園遊会で天皇陛下に「直訴」した、山本太郎議員の行動が結構な論議を呼びました
反原発運動に奔走する界隈に祭り上げられ、うっかり衆院議員にまでなってしまった、いわば神輿なのはいまさら言うまでもないですが、それにしてもその唐突な行動にはあたしも少々驚かされました。天皇陛下に「直訴」する、そうすることで何とか自分の想いや主義主張が一気に何か現実とクラッチミートを始めるかも知れない、といった感覚や発想が未だに、それも彼のような人の中に宿っていたということについての驚きです。
法律がどうの、規則がどうの、といったことはひとまずどうでもいい。いや、どうでもいいと言ってしまえば語弊がありますが、それはそれで専門家や実務家の間で処理してもらえばいいだけのこと。彼と彼の取り巻きがそもそも何を意図して、どういう目算であんなことをしでかしたのか、まずはその一点が気になっています。
素朴に考えてまず、自分の想いや主義主張を聞き届けてもらう、そのことがひとまず目的だったのでしょう。しかし、その結果何か自分の主義主張や自分も含めた仲間や同志にとって、今より望ましい状況が作ってもらえるかどうか、具体的な展望や確信の類があらかじめ彼の、そして彼を神輿として担ぐ人々の中にあったとは思えない。「直訴」して目立つ、そのこと自体で世間の耳目を集める、そのための選択肢のひとつ、だったに過ぎないはずです、たとえ天皇や皇室が相手の行動であったとしても。
ことが騒動になり始めたあたりでまわりがちらほら言っていたら、山本太郎は馬鹿なんです、と自ら言い放ち始めもしました。その場合の「馬鹿」も、ああ、かつての森の石松、「馬鹿は死ななきゃなおらない」に象徴されるような近代ニッポンのリーダーシップのありようを最も濃縮させて表現するもの言いとしての「馬鹿」丸出しそのまんま、だったりします。
敢えて「馬鹿」をやる、そういう感覚はかつての2.26事件の青年将校たちにもありました。でもそれを誰かがやらないと現実は良い方向に向かわない、そのために損得度外視、いやそれどころか自分の身の保全なども一切顧みず、それこそ「一死を賭して」行動に赴く。そういう生身ののっぴきならぬ気配があって初めて、それを取り巻く世間一般の意識や感覚にも、いくばくかの同情や共感、相通じる気持ちが宿ったりもする。
けれども、そのような緊張感、わが身ひとつに引き受けようとする構えもまた、彼の行動には残念ながらあきれるほど希薄なものでした。
かつては、天聴に達する、というもの言いもありました。
よく知られるようになったのは、「蹶起の趣旨は天聴に達せられあり」――2.26事件の直後、当時の陸軍大臣によって出された説諭の冒頭、第一発目に記されていたものからでしょうか。天皇陛下の耳にもおまえたちのやったことは達したんだぞ、ということがそんなに意味のあることだったのか。耳に達してもただそれだけ、聞き置く、という以上でも以下でもないことは往々にしてあるわけで、記録にも残ってないのならなかったことにもされるのが世の倣い、耳に達したその結果がどうなるのかについての話は何ひとつこのもの言いでは明かにならないのにも関わらず。
悪いようにはしない――おそらくはそんな常套句もまた透かし見られることを当て込んでのもの言いであることは明らかでしょう。しかしこれまた奇妙なもの言いです。具体的に何をどうしてくれるのか、またも何ひとつ明らかにされていない。要は黙ってここは言う通りにしてくれ、これ以上暴れないでくれ、そうすれば君たちの立場を十分考慮するから、そういうことかと。
やむにやまれぬ思いをもてあまし、本来ならばやってはならないことなのだが、他に手立ては考えられないから敢えて約束ごとを破る、それだけの覚悟なり腹のくくり方なりを、かの山本太郎議員がしていたとはとても思えません。形式も単なる私信、お手紙に過ぎないわけで、だったら何も園遊会の席上、テレビカメラ以下、あまたマスメディアの視線画集中している中で生身の行為としてやらずとも別によかったかも知れないわけで、一死を賭して、といった切羽詰まり方などすでに想定すらされず、だからこそその「天皇」もまたその自らの一死と見合うだけの重さにもならず、要は、センセイに言いつけてやる、ってことなんでないかとさえ思ってしまう。
寡聞にして知らなかったのですが、これまでもこういう「請願」は行われてきているようで、主に左翼系市民運動な人がたの一部が手続きに沿ってやってきたようです。
ただそれにしても、それらが実際にどのような「効果」を想定してのことなのか。ここでもやはり、天皇に請願を出した、そのこと自体をメディアに流して報道してもらうことが主眼なのでしょう。政治的な実効性があらかじめ遮断されている状況での「請願」「直訴」など、市井の私人はいざ知らず、何らかの立場なり主義主張なりを唱える組織や徒党が看板掲げて敢えてそれをするのは、そこまでやっている、ということの効果しか眼中にないでしょうし、そこには「わかってもらえている」という安心ないしは甘え。天聴に達することなど予めはばかるような意識、はすでになく、聞こえているは即、わかってもらえている、につながる横着と頽廃だけが現前しています。天皇や皇室という存在、いまや学校の担任、クラブ活動の顧問あたりとせいぜい地続き程度の認識の水準に「民主化」されちまっているらしい。是非を論じるより前に、まずこのことを静かに眼前の事実として認識しようとすることから、われわれは思い知ることが必要なのだと思います。