「オトナ」の消失

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 若い衆が酒を呑まなくなった、と言われます。同じように、タバコを吸わなくなった、とも。

 統計類をざっと眺めてみても、タバコは確かに喫煙者人口自体激減していて、特に若い世代にそれが顕著なのですが、酒はとなると、実は全体の消費量がそれほど減っているわけでもない。ただ、その中身は変わってきています。

 かつてなら「酒」と言えばビールと日本酒、洋酒くらいだったのが、今世紀に入るあたりから日本酒も洋酒も軒並み後退、ビールも発泡酒含めて低調に推移して、代わりに焼酎やワインなど新しい酒類の比率が急に大きくなっている。酎ハイやカクテルの缶入り飲料、いわゆる「甘い酒」系が多数派になりつつある若い衆の呑み方を見ても、酒を「呑まなくなった」と言われるその内実には、単に量だけでなく、呑む酒の酒類や呑み方自体から変わってきて、かつての「呑む」との間にズレが生じてきている、という面もあるようです。

 「酒」と「タバコ」、共にある時期までは「オトナ」を手っ取り早く象徴してくれていた嗜好品ですが、単に世代の推移によって嗜好が変わってきたという以上に、早くオトナになりたい、というかつて「若者」一般にあったはずのココロの傾きもまた、相当あやしくなっています。「背伸びして」酒やタバコに手を出すのは、かつて中学生・高校生あたり10代のお約束、ある種の通過儀礼みたいなものでしたが、それももはや昔話。酒もタバコも、通過儀礼やそれに伴うアイテムとしての意味はすでに失われ、呑んだり吸ったりしようと思えばいつでもできるし別にそうしても構わない、その程度のフラットな単なる消費物としてのみ存在しているようです。

 とは言え、少し前の若い衆のように「オトナなんかになりたくない」とまで彼ら彼女らが積極的に主張するのかというと、そうでもない。何というか、その前提となる「オトナ」と「コドモ」の境界線自体がもう意識されなくなっているような印象です。オトナももちろんみっともないしくだらないと思うけど、今の若い自分たちだってもう「終わってる」し――そういう感覚が今もそしてこれから先も、ただのべたらにずっと繋がっている、そのようなあきらめや無力感と共に、おいそれと変えようのない流れに屠所に曳かれる羊のように身を任せている、そんな感じです。

 「オトナ」自体が、茫洋としたものになっているのでしょう。子どもたちや若い衆の雛型としての輪郭も、すでにとどめていません。子どもや若い衆の目線から見る姿はもとより、当の大人の側からしても。たとえば、一時期言われた「チョイ悪オヤジ」あたりから始まり、昨今の「美魔女」などに至るまで、40代や50代に見えない、といった煽り文句でそれらが持て囃される前提も、当の大人たちの間に年相応に老けて見られることを自ら拒否したい意識がすでに共有されているからでしょう。

 当然、乗り越えねばならぬ最も身近な障壁としての「親」も、また。すでにマンガやアニメ、ゲームなどの世界では、親や保護者にあたる存在はあらかじめきれいに消し去られている設定が多数派になっています。たとえ形象として大人が描かれていたとしても、それはちょっと姿かたちの違う同年代、みたいなもの。かつてわれわれが子どもの頃に否応無しに持っていたような、オトナに対する距離感や違和感、異物感はそこにはほぼ投影されていません。いきおい、親以下のオトナとの「関係」やそれに伴い浮かび上がってくるはずの家庭事情や背景なども、単なる書き割りや約束ごと以上にはなってこない。

 「頑固」で「偏屈」で「鈍重」で、どうやっても説得したりわかってもらったりできそうにない、でも同時に厳然と血の繋がった肉親でもあるからおいそれとは逃げられない、そんな不条理な煮詰まった関係の中でわれら日本人はああでもないこうでもないと悩み、葛藤し傷つき、何とかオトナに、そして「自分」になってゆく道筋をそれぞれ模索してきたはずなのですが、いつ頃からかそんな存在からして「なかったこと」にされてしまったらしい。乗り越えもせず戦って斃しもせずに、そうする必要すら感じることもないまま、ただそこにいるだけの存在としての「親」、あるいは「オトナ」一般。いまどきのもの言いならば、そう、「スルー」というやつ、それが一番近いのかも知れない。

 「スルー」とはしかし、残酷な対処です。視野にもきちんと入ってなければ、ことばと意味を介した認識も働いていない。昨今の「いじめ」がかつてのような積極的排除でなく、こういう「スルー」が前提になっていることとも、それはどこかで繋がっているはずです。オトナも若者も親も子も、もしかしたら男も女もなく、ただ互いに「スルー」しあうだけの社会。「無難」で「当たり障りない」関係を価値としてきた「豊かさ」のなれの果て、現実にはらまれるべき遠近感や距離感といったものを回復させるためには、習い性任せに「スルー」させないだけの異物感、違和感みたいなものを敢えてこちらから仕掛けて提示してゆくことも、必要になってきているように思います。