「ふわふわ」のリアル

 しばらく海外で働いていた知り合いが、何年かぶりに帰国しました。

 大学関係者というわけでもない、まずはカタギの会社員。それも一部上場の名のある大企業などでなく中小の、自ら一本どっこで渡ってゆくような働きを求められる環境で長らく世渡りしている男。単身の気楽さからか、赴任中もほとんど帰国せずに現地暮らしを謳歌していたようだったのですが、その分数年ぶりのニッポンの印象というのがまた格別だったようで開口一番、おい、ニッポン人ってみんな軒並みメンタルやられてないか? ときました。

 たとえばさ、彼の地でも昨今みんなスマートフォンを持っていて、空港でも待合室に座っていじってる。そのいじる姿は同じなんだけど、仮に声をかけたりすりゃじき反応が返ってくる。それも生身に備わったまごうかたない肉声で。だからスマホであれ何であれ、それらデバイスが「道具」としてそこにいる眼前の生身に制御されているってことがはっきりわかる、了解できる。けれども、今のニッポンじゃスマホをいじっている人に声をかけても反応が鈍い。いや、スローモーとかそういうことじゃなくて、声に気づいて顔あげて見せた時の表情からして何か薄紙貼ったようで、その次に返ってくる声もほんとに肉声じゃないような気がするんだ。そう、あのボーカロイドってのか、あんな感じ。いやいや、声の質とかそういうことじゃなくて、声やそのことばは確かに現実なんだけど、頼りないというかマジメに応答していいものやら、聞いたこちらがふとたじろいじまうような、そこにいる生身自体が端末なのか、と思っちまうような、声やことばの向こう側に何もリアルなものがない、生身を介した手触りの領域が察知できない、とにかく不思議な印象なんだよ。それが若いもんだけじゃなくオヤジもオバサンも基本同じなんだから。

 もう結構暑くなってるし湿気だって例によって高いのに、汗かいたり汚れたりもしてない。白いマスクまでしてる。あれは花粉症対策だって? いやあ、にしても数が多くないか。何かの制服の一部みたいだ。そうそう、制服って言えばびっくりしたのは警官だよ。いつからあんなに物腰低くなったんだ? 警官だけじゃない、通関のカウンターにいる役人だってことば遣いから態度、表情に至るまでマシュマロみたいにふわふわなんで、こりゃ何かのジョークかと思ってまわり見まわしちまったじゃないか。いつからこんなことになっちまったんだ、どういうことだよ、おい。


 確かに、言われるまでもなく昨今巷を行き交うわれら同胞の表情やその物腰、街中の混雑の中、互いに身を交わしてやりすごしてゆく際のそのちょっとした身振りや横顔にちらっと走る不快な気配、その場から離脱してゆく後ろ姿に意外な明快さで漂っているむかつき具合……そんないじけてちぢこまったココロのありようが発散されている印象はこちとら土着の身にも日々切実。いつの頃からか、「他人」という存在に対する、まるであらかじめ定められているかのような萎縮、自分以外の人間が存在していることそれ自体がストレスの源になってしまう感覚が薄く広く共有されているようです。だから、できるだけ「無難」にやり過ごす手立てが講じられて、それはあたかもあらかじめきちんと決められたマニュアルのごとく作動するようになっているらしい。と言って、ありがち言われがちな機械のような冷たさなどでもすでになく、先の彼の言のごとき「ふわふわ」な触感体感でくるまれながら淡々と、表面的にはソフトに柔らかく見てくれを整えながら。

 けれども、それが一見なめらかに見えている分、その背後に何かただならぬ抑圧、自分自身でもどうにもならないしこりのような領域がココロにわだかまるようになっている。老いも若きも、男女も問わず薄く広く「平等」に。

 声にできない、生身を介した肉声として自分以外の存在、眼の前にいる「他人」に対してすらキモチを表明することが難しくなっている。腹の底から声をことばを出してゆくという、人が関係を構築してゆく上での最も素朴な技術の衰退は、小さな声で早口で、口もと周辺せいぜい10?程度の範囲にしか届きようのない話し方でブラインドタッチのキーボード入力のようなリズムで繰り出される、そんな身振りに象徴されています。それは、容易に世界とつながることができると思えるようになった情報環境で、見えない「他人」たちとだけ効率的につながるための身振りと技術が知らない間に当の生身を逆に規定し始めている症状のひとつなのでしょう。外からの眼には「軒並みメンタルやられてる」と評されてしまう昨今のわれらのありようにもまた、自らことばにして省みる習慣からの疎外があるようです。