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大学で簡単な「しらべもの」をよくさせています。先日も、銭湯について、なんてお題をちょっと出したら、学生たちが眼についたweb情報中心に手早くまとめて持ってきたので、それを素材にやりとりをしていると、なにげにこんな質問が。
「銭湯って昔のお風呂屋さんのことですか。それとも最近よくあるスーパー銭湯のことですか。それとも、岩盤浴やサウナなどもある健康ランドみたいなところも含めてのことでしょうか。」
なるほど、同じ「銭湯」でも、その中身は今やいくつか種類がある。そう思って改めて尋ねてみたら、いわゆる銭湯、内地だとマチなかにあるような古典的店構えで中にはペンキ絵などもまだ残ってて、てな具合の今やほぼ絶滅品種、昨今だと「廃墟マニア」系の若い衆にデジカメ片手に巡礼されたりするような昔ながらの銭湯に通った経験のある子は、意外に多かった。市街地住まいでも内風呂のない家が最近まで普通にあったということなのでしょう。かつて高度成長期に「ほくさんバスオール」という全国区のヒット商品を生み出したような、風呂へのホッカイドウ的こだわりは未だ健在のようです。
近場の温泉、札幌ならば定山渓などへ日帰りで家族で出かける、そんな習慣も広く浸透しています。さらに、温泉場のホテルや旅館の日帰り入浴的なものだけでなく、もう少しマイナーな、昨今市町村いずれのレベルでも申し合わせたように作られているスーパー銭湯的な温泉施設が結構便利に使われているらしい。札幌圏以外の、道内の普通の地域で生まれ育った子たちの日常感覚としては、それら施設の「広い風呂」にたまに家族で行くことが小さい頃からひとつの家庭行事として組み込まれているようです。
町民センター、健康センター、保養センター、老人センター……名称はいろいろですし、経営主体も市町村から共済組合、簡保事業団など多種多様ですが、ざっと調べてみただけでもびっくりするくらいたくさん、あちこちにできている。しかも、それらの多くは観光客誘致のためとは思えない。どう見ても地元のお年寄り以下、地元の地域住民が安く利用できるように、というのが第一義らしい。実際、昼間から農作業でもひと仕事終えた地元の人がたがのんびり湯槽に浸かり、ロビーでは思い思いに寝そべったり、マッサージ椅子に身を任せたりでくつろいでいる、こんな光景は道内どこに行っても昨今、ごく普通に見られるようになっています。
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これら公共施設系というのか、いずれ民間企業が商売でこさえたものじゃない温泉・入浴施設は、ざっくり言えばいわゆる「ハコもの」ということになります。
以前ならば劇場やホール、市民会館や公会堂といったさまざまな催し物を行う文化施設や、博物館や美術館、郷土資料館などの教育系施設、さらにはもう少し小さな貸しギャラリーやスタジオなども含めれば、このような広義の文化や教育、地域住民の福利厚生に関わる「ハコもの」は、すでに身近に多く存在していて、しかも、それらの多くは半ば「公」の施設だったりする。少なくとも、マチ以外の多くの地域・地元にとって、道路や電気水道、圃場整備など地域の生産に関わるインフラ整備と同様、それら文化や教育、福利厚生に関わる局面でもまた、「公」が先行して関わり、準備するような形でしかもたらされないものだったようです。
そのような意味で戦後、いや戦後に限ったことでもないのでしょうが、いずれ「お上」に頼る習い性、ココロの習慣がいつの間にやら刷り込まれているのは日本人一般に言われることです。要はどれだけ国から、「公」から補助金を、資金を引っ張ってこれるか、それが地元の長なり議員なりリーダー・指導者層の器量を測る重要なものさしでした。それは理屈でなく具体的な「ハコもの」になり、結果として「地域」「地元」の日常にはっきりと眼にみえる形で還元されることで、自分たちの生きる村や町、地元が「良くなる」実感にも確かにつながっていったのでしょう、良くも悪くも。
川は護岸され、曲がった農道はまっすぐに整備され、あまつさえ舗装もされ、真っ暗だった場所には街灯もつき、水道もガスも電気もマチと同じように「便利」の方向に整えられてゆく……そんな過程が「豊かさ」の結果として受け入れられていったのは日本中同じでした。ただ、もしかしたら北海道は、それら日本中で進行した過程に加えて、さらにそこから先、文化や教育、福利厚生といった部分についてもその延長線上に、同じ熱意で求めていったんじゃないか。スローガンやかけ声でなく、ここでもまた具体的なモノやコト、確かな「ハコもの」として。日々の風景も、電気や水道の「便利」も、概ねマチと同じようなものがようやく整ってきた。あとこの村、この町の地元に足りないものがあるとしたら、よくわからんけどどうやら「文化」と呼ばれるものらしい――そんなおおざっぱな理解がある時期まで、内地に比べて案外濃厚に宿っていたんじゃないでしょうか。
各地にある市民会館やホールの多くは、すでに年月を経て老朽化、建物のありようやたたずまいから建築年代もある程度推測できるくらいには古びたハコものになり、今や「昭和」の匂いが濃厚に漂う「文化」の遺跡のようにも見える。そのような施設がひと通り建てられてゆき、見慣れたものになり陳腐化していった以降、それら地域の、地元の人がたにとって、次に何が最も切実に、かつわかりやすく「豊かさ」を実感できるものになっていったのかというと、それが先に触れたような、温泉や風呂だったのかも知れないなあ、と。
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劇場や市民会館、博物館や美術館は、建てられた時は確かに新しく美しく、見たこともないようなカッコ良い建物でもありました。でも、そこで行われる催し物や展示の類はいつもそのような新しい、眼を引くものばかりでもなくなってゆく。まして、予算が枯渇してくれば「ハコ」を維持するので精一杯、新たな試みや企画をそこに盛ることも難しくなって行くし、何よりその「ハコ」そのものも時の流れに古びてゆきます。そこに宿っていたはずの「文化」も共に、また。
そんな情報化、均質化が浸透していった先に、それでもなお「豊かさ」や「良くなる」カタチを具体的に求めた時に、誰にもわかりやすく、かつ具体的に納得し実感してもらえるものが、風呂であり温泉だった。こういうニッポン的な「豊かさ」の帰結、ある種の成熟のありようというのが、他ならぬこの北海道だからこそ、ふとむき出しに見えてしまうあたりに、未だうまく気づかれていないホッカイドウ的強みを感じたりします。
実際、一部の北海道リピーターの観光客の中には、レンタカーを駆使してこれら新たに増えた公共施設系の温泉または入浴施設を巡り、食事はこれまた昨今少しは全国区で知られるようになった道内のおいしい回転寿司の有名チェーン店などをまわって、すでに全国区に定番化された表向きの「観光」ルートとは少し違った、自前で発見した新たな「ホッカイドウ」の魅力を満喫する人がたも地味に増えている由。こういう観光の多層化、多元化もまた、時代のひとつの局面ではあるらしい。地域・地元に最も身近に体感できる「豊かさ」の表現としてのこれら公共の温泉・入浴施設は、結果としてよそから来る人がたにとっても望ましい「観光」施設として使い回される可能性も宿しつつあるようです。