マンガと大衆文学・再考――吉田聡『江戸川キング』をめぐって

「大衆文学はある日、忽然として誕生したわけではない。それに先行するいくつかの先駆的形態をふまえている。とくに大衆時代ものは講談・人情噺・歌舞伎・祭文・あるいは近世庶民文芸などに材をあおぎ、近くは渋柿園や碧瑠璃園の歴史もの、浪六の撥鬢小説などの流れをくみ、欧米の伝奇小説を換骨奪胎した上に、日本的な花を咲かせた。その意味では口誦文芸のむかしからたどりなおす必要がある。」
――尾崎秀樹「大衆文学の変遷」*1

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 マンガと大衆文学の関係について、改めて考察してみようと思います。何のために、と問われるならば、マンガを大衆文学の流れの中に改めて位置づけなおすことでさらにその外側、民衆文化のより大きな脈絡での居場所を正当に見つけてゆくために、です*2

 そのようなマンガというジャンルが、広大な民衆文化の〈それ以外〉とどのように交錯し、相互に影響を与え合いながらひとつの表象文化として成り立ってきているのか。そのあたりの事情については、残念ながらまだそれほど整理されたとは言えません。いや、むしろ近年のように、マンガ「研究」として通り一遍の「学問」並みの精緻さや体裁を求められるようになってきている分、現実には境界のあいまいでゆるやかな広がりの中で何となく存在しているマンガという、ある時期までは半ば当たり前に共有されていた認識がここに来て知らぬ間に窒息してきているようにも思えます。またそれだけ、これまでと違う意味での新たな不自由も、その「研究」という作法をめぐって生じてきているようにも感じています。*3

 ここでは、そのようなマンガをめぐる研究や批評、考察などの現状についての問題意識を踏まえた上で、広義の大衆文学の流れにマンガをいま、改めて置き直してみる試みとして、吉田聡『江戸川キング』を素材に考察を加えてみようと思います。


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 吉田聡という描き手は、一般的に「ヤンキーもの」の手練れと認識されています。*4 

 「ヤンキー」とはわかりやすく言えば「不良」。時に「ツッパリ」などと呼ばれた時期もある、敢えてさかのぼれば戦前の学生カルチュアである「硬派/軟派」にまで淵源する日本のユースカルチュアの現れのひとつです。この場はひとまずマンガに関してだけ言うと、それら「ヤンキー」「不良」を主人公とした作品は、ある時期以降、少年マンガの領域であるひとつのジャンルとして成立するほど生み出されてきました。*5

 代表作とされる『湘南爆走族』はひとり吉田聡自身の、というだけでなく、「ヤンキー」を主人公とした「ヤンキーもの」の代表作であると言っていいでしょう。1982年から87年にかけて週刊誌連載。彼自身の生活史に根ざしたとおぼしい湘南を舞台とした「ヤンキー」(この場合、主に暴走族としての、ですが) たちの活躍を描き、十代の読者を中心に大きな支持を得ました。*6

 ここで取り上げる『江戸川キング』はそれより少し後、『湘爆』でマンガ家としての地位を獲得して以降の時期、1999年16号から2000年22号にかけて『ヤングマガジンアッパーズ』誌に連載されたものです。同誌は1998年から2004年にかけて存在した講談社の隔週誌。母体は同じ講談社の主力青年誌『ヤングマガジン』ですが、創刊当初は一時その母体の売り上げをしのぐほどの部数を誇ったこともありました。創刊当初は「ヤンマガ」で育った十代読者をもう少し上に引き上げることを狙った媒体だったはずですが、結果的には短命に終わっています。

 連載にして十七回分、単行本にしてもわずかニ巻完結の、小品と言えば小品です。隔週誌で一号置きに掲載のペースだったので、月に一本。活気の十分にあった上り調子の頃の週刊少年誌の世界で仕事を始めてきた作者にとって、タイトな締め切りに追われるのではなく、ある程度時間をかけて、少し歳もとって青年から大人になったであろう『湘爆』以来の自分のファン、読者に向かってていねいな仕事を示してゆくことができる、そんな設定だったと思われます。とは言え、少なくとも連載当時に大きく評判になるようなことはなかったと言っていいですし、また、吉田聡のファンたちの間でも特に取り立てて言及される作品ではないようです。

 しかし、にも関わらず、その限られた間尺において一気にたたみかけるような凝縮度、とりわけ物語としてこれまでマンガに限らず大衆文学の脈絡で蓄積されてきたあるシークェンスや仕掛け、細部などが期せずして随所に垣間見えるありようなどは、それまでの吉田聡の作風からしても群を抜いたまとまりと内実を見せています。ああ、そうか、マンガはやはり大衆文学の脈絡にもう一度置き直してやらないと見えない内実もいまやあるんだ、と改めて痛感させられるようなものでした。*7

 当時、90年代に入って以降、既存のマンガ市場の構造が大きく変わらざるを得なくなり、「戦後」の情報環境の内側で良くも悪くも安定した、その限りで幸せな達成を見せていた日本のマンガ表現自体も、ようやく迷走を始めていました。時代の趨勢、気分に従い物語の解体を熱っぽく推し進めていった果てに出現してきた先の見えない荒涼。あらゆるものを笑い飛ばし、ギャグにし、既存の価値をどんどん相対化してゆく熱狂は、しかしある閾値を超えたところで言いしれぬ空虚さ、不安を当然のように宿してしまうものでした。*8

 それらを結果的に打開してゆくような動きが、それまでマンガの側から自覚的に意識してきたとは言えなかった大衆文学の水脈を経由して出てきます。象徴的だったのは、井上雄彦バガボンド』の成功でした。『SLUMDUNK』で90年代初めに『少年ジャンプ』誌の最大規模の部数を支えた第一線の描き手が、その半ば突然の連載終了後、新たな挑戦として手がけた作品です。連載開始は1998年から。大衆文学では金字塔のひとつである吉川英治の『宮本武蔵』を下敷きに翻案、マンガとして描き直したものでした。もちろん、その場合の版元が言うまでもなく戦前このかた、大衆文学でその土台を作った講談社だったことも決して偶然ではなかったはずです。*9

 井上の『バガボンド』が、表現上の新たな試みとしてだけでなく商業的にも成功したことで、閉塞状況に陥っていたマンガの側へ大衆文学の水脈を接続してゆくかに見えるこのような動きは、その後も続きました。宮本武蔵については、押井守が半ば『バガボンド』に応答するような形で独自の解釈をアニメで展開したりしましたし、最近では、小林まこと長谷川伸を原作に『関の弥太っぺ』や『一本刀土俵入り』を手がけています。*10それらの作品としての評価はひとまず措くとして、そのように大衆文学の水脈に〈いま・ここ〉のマンガを敢えて出会わせる、という試みが、おそらくは編集部なり出版社なりの思惑としてだけでなく、それらを受容して積極的に試みようとする描き手の側の何らかの必然的な成り行きとしても行われつつあるらしいということは、指摘しておいていいでしょう。


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 ともあれ、その『江戸川キング』について、物語をざっと見てみましょう。

 時代は現代。場所は千葉県の、とある街「流浜」。主人公は王嶋錦という男で、通称「王様」。高校生ですが二回留年して現在二十歳の三年生。図体が大きく性格も粗暴で喧嘩好き。ですが、どこか憎めないところがあるらしく、多くの子分=「家来」を引き連れて日々、界隈を闊歩しています。少し前ならば「番長」などと呼ばれたような、高度経済成長期あたりからマンガやアニメなどを介して形作られていった子ども、とりわけ少年向けの作品でのヒーロー類型ではあります。*11 (図1)

 妹がいます。名前は鈴。東京にあるとおぼしい法学部の大学生で、その友人である小田ヒロシという青年が、ある夏休みに鈴の生まれ育った土地である「流浜」にやってくるところから物語は始まります。

 ふたりが夜道をクルマで走っていると、交差点のど真ん中にドラム缶が置いてある。中からパイナップルのような異様な物体がのぞいている。近づくと血まみれで傷だらけの男がふたつに折りたたまれて突っ込まれている。助手席の鈴が叫びます。

「あ〜っ、やっぱりアニキ!何やってんのよ、こんな所で〜!!」

 「王様」王嶋錦の登場です。パイナップル様のものは彼のモヒカン刈りの頭頂部。このようにして、ヒロシの視点にあらかじめ読み手を誘導しながら、語り手としてのヒロシを「読み」の中に位置づけてゆく。そのような手続きをくぐりながら、読み手はこの「王様」を中心とした物語空間に誘い込まれてゆきます。*12

 錦が「王様」と呼ばれるのは、「オレはこの街で生まれ育って二十年、今日まで他人にワビを入れた記憶がねえ!」と本人が堂々と胸を張るような、その破天荒な「ヤンキー」ぶりが理由。

「そんなこんなで十五の時には近所の犬も含めてオレに逆らう者はいなかった」
「ある朝通りで牛乳をガメて飲んでるとだ。ウシロから前の日にオレがぶん殴った高校生がカバン持ってついて来たのよ。あれがオレがこの街の王様になった瞬間だったな……」

 「街」が「地域」が、圧倒的な手ざわりで物語のはじまりに、まず置かれます。いや、「地域」だと地理的な空間に引き寄せられすぎるので、ここは敢えて「地元」と言い換えておきましょう。物語空間はそのようなコミュニティ、文字通りの「地元」としてまず立ち現れます。その説明以前の自明さ、描き語る側の揺るぎない布石の打ち方が、この「王様」が存在する理由を断固、支えています。*13 

 そのような「地元」の内側で錦とその仲間である「ヤンキー」軍団、つまりは地付きの若い衆たちも支えられています。そこには必然的に先輩・後輩の関係もあれば、まわりの大人たちの視線もまつわってくる。もちろん十代の若い衆のこと、学校が日常生活の受け皿ではあるのだけれども、その学校とて「地元」の内側に存在していることは、あっぱれ揺るぎません。*14(図2)

 少し前までは日本全国どこでも当たり前にあり得たような、そんな「地元」のありよう。しかし、それらは90年代にさしかかる頃から大きく変わりつつありました。その端境の時期、すでに表象文化の定型として成り立っていた「ヤンキー」という表象もまた現実と乖離してゆき、いつしかマンガやアニメといった虚構の中だけ〈リアル〉に存在するように、違う言い方をすれば虚構にしか存在できないようになっていました。『江戸川キング』が連載されていた90年代末の時代状況というのは、まごうかたなくそんな「不良」や「ヤンキー」をめぐるあり方の変貌がある最終局面を迎えた真っ只中にあったと言っていいでしょう。*15

 だからこそ、すでに定型としてマンガの世界に成り立っていた「ヤンキーもの」の表現も、その定型を素直になぞるだけではもう読み手との関係をうまく安定させることができなくなっていた。それゆえ、表現としての定型の枠から踏み出して、より純化された「おはなし」=物語の方へ一歩抽象化してゆく必然があったのですし、その過程で、どういう経緯かはともかく、当時すでに半ば忘れられ放置されていたはずの大衆文学の地下水脈に行きあうことにもなったのでしょう。

 その際、作者自身、そして編集部なども含めた実際に制作に関わる現場の当事者たちは必ずしもそのように意識してなかったかも知れない。おそらくかなりの程度まで無意識だったのでは、と推測します。しかし、結果としてこれまで地下水脈のように受け継がれ、人々の意識の間に伝承されていた大衆文学の脈絡での物語の骨法が作品に、より正確には作品を介した同時代の「読み」の共同性の水準も含めての場所に宿ることになった。その経路については改めて、不思議としか言いようがありません。*16

 少年マンガの脈絡でホモソーシャルな「ヤンキー」世界を物語の文法として確立したひとりであった吉田聡が、しかし結果として見出したのがこのような大衆文学以来の物語の要素を純化し、新たに結晶させたような「おはなし」の洗練だった、そのことにまず驚き、かつ感動します。マンガという表現のジャンルが、日本語を母語とする広がりの〈いま・ここ〉に生きて確かに根づき息づいていることのひとつの証左として。そしてまた、そのように広義の文学/文芸が、かつてとはすでに異なる情報環境に日々生きているはずのわれわれの〈いま・ここ〉になお、このような形でうっかりと宿ってしまうことについても、また。*17


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 「地元」という舞台で「ヤンキー」たちが躍動するこの物語は、物語である以上、当然ある収斂を見せてゆきます。そのたどりつく先は「河川敷で行われる草野球」です。*18

 その最終場面に向けて物語を動かしてゆく地点に、井上歩という後輩格の少年が立っています。流浜商工高は野球部のピッチャー。プロから誘いがかかるくらいに野球がうまく、プロに行こうかそれともスポーツ推薦で大学へ進学しようか、と悩んでいます。

 家は母子家庭。老いた母親は亡き父親の借金を抱えながらうどん屋のパートで息子を高校に通わせている境遇で、貧相なアパートにふたり暮らし。歩自身はプロに行ってやってゆける自信はいまひとつないので本音はスポーツ推薦でどこか大学に進学したい。でも、プロへ行けば契約金で借金は返せるし母親は楽にしてやれる――そんな葛藤が、錦以下「地元」の仲間たちからの微妙な疎外感を彼に抱かせます。その疎外感はいつも金魚のフンのように後輩として錦たちについて歩くだけだった自分に対する不満からくる自立心と裏表です。彼にとって「地元」とはそこに反抗することで初めて自分が自分であることを証明できる、そんな存在になりつつあり、その象徴が錦たちでした。

 借金の返済を迫っているのは川向こう、「勝和」の街の御法ファイナンス暴力団「大仏組」の経営する金融屋で、そこの若い衆頭のような立場にいるのがいま売り出し中の玉城豊という男。彼は歩や錦の通っている流浜商工とはライバル校である勝和高の元エースで、現役時代には甲子園にまで駒を進めたキャリアの持ち主。と同時に、錦とは高校時代、地域を二分する「ヤンキー」の旗頭として互いににらみ合っていたライバル、という構図です。(図3)

 これらの設定の上に、まさに子どものような「王様」気分丸出し、誰もが逆らえないと共に苦笑しつつも巻き込まれてゆかざるを得ない暴君=「異人」として「地元」を大股で粗雑に闊歩する「王様」錦と、そこから外の世界に踏み出しすでに「地元」とは別の自立を達成しようとしていることに矜持を抱く玉城との、因縁の対立が物語を動かしてゆくエンジンになっています。

 一方でヒロシは、ひとりカタカナ表記の名前を背負っていることが象徴的なように、この「地元」においては終始よそ者です。どうやら北海道出身らしいのですが、東京の大学に出てきて知り合った鈴の実家のこの「流浜」に夏休みにたまたま顔を出しただけ。それは単に生まれ育った土地が違う、ということよりも、これまで生きてきた世間が違う、ということが前面に出されています。

 そんなヒロシが、しかし「地元」に、錦たちの「王国」に巻き込まれてゆき、何者でもない抽象的な存在でしかなかったところから明らかに生身を、個別具体の顔や表情、身振りを伴った意志的な主体として再生してゆく過程は、これまた正しく「教養小説」的王道、読み手と同じく未だ何者でもないその他おおぜいの若い衆が、社会的な脈絡を獲得して一人前になってゆく道筋に他なりません。このヒロシの存在は、吉田聡にとっての「ヤンキーもの」が「戦後」日本の少年マンガの正統であることと共に、その物語空間を自ら相対化してみせる視点をはらませることで輪郭を明確にしてゆく、そういう成熟を90年代状況に見せることになった、その証でもあります。

 「錦さんも不思議だよな。あのヒトと付き合ってんだけでオレもおめえみたいなのと知り合いになっちまった」とひとりごとのようにつぶやく錦軍団のひとり、金(キム)に、ヒロシもこう言う。

 「ボクもさ、キミらみたいな人種とはずっと関わりあいがないと思ってたよ」

 北海道も東京も、ヒロシの設定にとってはほとんど意味がない。物語空間でそれらは具体的な地名ではすでになく、「地元」から疎外されたどこでもない土地、でしかありません。そのような「地元」を失ったヴァーチャルな存在になりつつある「学生」という、すでに社会に広く進行しつつあった全面的抽象化の過程の象徴がヒロシであり、そんな彼が「王様」の領地である「地元」に出くわし、心ならずも巻き込まれながらもそこに棲みなおしてゆくことで生身を獲得してゆく。そんな戻るべき場所としての河川敷であり江戸川である、という明快さは、まさに映画『フィールドオブドリームス』での、とうもろこし畑を切り開いて作られた野球場という表象の濃密さとも通底しています。*19

 錦と玉城、ふたりのライバル関係も、これら「地元」を媒介に明快な対立にあります。

 進路に悩むる歩に、好きな野球をちゃんとやれ、そのためには大学へ行け、と諭す「地元」の錦たちに対し、「大人」の論理で歩に借金返済の優先を強要するばかりか、ヤクザになることすらほのめかす玉城。それに応じて歩は、「地元」から抜け出すことでの自立を考え、玉城の下でのヤクザ見習いに一時行きかけます。

 それを知り激怒する錦、そして「地元」の若い衆たち。歩を「地元」の側に引き戻す、という彼らの目的は、同時に玉城をも「ヤクザ」から「地元」へと連れ戻し、共に「地元」の懐で幸福に対立しあいながら安定するホモソーシャルに保証された関係=「ダチ」、にさせてしまう、彼らにとっての見果てぬ夢にまで貫かれます。そしてまた、「ヤクザ」が「地元」と対立するこの認識は、「ヤクザ」に象徴される「大人」「世間」の論理とも一線を画す「地元」という、物語を下支えするもうひとつの構図を示しています。*20

「地元」「子ども」「王国」「野球」 ⇔ 「川向こう」「ヤクザ」「大人」「カネ」
     錦軍団                玉城                  (表1)

 「地元」の論理を楯に同じ土俵での「勝負」にこだわり続ける錦と、それを「大人」と「子ども」という図式で否定し相手にしない玉城。片や未だに「王様」気分のままの高校五年生、一方玉城はというとすでにヤクザとしていっぱしの存在になりつつある「大人」の側に。おめえとは土俵がもう違ってるんだ、と高らかに言い放ち勝利宣言をする玉城に、しかし錦は全く懲りずに同じ土俵=「地元」での「勝負」を突きつけ続けます。玉城自身も揺らぎながら、しかし未だヤクザ仲間で草野球チームを率いている程度にまだ野球に愛情はあるらしい分、結局は錦の言う「勝負」に引き寄せられてゆきます。この「地元」という同じ土俵での「勝負」は最終的に、野球という約束ごとを媒介に、江戸川の河川敷という舞台で成り立つことになります。ただし、ふたりがきれいに敵味方としてでなく、共に同じチームメイトとして協力しあわねばならないといういささかねじれた設定で。 

 ここで敵役として登場するのが、ジャスティスというチーム。同じ「地元」の強豪ですが、地元の警官などが主体でつくられた、その意味では錦たち「ヤンキー」にとっては天敵のような存在。もともとは玉城のチームとの勝負を野球ですることになり、にわかにチームを作って練習していたものの、日頃の悪名がたたって練習試合の相手が見つからず途方に暮れる錦たちのチームでしたが、折から玉城の属する大仏組が抗争事件に巻き込まれ、玉城自身心ならずも玉城も錦に助けられる形で川向こうからこちら側「地元」流浜に逃げ込まねばならなくなった。その過程で否応なく錦のチームに合流し、このジャスティスと試合をする羽目になります。

 このあたり、いささか強引な印象もありますが、しかし単純に敵味方の勝負でなく、共に同じチームで協力しあわざるを得ない条件を設定することで、錦と玉城の対立は正しく同じ「地元」という土俵での「勝負」になってゆく。というわけで、結果的に最後、街の衆までがこぞって河川敷に、試合の行われている夢の土俵に吸い寄せられ集まってくるというクライマックスの起爆力を高める結果になっています。*21

 後半、全体の三分の一ほどの分量を駆使して描かれる河川敷でのジャスティス対錦たちバイキングの草野球試合は、紆余曲折あるものの、物語としてはお約束通りバイキングの逆転勝ちに終わります。折からの夕立で雨天コールドの試合終了後、それでもなおふたりだけでピッチャーとバッターとしてサシの「勝負」を続ける錦と玉城。100球勝負だ、といつまでも勝負を続けることを求める錦に対して、玉城は途中で去ってゆきます。そして潰れた大仏組にかわって玉城組の看板を掲げ、改めてのヤクザ稼業へ。錦はまた高校生へ。ですが、「勝負」の前とは異なり、ふたりともすでに同じ「地元」の懐に抱かれています。それは、河川敷での試合の前後で物語の水準がひとつ、より抽象化され純化された「おはなし」の側へと収斂していったことでもあります。

 最終章。夏休みも終わり、日常が戻ってきた「王国」。ヒロシは東京の大学へ戻り、「王様」の錦は相変わらず街をブラブラしています。仕事帰りという角田と飛永のクルマをつかまえ、いつも積んであるという野球道具の金属バットをトランクからひっさげ、「ちょっくら玉城んトコ、ブッ潰してくら」、と川向こうに出かけて行く錦を見送りながらの、ふたりのせりふ。

「あいつ――いつまでもオレ達がそばにいると思ってんのかな――」
「ど―するよ、ヒロシが次に来っときまで放っとくか」
「ヒロシの奴……変わっちまわねえといいけどなあ」
「大丈夫だろ、同じ大学にゃ鈴がいるしな。」
「それによォ、錦がこの街にデ―ンと構えてるうちは、オレらだって大丈夫さ……」

 かくて、「地元」はここで永遠になります。いつまでも変わらない、素晴らしい時のまま動かない「戻るべき場所」としての「地元」。対立も喧嘩も全てその「地元」の懐で幸福に包含されて安定し収束してゆく、そんな約束の地。「ヤンキーもの」が常に後ろ盾にしてきていた「青春」という大きな書き割りは、ここに至ってひとつの到達点を見せてくれます。

 幕切れのシーン、見開きいっぱいの河川敷とそこを横切る鉄橋の風景に続いて、少し大人になった鈴とヒロシが。夏空の下、土手にとまったタクシーから降りてくるヒロシはネクタイを締め、髪の毛もさっぱり整えたビジネスマン風の出で立ち。

「お帰りなさい!ヒロシくん」と鈴。「アニキのチーム、いま負けてるのよ」

「四回ウラで5対2。対する玉城くんのチームはこのところ八連勝。ヒロシくんが留学していた二年の間のバイキングの成績はねえ……」

 聞き終わらぬうちに、ネクタイもワイシャツを脱ぎ捨て河川敷へと土手を駆け下りてゆくヒロシ。その顔はわずかにゆがんでいまにも泣き出しそうにも見えます。コマの視点は斜め上方から、土手を俯瞰で見下ろす角度で。



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 もはや、事態は明らかでしょう。 

 「ヤンキーもの」が定型として成り立たなくなっていた状況で、それをいきいきと生き返らせることに成功したこの物語の本当の主人公とは、実は錦でも軍団の面々でもなければヒロシでもない。彼らが存分に躍動することを許し、見守る視線をはらんだ「地元」です。その「地元」に収斂してゆくような「戻るべき場所」、個別具体の顔の見える関係によってのみつむがれている、そのような個々の出自も来歴も全部ひっくるめたまるごととして存在し得る「永遠」をほのめかしてくれるような「場」、それがここで達成された物語空間がしぶとく提示している本質です。*22

「いつまでも変わらない」こと、戻ろうと思えばいつでもそこに戻れるし、また受け入れてもくれるような具体的な場所としての「地元」。しかし、現実にそんなものはあり得ないし、仮に望んだとしてもすでに物語としてさえ不可能になってもいることを、高度経済成長の「豊かさ」の中生まれ育った世代でさえも、誰もが深く、広く思い知るようになっていた、そんな時代が90年代状況でした。

「ヤンキー」とは、少し前まで実際に存在し、また自分たちもそんなものかもしれなかった表象とは、実にそんな「地元」に根ざしてこそ初めて、実存としても、また物語としても成り立つような存在であった、という理解が、おそらくは読み手たちの「読み」の水準においても、雨水が岩盤にしみとおるように共有されていったはずです。それ自体ホモソーシャルな幸福な空間がすでに成り立たなくなっている同時代の〈いま・ここ〉を、それぞれの身の丈で改めて省みながら、その距離感と共にそれだけかけがえのないものとして。
以下、今後さらに考察を深めてゆく上で、ここで示したような「地元」と交錯してくるであろう、物語のポイントをいくつか示しておきます。

■ 家族、ないしは親や肉親の不在
 作者が、これは自覚的に意識したであろう映画『フィールドオブドリームス』において前面に示されたのは、まず「家族」であり、そこに宿る「記憶」の正義が証明されてゆく過程でした。 
 
 それに対して、この『江戸川キング』には「家族」や、そこに連なるような親や肉親の気配は薄い。錦と鈴の兄妹はしなびた爺さんと同居していますが、そこに両親の姿はない。ないことについての説明すらない。いや、この爺さんすら肉親かどうか、実はよくわかりません。家は一戸建ての二階家で、爺さんは畑仕事をしている風情で、錦も一応は高校生とは言いながら、普段はツルハシを担いで闊歩しているくらいですからアルバイトで道路工事くらいはやっているようですが、それにしても、彼らをめぐる実生活の背景についての描写はそれ以上でも以下でもない。そういう意味ではまさに「おはなし」=虚構の物語空間です。

 親がはっきり描かれるのは、借金がらみで進路に葛藤する歩だけであり、錦にも玉城にも、取り巻きの軍団の面々にも欠落している。わずかにヒロシに北海道の母親から電話がかかってくる場面があるくらいで、それとても声だけで物語に本質的な役割を果たすわけではない。つまり、親や肉親は見事なまでに希薄なままです。*23

 その代わりに、「地元」の商店街のオヤジさんオバさんたちが前面に出てきます。八百屋や焼肉屋など、小さい頃から錦たちの悪童ぶりに悩まされてきた商店街の彼らオヤジやオバさんたちは、かつてそのように地域の若い衆を見守っていた日本の「世間」としての「地元」の象徴であり、その限りで親、ないしは肉親の意味をも物語空間において担保しています。(図4)

 親も肉親も、いずれ「家族」の希薄な日常。けれども、それぞれはバイトなり何なりの仕事には就いていて、その限りでの自立はして「地元」の日常を生きている。そのような単身生活者としての意味づけの上で、「ヤンキー」主体のこの伝統的かつホモソーシャルなコミュニティは、ひとつの物語としての輪郭も定まり動き始めます。「地元」の濃密さ、「戻るべき場所」としての輝かしさもまた、そのような内実を裏返しに示していると考えるべきでしょう。先に、「地元」とは単に地理的な空間ではない、と言ったのもひとつにはそのような意味においてです。*24

■「馬鹿」であること
 「軍団」と称する錦の仲間たちは、さすがに「ヤンキーもの」の手練れだけあって、それぞれキャラクターとしてうまく描き分けられています。特徴的なのは、「王様」の錦を中心に、飛車=「飛永」、角行=「角田」、金=「金(キム)」、銀=「銀次」、とそれぞれ将棋の序列に従って役名が振られていること。浪曲黄金時代の、そして日本映画最盛期のキラーコンテンツだった『清水次郎長伝』さながらの「○○一家勢揃い」的な定型がきちんとおさえられていますし、実際その「勢揃い」感覚は物語の中でも随所でうまく使い回されています。(図5)

 そして、何より彼らが「馬鹿」であること。個々のキャラクターとしてと同時に、物語全体としても「馬鹿」が輝かしい価値であることを許容し、それゆえ一層光り輝くような場所としての「地元」が設定されていることは見逃せません。

 「馬鹿」が、無法松的な英雄像の「戦後」的変貌における重要な性格になっていることは、すでに指摘してきています。たとえば、戦後の日本映画における初期の山田洋次の「馬鹿」シリーズなどはその典型的な現れと言えますが、ならばなぜ、無法松が「馬鹿」という属性を附与されることで「戦後」の空間でなお、新たな英雄像たり得たのか、という問いについては、まだ最終的に整理ができていません。これらの問いに答える糸口としては、「戦後」的「馬鹿」とは森の石松と無法松の融合形態であるという仮説をひとまず持っていますが、それらは別の機会に改めて考察、展開したいと思います。

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主な参考文献

夏目房之介『消えた魔球』双葉社 1991年
夏目房之介『マンガは今どうなっておるのか?』メディアセレクト 2005年
橋本 治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店 1986年
尾崎秀樹『大衆文化論』1966年 大和書房
尾崎秀樹『大衆文学50年』1969年 講談社
足立巻一『大衆芸術の伏流』1967年 理論社
石子順造『近代における表現の呪縛』1970年 啓文堂
石子順造『戦後マンガ史ノート』1975年 紀伊国屋書店
池田浩士『大衆小説の世界と反世界』現代書館 1983年
大月隆寛『無法松の影』1995年 毎日新聞社
セシル・サカイ(朝比奈弘司・訳)『日本の大衆文学』平凡社 1997年

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*1:尾崎秀樹「大衆文化の変遷」『大衆文学50年』所収 講談社 1969年pp7-8

*2:「民衆文化」とはこの場合、民俗的想像力も含めた国民的地平に根ざした民衆的表象文化一般を、「大衆文学」はそれらの中でも「文学」由来の視線と方法論で大衆社会状況に呼応して大量生産/大量消費の「商品」として流通するようになっていった一群の「文学」を相手どりこれまで形成されてきた経緯のある「研究」領域を、それぞれ指すものとしておく。

*3:マンガそのものを素材として「学」を構築してゆこうという動きは、近年それなりの蓄積を見せている。マンガをひとつの文化表象ジャンルとして、その内側で批評や考察、作家論や作品論から研究史、それらのための方法論など、広義の研究が積み重ねられてきているのは確かである。まず、研究者の幅が広がった。これは何もマンガを専門に扱う研究者が増えたのではなく、90年代半ば以降、日本語を母語とした広がりの内側で人文系の学問領域での相互の敷居が溶解してゆき、大衆文化やサブカルチャー系の素材をさまざまな角度からこれまでよりはずっと自由に扱えるようになった、その結果として社会学やメディア文化論、文芸批評やカルチュラルスタディーズなど複数の領域からアプローチする者が必然的に多くなったことに規定されている。しかし、と同時に、新たな課題もまた露わになってきた。興味関心をマンガやアニメに持つ学生、院生、研究者が増えると共に、既存の「学」の枠組みとの齟齬や違和が表面化してきた。それは日本の人文学系学問のパラダイム自体を逆に問い直さざるを得ない時期にさしかかっていることのある表現でもあり、またそれだけマンガやアニメを素材に「学」を構築してゆくことの同時代的困難を示してもいる。ブログ掲載のメモ程度のものながら、太郎丸博「メディア批評系の卒論をどう指導するか」(2012年2月2日 http://sociology.jugem.jp/?eid=594 )などは、このあたりの問いを考える上で示唆的である。

*4:1960年、福岡県出身。しかし、育ったのは神奈川県は辻堂。彼の代表作と目される『湘南爆走族』がそうだったように、生活史的アイデンティティはこの湘南にあるらしい。美術系専門学校からプロのマンガ家に、というキャリアはこの世代のマンガ家としては特に珍しいものではないが、商業誌デビューが早かったのはやはりそれだけの才能だった、ということだろう。

*5:「ヤンキーもの」というくくり方は「ヤンキー」というもの言いが出現してから、後になって名づけられたものだが、内容としてそれに対応するような作品は70年代始め頃から現れ始め、拡大し始めたマンガ市場に従い青年誌などにも場を広げていった。その後80年代にかけての時期に「ヤンキー」というもの言いが「発見」されると共に、一気に全域化したととらえていいだろう。芸能界でも近藤真彦チェッカーズなどがそれら「ヤンキー文化」の色彩を比較的濃厚に、かつ意識的にとりいれていたし、風俗現象としても「なめネコ」ブームや「竹の子族」などそれら「ヤンキー」文化の全域化を示す事象は当時、数多く認められる。

*6:後にはアニメや実写映画化もされ、最近ではパチンコ台のキャラクターにまで移植されている。その意味では、戦後マンガ史的に見てもある程度重要なコンテンツであり、80年代の戦後マンガ文化がある極相に達しつつある時期の、その象徴的な作品のひとつでもある。

*7:大衆文学研究は、その「大衆文学」という規定自体が「文学」ジャンルそのものの変貌、ないしは溶解と共に崩れていったところもあり、「歴史」的研究といった方向にシフトしていった。ゆえに、同時代の表象文化として「大衆文学」という枠組みを敢えて持ち出すことは、その意味では稀になってきたと言っていい。けれども、情報環境の変貌とそれに伴う「文学」の商品化の過程と共に「発見」されていった「大衆文学」というジャンル自体は、そこでさまざまに提示されたそれまでの「文学」パラダイムを相対化してゆく問題意識において、「戦後」の言語空間から高度経済成長期の情報環境におけるそれら表象文化を〈いま・ここ〉とのつながりにおいて考えようとする場合に、今だからこそ逆に学ぶべき内実をはらんでいると思われる。

*8:たとえば、一例を挙げれば四コママンガの衰退があった。80年代初頭あたりから急激に頭角を現していった、当時「不条理四コマ」などと言われ若い読者を中心に大きく支持されたジャンルの一群の作家たちが、この時期に至ってさまざまな行き詰まりを顕著に見せるようになる。彼らはもともと古くからある「四コママンガ」という形式の中で、既存の物語を相対化し、言わば関節外しを仕掛けてゆくことで新たな「笑い」を引き出す手法で当時の若い世代の読者の感覚と呼応していた。それはまごうかたなく当時の時代状況とそれに見合った同時代気分のありようと対応していた動きだったが、しかし、「大きな物語」を軒並み相対化して意味のないものにしていった後の荒涼が、ただちにその当事者たちにも跳ね返ってきた。吉田戦車いがらしみきお相原コージらに代表されるそれら一群の描き手たちの停滞とその後のそれぞれの抜け出し方は、それ自体がマンガと情報環境、および同時代の気分との関連を考える上でも格好の事例になる。

*9:一方、それらの状況からの打開策として、それ以外の選択肢も複数、模索され始めていた。たとえば、既存のマンガならマンガのジャンルの内側で、すでに読み手としても広く蓄積されてきているあらゆる素材やモティーフ、技法なども全部含めて、手もとの合財袋に放り込まれているように感じられるようになっていた情報環境を踏まえ、その中から元の文脈を無視したところで材料を拾い上げつむぎ合わせてゆく、後に二次創作という言い方で言われていったような「創作」作法も、このような状況を切り開いてゆくひとつの選択肢として現れたところがある。と同時に、この頃から拡大、変貌していった同人誌市場のありようもまた、根に共通の問題意識を持っていた。既存の素材を一律等価に見ながら表層での切り貼り、コラージュのような作業を介して何か新たな作品をこさえてゆくことは、具体的な作業と共にそれを手がける意識という意味においても、それまでに比べて飛躍的に容易に、葛藤やストレスなども薄くできるようになっていたことには、功罪両面含めて注意を喚起しておいていいだろう。

*10:映画『宮本武蔵――双剣に馳せる夢』(2009年 押井守原案・脚本 西久保瑞穂監督)小林まこと『関の弥太っぺ』(2009年)『一本刀土俵入り』(2011年〜 連載中)

*11:類型であることは当然としても、「そんなわけないだろ」という、昨今の若い世代の読者に普遍的に備わっている「ツッコミ」=相対化、を発揮させない隙の無さは特筆していい。物語として当たり前と思われるだろうが、しかしこういう定石通りのたたみかけは、当時すでに相当に難しくなっていた。このような類型を解釈してゆく上での補助線を仮に引いておくとすれば、「無法松」的な英雄像、ヒーロー造形の「戦後」的な変貌というのがひとつの基準になる。そしてそれら英雄像が成り立ち得る社会的、同時代的背景について、読み手の最も手もとでの「読み」の水準からできるだけ離れないようにしながら展開してゆく手法が有効になる。

*12:映画『兵隊やくざ』シリーズ(1965年〜1972年)とその原作としての有馬頼義『喜三郎一代』シリーズ(1964年〜1966年)における大宮喜三郎と「私」、あるいは、映画『無法松の一生』(1943年、以後複数回リメイクあり)とその原作としての岩下俊作『富島松五郎伝』(1939年)における富島松五郎と「私」=「ぼんぼん」敏雄、などの関係にも比していいような、語り手の視点を読み手の側にあらかじめ重ね合わせてゆくように“おはなし”を誘導してゆく、まずは物語としての王道をここはきちんと踏まえていると言っていい。

*13:場所についても同様で、まず「江戸川」だけが固有名詞として実在していて、あとは一応架空の土地名。とは言え、「流浜」が流山、「勝和」が柏、「祭戸」が松戸、「御法」がおそらくは三郷だろうか、いずれそれなりに容易に実際の地名との推測ができる程度にはなっている。現実と虚構の間に物語を架橋してゆく装置は、ここでもすでに仕掛けられている。

*14:と言っても「学校」そのものが描かれるわけではない。実際、彼らの生きる日常の延長線上として、喧嘩や争いごとの場として以上の描かれ方はしていない。言わば、ムラの「若者宿」のような意味においてのみ、物語世界に存在している、そんな学校だが、しかしそれは逆に開き直って考えれば、近代以降の学校教育を「地元」の視線から、日常と地続きに仰ぎ見てゆくと当然のように出てくる学校像でもあったと言える。ここから、「学校」の内側でだけどんどん物語世界が閉じてゆくようになっていった90年代後半以降、ひとつの流れになっていった「日常」系と呼ばれる一群の作品とは、系譜的に異なると言っていいだろう。

*15:「ヤンキー」自体は、80年代の終わり頃にはすでに時代遅れ、そのファッションや身振りなども含めてアナクロな存在として失笑と共に見られるようになっていた。そのことを「ヤンキーもの」の作者だった吉田聡が自覚しなかったはずはない。そのような状況でなお、何か描くべきものを考えた時に、その困難な状況で従来の「ヤンキー」に何か新たな説得力、存在に対する〈リアル〉を附与できる方法は、と考えていった先に結果的に浮かび上がってきたものがこの「地元」だった。「地元」がなければ「ヤンキー」は成り立たない。現実にも、また物語という虚構においても。そのことを吉田聡はいきなり「発見」していた。それでも、90年代前半くらいまでは、「ヤンキー」もまだそれ以前の「不良」とかろうじて地続きでいられたようだ。それ以降、「チャラ男」などと呼ばれるようになってゆく流れと何らかの決定的な断絶が生じていった理由と共に、それはまさにこの「地元」との関係のあり方に関わっている。「地元」の圧倒的な、文句なしに自明ですらあるような存在感をまず示した吉田聡の選択は、最初から「ヤンキー」を、つまりすでに現実には存在しにくくなったものを、虚構の内側で〈リアル〉として仕上げてゆく戦略に立つことだった。そしてそれは、現実と拮抗するところで、作品と読み手=読者との相互の「読み」の中に虚構としての物語の文法に依拠した〈リアル〉を立ち上がらせる、という覚悟を求めるものでもあったはずだ。

*16:描き手である吉田聡が実際に、大衆文学の作品に接していたかどうかはわからない。仮にいくつかを読んでいたとしても、それを明確に意識して作品に取り入れようと思ったかどうか、それも不明である。いずれ創作の過程にまつわる不思議だが、しかし、それは仮に当事者に取材してまわったとしても決定的な確証を得ることにはならないだろう。なぜなら、それはまさに民俗学における「民話」や「都市伝説」と同じこと、「読み」の水準で不思議にもうっかりと宿ってしまった〈リアル〉それ自体の手ざわりをまず手もとで確かめてゆくことからしか考察が始まらないようなものであるからだ。そのような意味で、日本のマンガは単なる大衆文化の一ジャンルというだけでなく、同時代の読者との間にかわされる「読み」の水準も含めたcommunal creation であり、そのような意味でメディアとそれらが形作る情報環境のあり方と切り離せない「メディア文化」だと言える。ただ、附言すれば、この時期90年代半ば頃までは、このような何かいきなり宿ってしまうような形で、大衆文学の要素がマンガ表現の中に、物語の要素やモティーフとして侵入してくることはまずなかった。パロディ、などはいくらでもあった。アチャラカ的な文脈であれ、マンガ表現への移植、置き換えといった試みであれ、そのように既存の表現を「意識的に」下敷きにした表現ならば、それはマンガに限らずむしろ日本の近代の大衆文化、大衆芸能のある習い性であった。国内映画産業の黄金時代、商品として生産されていた最も通俗で中核の映画作品の多くは、それまでの大衆文学からの題材、素材の換骨奪胎は当然だったし、また芝居や舞台といった他のジャンルでの表現も相互に縦横無尽に「引用」してゆくのが普通だった。「日本というのはそういう国なんです。少なくとも、日本の大衆というものは、そういうものを平気で受け入れてしまうし、そういうものでなければ楽しくならなかった。そういう国なんです。だから、すべてはゴッタ煮にならなければいけない――そうでなければそれは不完全で片寄っている――し、そして材料がゴッタである以上、それを煮る“鍋”は一つでいいんです。“正義は勝つ”――それだけです。その“鍋”に向かってみんなは走り込み、それで“正義は勝つ!”。みんな正義だから、みんなは走り寄って、みんなは晴れやかに笑う。だからみんなおんなじなんです。」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店 1986年 p.392

*17:たとえば、一騎当千、ひとりで何人も相手にしての喧嘩、立ち回りをやってのけ、ひどい怪我をして寝込むようなことがあっても、ぺろりと飯を何人前もたいらげて超人的な回復力を見せる、というくだり。二階で獣のようなうなり声をあげて苦しむそのありさまと、それでも出前を何人前もたいらげる落差の表現は、「無法松」譚での冒頭、若松警察の剣劇の先生に頭を割られて木賃宿に帰ってきてうなる松五郎のシークェンスときれいに重なってゆく。指摘しておきたいのは、そのような大衆文化や芸能の本性とでも言うべき流れとは少し違うところで、世代経験的にもまずそのような大衆文学的水脈から離れた環境で育ってきたはずの世代の描き手の中から、単にひとつの場面やシークェンスなどが先行するジャンルのどの作品のどこそこに対応する、といった水準にとどまらず、さらにもう一歩深層のところ――物語全体の結構とそれを安定した作品としてまとめ、提示してゆく過程で必要とされる登場人物の性格設定やそれら相互の関係のあり方、そして物語とつきあって行くにつれそれらの背景に前提としてくっきりと示されてゆくある「世界」の吸引力、などなど、たとえて言えば伝承された「民話」に接するような「読み」の感覚を喚起してくれる、そんな部分において、敢えて示してくれるマンガの〈それ以外〉との関係のあり方である。「読者や視聴者の参加、つまり受け手が単なる受け手にとどまるのではなく作り手あるいは送り手として表現活動に参加するということは、大衆文化のもっとも原初的でもっとも根本的名要求だった。資本主義体制にもとづく市民社会の文化にたいして疑問が提示されたとき、それゆえ文化の前衛たちは、創造と受容との境界が固定していない民衆文化、資本主義社会のなかでは芸術とも文化とも見なされていなかった民俗芸能や習俗的行事に、貴重な手がかりを発見したのだった。」「大衆小説への読者の参加を、現実からの逃避、あるいは現実とかかわることの代償行為としてのみとらえることは、誤っているだろう。現実ときわめて近い現実の比喩、あるいは現実と虚構との虚実の皮膜にあるような作品世界についてそれが言えるばかりではない。読者もが最初から虚構と知っているような作品のばあいにも、やはりそうである。ウソであることを承知で読むというのは、読者と大衆小説との幸福な関係のうちでももっとも幸福なひとつかもしれない。そのとき、小説世界は、読者にとって、たかが一篇のフィクションにすぎず、しかも、本当の現実に虚構の力だけによって比肩しうるひとつの反世界でもある。」池田浩士『大衆小説の世界と反世界』現代書館 1983年 p.259 p.262

*18:河川敷と野球、そして地元の仲間たち。仲間と地元をひとつの表現として成り立たせる上で「野球」が必然的に浮かび上がる理由は相当に根が深い。附言すれば、それらは望ましい若い衆としての社会的存在、という意味で、それを良きものとして見守る世間の視線の内に、濃厚に母性の気配を宿すものにもなっていることは指摘しておきたい。「野球」マンガやアニメの定式からSMAP以下男性アイドル「グループ」の流行に至るまで、このような世間の視線の側に、ある種の母性の要素が濃密になってきているらしいことも、同時に注意しておくべき点だろう。

*19:大衆文学、広い意味でのそれらの表現の中で「野球」がどのように語られ、描かれてきたか、というのも、実は興味深いところである。とりわけマンガについてのその系譜―譜は、すでに夏目房之介がスポーツマンガの分析で一部手がけているところだが、佐藤紅緑の『嗚呼玉杯に花うけて』から『巨人の星』の前半部分を経由し、その後花開いたスポーツマンガの脈絡での「野球」の流れが、ついに20世紀末にこの『江戸川キング』に結晶として露頭したような印象さえ受ける。物語を支える対立図式とそれを解消してゆく「平等」な「土俵」としての野球。これがサッカーでも相撲でも、物語はここまで収斂してゆけたか微妙なところであり、だからこそ「野球」がすでに日本人の精神史的土壌にあるイメージの喚起力と共に存在していることが改めて思い知らされる。まず、映画『フィールドオブドリームス』(1989年 P.ロビンソン監督)は当然、意識されていただろう。連載中、扉絵に英語表記された副題「河川敷field of dreams」という表記にもそのあたりの気分は素直に反映されている。と共に、「無法松の一生」から「兵隊やくざ」から、それら大衆文学とその周辺にちりばめられてきたさまざまな物語とそのヴァリエーションとしての断片の数々。しかしここでも、どのような経緯と経路でそれらがこの作品の制作現場に宿るようになったかはわからない。わからないものの、しかし「読み」の場においてそれらは否応なく読み手の内側に想起されるものでもあるらしい。

*20:民俗的事実としても、「地元」のやんちゃ、愚連隊などと呼ばれた若い衆は、そのまま「ヤクザ」とつながっていたわけでもなかった。むしろ、ヤクザの下請けのような形になることを自ら忌避することが彼らのプライドの示し方だった面も少なからずある。映画『ガキ帝国』(1981年)『岸和田少年愚連隊』(1996年 中場利一原作、映画は共に井筒和幸監督)などに描かれたような、1960年代から70年代始めあたりまで都市部に確実にあり得たそのような「地元」ベースの若い衆のありようは、しかしその後急速に「地元」の変貌と共に「ヤクザ」と地続きにもなっていった。

*21:「地元」の人間関係、対立構造と、それらを統合してゆく媒介としての「野球」という表象のあり方。さらに、最後の場面近く、街=「地元」の衆がみんなその「野球」の場へ集まってきて応援するという表現も、佐藤紅緑『嗚呼、玉杯に花うけて』の浦和中学と黙々塾との野球試合のシークェンスとの二重写しになってゆく。もちろん、それら「地元」の声援、見守る視線を背景にした若い衆の躍動とそこに浮上してくる「地元」の統合の構造は、甲子園の高校野球を直接の媒介に、日本映画の黄金時代、敗戦直後から高度成長期に至るチャンバラ映画の系譜での、たとえば堀部安兵衛高田馬場に駆けつける時にみんなして追いかける長屋の衆の気分などとも、「読み」の場に応じて引き出され喚起されるものになっている。それはそのように「読む」ことを意識的にできるだけの背景をすでに持っている読み手にとってだけでなく、それらを意識できない知らない「読み」にとっても、何か定型から発される感動の質は切実なものとして感じられるようになっている。「悪人を退治するのは正義の主役だけれども、そのヒーローの為に馳せ参じて来る人間はゴマンといる――それが戦後の民主主義でした。戦後の民主主義というのはそういうものだったんだと、私なんかは今でも思っています。色んなものがワーッと喚声を上げて走って来る。その走って来る為に、色んなものがキチンと“色んなもの”として描き分けられている――一緒くたにする為に、ゴッタ煮の材料は豊富に用意されなければいけない、という訳でした。」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店 1986年 p.392

*22:「地元」は明らかに、そこにある。物語空間において厳然と存在している。個別具体の顔の見える「関係」を介して。異形であり異人であるような突出した存在=「王様」を中心にしてそれ自体としてはきれいに整えられた安定したあり方として。そして「野球」とは、これら「地元」の「河川敷」で行われるような草野球とは、そのような「地元」がまごうかたなく至高のもの、何か究極の大切なものであることを再確認、再認識させるための重要な媒介になっている。 思えば、あの『男がつらいよ』においてもまた、河川敷の風景は常に重要な役割を果たしていた。「遠く」が見えなくなった都会の風景の中で、最も手近に「遠く」を感得できる場所としての河川敷。それは天然自然の河川によってできたものでなく、明らかに人工的な護岸工事や整備事業を介して現出された風景であり、その限りで「戦後」の過程が明確に刻印されている場所でもあるのだが、しかしだからこそ、なのかも知れない。最も身近に整備され、護岸などの人工的な手当てによって危険も不安もある程度除去された「飼い慣らされた自然」としての河川敷、は、高度経済成長以降の「郊外」的風景を自明のものとして生まれ育った世代の生活感覚にとっては、しかしある原風景として濃密な意味を放つ表象へと転化してゆく。この直後、テレビドラマから映画へとふくらんでいった『木更津キャッツアイ』(ドラマは2002年 映画は2003年)のシリーズがある意味、この『江戸川キング』とパラレルな表現世界を現出していた。いずれも「千葉」という、「東京」とは違う首都圏の地名がイメージも含めて主要な存在感を示している。茨城の『下妻物語』(小説は2002年、映画は2004年など)、埼玉は『らき☆すた』(マンガは2004年より連載、アニメは2007年など)、と、このあたりから首都圏の「東京」以外、が文化表象の舞台として前景化してくる背景については、もう少し考察を深める必要がある。「郊外」とひとくくりに言ってしまえば言えるようなものだが、しかしその内実を落ち着いて自省してみるならば、それら「郊外」的日常を生きる意識の側がそれらを自分たちの日常ととらえての表現、というだけにとどまらず、そのような日常の表現にどのような〈リアル〉を「読み」とっているのか、すでに存分に語られ尽くし空中楼閣の如く君臨するかに思える「東京」=高度消費社会、の先端的日常のヴァーチャル性を相対化してゆくために、千葉であり埼玉であるような「郊外」=「地元」感、が無意識のうちに必要だったということになると思われる。

*23:個々の「ヤンキー」たちに対応する「親」は不在のまま。かろうじて終盤のクライマックス、試合が最も白熱するあたりでかつての錦軍団の一員とおぼしきひとり(「常磐」という名前も象徴的だが)がクルマで土手を通りかかり、「カミさんの実家に行くトコなんだけどよ、ひと目錦軍団を見せておきたくてなァ!」と説明しながら、指を骨折して退場、そこに居合わせた飛永に向かって錦たちの試合ぶりを羨ましげにほめる場面。最も電圧の高まっている「地元」の濃密さからの距離感を敢えて際だたせるかのように、ここでようやくそっと「家族」が顔を出す。しかも、赤ん坊を抱いた「カミさん」の、助手席から軽く会釈するだけの何とも素っ気なくも平凡な姿と共に。(図6)  

*24:この場では紙幅の関係もあり指摘にとどめるが、女性もまた、この物語空間においては定型としてしか働いていない。鈴を始めとした女性の登場人物たちは、ホモソーシャルな統合を幸福にも示しているこの「地元」のまとまりから決して外れることなく、それでいてその幸福を外側から相対化してゆく視線の発信源として、ヒロシとはまた別の、読み手の視線と重なる地点を示している。この問いはまた別の「読み」を引き出し得る。(図7)