようになった女性中心なファイターズファンの応援形態にしても、その場の「熱さ」で決して他球場にひけを取るものではありません。

 けれども、試合に勝っても負けても、稲葉なら稲葉の話題で盛り上がりながら帰る、たとえその日の彼がたまたま調子が悪かったとしても、眼の前で自分は稲葉を見た、応援した、そのことの経験がひとまず至上のものであり記憶として残ってゆく、そういう決して殺伐とはならないゆるい雰囲気はこの札幌ドームのファイターズファン独特のものかも知れません。具体的に比較したことはありませんが、チャンスで打てなかった、大事な試合に勝てなかったからといって、選手を口汚く罵ったり、大声でヤジを飛ばしたりといったことも、他の球場、他のチームのファンに比べてかなり少ないんじゃないでしょうか。

 この雰囲気、よく言えば友好的でマイルド、市民的に成熟しているとも見えますが、悪く言えば勝負に淡泊、何とか頑張って状況を変えてゆく意志や粘り強さ、しつこさに乏しい、といった見方もできる。たとえば高校野球で少し前、話題をさらった駒大苫小牧、かの田中マーくんを擁して全国区での大活躍をしていた頃でも、北海道あげて地元の代表、あれだけ熱狂的に応援しながら、それ以降パッとしなくなってもそれはそれ、「あの時はよかったなあ」「思えば、あれが華だったなあ」と記憶の中で慈しむ回路に収束させてしまい、その「華」だった「あの時」を何とかもう一度、とか、その「いい頃」の栄光をどうやって維持してゆくか、根をつめて考え抜き工夫するといった方向にあまり向かわない、そんな印象もあります。殺伐としない、煮詰まらない、でも同時にどこか淡泊でこだわらず、何が起こっても、しゃあないべさ、と苦笑いですませ流してしまう、そんな気質がわかりやすく露頭しているのかも知れません。


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 それでも、いやだからこそ、なのかも知れない、ああ、やっぱり北海道ってすごいな、と唸らされるのは、春先から夏場過ぎにかけてそれぞれの地元、道内各地の町や村で各種お祭りや共進会系のイベントが必ず開催されていて、しかもどこもそれなりの吸引力を「地元」中心に持っていることです。これ、地元の方はもとより道民一般のレベルでも案外自覚されていないようですが、全国的に見てもこういうイベントのこういう安定感を伴った連続開催っぷりはいまどき特筆に値する。昨今のこと、どのイベントも大義名分として観光客誘致や町おことなどを掲げてあるものの、いざ行ってみると最も盛り上がって楽しんでいるのは多くの場合地元の人がた。よそからわざわざお客さんがやってくるなどということはあらかじめ考えていないかのような、ステキなゆるさすら珍しくない。これは、それぞれの「地元」に生きる人たちの生身も含めた意識のありようが、北海道以外の日本の多くの地域からはすでに最終的に失われつつあるようなシンプルさ、太書きマジックで描いたような輪郭を保っているということかも知れません。

 そう言えばこの夏、札幌では何十年ぶりかで木下大サーカスが興行を打っていました。芸能好きで、生きものがらみのこういう仕事にも眼がない手前、学生を連れて何度か観に行ったのですが、とにかく素晴らしい人気ぶりで、当日券など開場2時間前から並ばないととれない日もありました。実は昨年の暮れ、木下サーカスの本拠地に近い姫路でたまたま観たこともあったのですが、季節の違いや土地柄の違いもあるとは言え、同じ場内観客席の雰囲気はもっとさびれたうら寂しい印象だったのに、ここ札幌では場内の雰囲気もまた昨今、他の地方じゃおそらくもうあまり感じられなくなった人の良さ、フレンドリーなゆるさが横溢。夏休みのことで子ども連れの家族ぐるみ、中にはお年寄りがお孫さんを連れたりといったお客さんの多い中、ひとつひとつの演しものに対する反応がとにかく濃厚なことも発見でした。そうか、これってドームのあのファイターズファンにも通じる空気感なんだな、と。

 いずれにせよこれは、「地元」に根ざした意識が、日本国内の他の地方に比べて未だ濃厚なんだろう、と、ひとまず思っています。高度経済成長以降、「豊かさ」まかせに全国日本じゅうでそのような「地元」「地域」に根ざした意識は、否応なくまるごとヴァーチャルな水準にもってゆかれました。町おこしや地域おこしの類が一時期から声高に言われるようになったのも、経済面その他の具体的要求と共に、大きく言えばそのような「地元」意識のヴァーチャル化の進行に対する危機感から、というところもあります。もちろん、そのような大きな流れは北海道とて人ごとならず巻き込まれているのですが、それでも個々の現場、「地元」の間尺で起こっているできごとにつぶさに接してみると、やはり他の地方にはない素朴さ、生身も含めたゆるさがはっきり露わになるようです、良くも悪くも。

 「地元」に根ざし、「場」に即してそのように躍動する生身が未だ健在であるらしいことは、しかし、それを未来に向けて継続的に維持してゆき、さらに大きな関係、広い視野で活かしてゆくような方向になかなか向かわないことと、もしかしたら裏表かも知れません。とにかく北海道が大好き、という、表面には見えにくくても実は道民の間に根強い北海道ナショナリズムとでも言うような愛郷心、郷土愛のありようも含めて、この大地に生きてきた生身の感覚、宿ってきた意識について自ら省みて発見してゆくこともまた、ホッカイドウ学の重要な目的のひとつです。