「鎖国」ノススメ

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 「鎖国」というと、いまどき何を、という顔をされます。怪訝な顔ならまだしも、時には時代錯誤のヘンな人間と決めつけられることも。

 なるほど、多くの人がたが学校で、歴史の授業を介して習ってきた「鎖国」というもの言いには、江戸時代の閉鎖性、広い世界に対して眼を閉じてきたまさに「封建制度」の最たるもの。それが明治維新によって一気に光が射してきてめでたく文明開化に、といったものの見方や価値観が刷り込まれているのが大方で、とにかく頑迷固陋、閉じた狭い世間に凝り固まっていたかつての古い日本、今から見れば「遅れていた」むかしの象徴としてイメージづけられているようです。近年言われているあの「ガラパゴス」といったもの言いにしても、どこかでこの「鎖国」と重ね合わされ自明にネガティヴ、理屈以前にとにかくよくないことだ、というイメージになっている印象もあります。そういう意味では、単なる歴史用語というだけでなく、言わば日本の世間の水準での「進化論」的歴史観や価値観、世の中は放って置いても直線的に一方的に良くなってゆくという民間信仰めいたものにも関わっている、結構根の深いもの言いになっているところもあります。

 もちろん、いまの時点で当時のような政策として、国の外交方針として「鎖国」する、つまり外国とのつきあいを基本的に謝絶するということが現実問題として可能かどうか、いくら素人の思いつきとてそんなもの一顧だにされないのも無理はありません。その程度に現在の国際社会、グローバル化というもの言いすらすでに生やさしい経済と流通、貿易をめぐる環境はそれぞれの国を互いにがんじがらめに抜き差しならぬ関係に置いてしまうようになって、すでに久しいらしい。そんなの無理じゃん、という時点で一刀両断、なおのことこの「鎖国」は今日、まともに省みられることすらない気の毒な立場に追いやられているようです。


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 けれども、ならばひとりひとり、個人のレベルにおいてはどうでしょう。「鎖国」はある種の思考実験、このようなグローバル化の現在を顔上げて生きてゆく上でのココロの稽古として、未だ十分可能なのではないか。少なくとも、日々当たり前に見えて推移してゆくこの身のまわりの現実に対する「立ち止まって考える」足場のひとつとしては、なお。

 たとえば近年、街なかの看板や案内板の表記に、従来の英語ローマ字と共にハングルや簡体字の中国語が併記されるケースが少しずつ、眼につくようになってきました。特に公共交通機関、海外との玄関口になる空港もさることながら、政令指定都市レベルのマチの私鉄やバスの行き先表示に、その駅やバス停の表示、観光スポットの周辺の案内板などに、それらこれまで見慣れなかった外国語が入り交じるようになってきている。

 それらは普通、特にひっかかることなく見過ごされています。おそらく「ああ、これも国際化の時代、ひとつの流れなんだな」程度の認識で、それ以上深く意識したり考えたりしないのが大方の世間、ということなんでしょう。確かに、外国人観光客は増えてるそうだし、少し先にはまたオリンピックだって開催されることに決まったんだし、何よりほら、観光立国だって政府もこのごろ言ってるみたいだし。立派に経済成長してずいぶんおカネ持ちらしい中国や韓国の人たちだって買物含めてしょっちゅう日本に来てるじゃない。おカネ落としてくれるんならそりゃこのご時世、ありがたいお客サマなわけで、だったら英語以外に彼らの便利を少しははかったっていいんじゃない?――「国際化」というもの言いでひとくくりにされる気分というのは、そういう意味ではある種の判断停止、「戦後」の過程でほぼ自明の正義、いやそこまで鋭角に言わずとももっとゆるく漠然とした「いいこと」として、われらニッポンの世間にもう長年仕込まれてきているもののようです。

 その「世界」の中身が多くの場合欧米であり、事実上ほぼアメリカに限定されてきたイメージの偏りというのは言うまでもない。「世界」から欧米以外を、特に足もとのアジアを捨象してきた、そういう経緯もまた、是非の判断以前に世間の気分としても事実です。敗戦後、街なかの標識などに一気に英語が書き込まれるようになった、それは占領下の施政の必然でしたが、その風景に抱く違和感も当時の世間の気分には確実にあったし、そこに「敗戦国」「占領下」の現実を痛切に思い知らされる感覚も、それと明確に表現されない/できない水準も含めて伴っていました。

 なのに昨今、にわかに眼につき始めたはずのこの街なかのハングルや簡体字表記に対する違和感は、どうやらいまの世間には宿りにくくなっているらしい。多少「あれ?」と思ってもそれ以上にはならず、時代の流れ、ご時世だよね、程度で日々にとりまぎれさせてしまう程度。何のことはない、かつての敗戦後占領下よりもさらに後退しているんじゃないでしょうか。

 いま、敢えて「鎖国」がココロの稽古として必要であり、有効だと思うのは、そのように「日本」という輪郭をこのとりとめない漠然とした状況で自ら省み、確認してゆくための足場として、です。異物は異物であり、違和感は違和感である、善悪や理屈以前のそういう感覚が未だわれらの裡に確かにある、そのことをまず自覚してゆくことを自ら仕掛けようとしないことには、かけ声ばかり大きくなってゆく「国際化」だの「グローバル化」だのも、たかだかそんな「日本」に見合った程度のいい加減な、身につかぬ代物であり続けることでしょう。