「挫折」と「敗者」――「北の人」山口昌男のこと

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 薄く霜がおりたようなフロントグラスに、はじける朝の陽がまぶしかった。くたびれた商用バン、使い込んだディーゼルエンジン特有のあのゴロゴロ音とすすけた排気ガス臭が、見渡す限り真っ白な冬の雪原に似合っていた。

 とりあえず除雪だけされた黒い帯のような片側一車線。30代そこそことおぼしき地元のアンちゃんに送ってもらう途中のこと。山口昌男の亡くなったことを話題にしてみた。 

 「ああ、そうらしいですねえ」

 舗装の凍ったソロバン道路。後部座席で書類が飛び跳ねるのを少し気にしながら、彼はそう言った。

 「有名な学者さんですよね。ここで生まれたってことは知ってますけど」

それ以上、話は続かなかった。


 3月16日、告別式の日、道北は美幌町。たまたま、地元の教育委員会から講演を頼まれていた。地元の若い衆も交えての歓談も無事にすませて宿に荷を解き、ぶらり散歩に出かける途中で初めて、あれ、と気がついた。確か山口さんって、このへんの生まれじゃなかったっけか。

 正確には覚えてなかったのだ。何となく北見のあたり、ぐらいの認識でそれ以上ではなかった。道北ではちょっとした都市、北見から峠を東南に越えたところの小さな町、美幌。そうだった、間違いない、山口昌男の生れ故郷なんだ、ここは。

 亡くなったことを知り、告別式の日程も耳に入り、出向こうかどうか逡巡していた。なにせカタギの学者渡世から出奔して野良のまんまで10年以上、今は縁あって北海道におみこし落ち着けてはいるが、その間学会だの何だののつきあいからは身を遠ざけて久しいし、何よりいくら世話になったとは言え天下の大物の告別式、いずれ片隅に紛れて名残り惜しむのが分際にせよ、会場にはあんな人こんな御仁が佃煮にするほどひしめきあうのは必定、今更いらぬ気遣いさせるのも本意じゃないし。なので、講演を頼まれたのを幸い、思い切ることにしたのだ。

 でも、そうか、呼んでくれたんだ。おまえは今そっちにいるんだからそっちで送ってくれりゃいいよ――おそらくはそんな感じで、この美幌に。


 「北の人」だった。世間はそう意識もしてなかっただろうけれども、晩年の山口昌男はその北海道生まれ、「北の人」由来の資質を気兼ねなく全開、無邪気に放散していた。遠目にはそう見えた。
 
 あれはどこに載った何という文章だったか、わざわざ掘り返すのも野暮なのでしてもいないが、どうやら僕はたいした人類学者にもなれなかったらしい――そんな意味の一節がどこかで眼にとまった。とまって、その一節だけが何か重さの違う物質のように心の底に沈んでいった。ああ、やっぱりそういう感慨をどこかで抱いてたんだなあ、と。

 実は、山口昌男的な風貌のオヤジやジイさまは、北海道に結構いる。そこらの町、たまさか行き会う界隈で、どこか不機嫌そうな顔でまるく着ぶくれ買い物袋でもぶらさげて歩いていたりする。うまく言えないのだが、身にしみついた屈託の仕方と眼前の現実に対する不器用な腹のくくり方、そんなところにどこか通じるものを感じるのだ。

 あと、何よりもその眼。眼つきと、その向こうにくぐもっている「孤独」のありよう。晩年特に眠ったような眼つきになってたけれども、それだけその持ち前の「孤独」、拭い難い「北の人」ぶりは知らず深まってたんだと思っている。

 晩年の大著の書名にカッコつきで配して見せたあの「挫折」と「敗者」。どうしてあのような言葉、もの言いで敢えて見栄切ってみせたのか。そのことについて真正面から感応した知性は知る限りない。それなりに想いを込めていたはずの「歴史人類学」という標榜にも、それに見合った誠実さと共に受け止めようという動きもない。晩年の山口昌男はそのような意味で、孤独な「北の人」の相貌を素直に露わにしていた。

 大文字の権威が嫌いで、嫌いなだけでなくじきに反抗してみたくなるやんちゃ気質で、でも本当のところはそのような権威に正統に深く敬意を抱き、またものすごく憧れてもいた。引け目と抑圧の大きさと、でもその大きさに見合って裏返しにはらまれる灼けつくような渇望との相剋。鳴り物入りで迎えられた札幌の学長職も最後は石もて追われるように辞めざるを得なかった経緯などは、ニッポンの「知」(思えば、このもの言いも山口さんが広めたようなもんだ)の辺境に煮凝っていた邪悪なものの仕打ちとしか思えなかった。最後の最後まで彼の名前と共に取り沙汰された「中心/周縁」理論で言えば、「トリックスター」を自任し、求められる限りは精一杯踊ってみせ続けた言わばプロフェッショナルの「周縁」が、結局は自らの出自来歴にからみつく土着の「周縁」の邪悪さ、偏狭さに殺された形になった。「挫折」と「敗者」――最後の最後にやはりそのような言葉に重心かけざるを得なかったその「孤独」は、そういう意味でも正しく「北の人」のものだったのだと思う。

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 とは言え、山口昌男山口昌男になってゆく過程には、また違った相貌もあった。

 30年ほど前、関東地区の人類学の修士論文発表会というのがあった。今もやってるのかどうかは知らない。まだ、文化人類学民族学と言って通ってた頃だ。勧進元は長島信弘と山口昌男。関東地区の学会の担当理事だったはずだ。人類学でも民俗学でもいいから修論書いたやつはとにかく出てこい、とお触れが回ってきたのでノコノコ出かけた。右も左もわからぬまま言いたいことを好き勝手にしゃべったら、懇親会だか打ち上げだかで好き放題にいじられた。院生作法な型通りのお行儀良さがすでに通例化していた中で、ただでさえトロくてデキが悪いと定評の民俗学ムラ、しかも大方眼中にもなかった成城なんて辺境からムダに元気だけはあるらしい得体の知れないバカが飛び出した。そんなバカを全身でおもしろがってくれるどころか、いいぞもっとやれ、どんどんやれ、と背中叩いて煽ってすらくれる、そんなヘンなオトナたちのひとりとして山口昌男はまず目の前に姿を現わした。

 名前はすでに知っていた。有名になり始めていたし、それより何より大学院の指導教官だった野口武徳さんとは兄弟分のような関係だった。沖縄は糸満漁民などが専門の社会人類学者で民俗学者。山口さんと同じ都立大の社会人類学教室出身という縁で、ゼミや研究室などで、山口昌男の話はよく聞かされていた。

 東大の、それも国史からわざわざ都立の人類学にやってきた妙な奴。分厚いメガネをかけて本ばかり読んでいて、当時流行っていた点鼻薬の広告、三遊亭歌奴のキャラクターに似てるので「ミナトシキ」と仇名されていたこと。*1 教室のボスだった岡正雄に、山口は現地調査に慣れてないからおまえらいっちょ連れてってもんでやれ、と言われて米軍施政下の沖縄に一緒に赴いたこと。那覇は波の上の行きつけの呑み屋で、酔ったGIとオンナのコの取り合いになり、すでに助手だった村武精一を先に逃がして、いずれ後にひとかどの人類学者として名をなした人がた、でも当時は名無しの院生でしかない若い衆が身体を張って応戦したこと、などなど、血湧き肉躍る武勇伝がお約束。そう、そんな武勇伝の中の登場人物として、山口昌男のことは耳から聞き知っていたのだ。

 ならば、活字経由の山口昌男は、というと申し訳ない、これも世間一般とはまるで場違い、喧嘩屋ヤマグチ、のカッコ良さからだった。今から半世紀も前、柳田國男が亡くなった直後に切った「柳田に弟子なし」のタンカのあのはちきれんばかりの向こう意気。「ある民俗学徒への手紙」という副題の通り、手紙形式で文中語りかける相手として想定されている当時同年代、30代の民俗学徒というのは他でもない野口さんだったはずだ。その後も本多勝一吉本隆明とまるで辻斬りのように当時の権威に臆せずつっかかってゆき、京都を中心とした「西」の人類学/民族学界隈に対する違和感や距離感、制度としての文化人類学がどのように高度成長状況に巻き込まれつつあるのかについての敏感な反応……などなど、いずれ八面六臂それらの筆致は、そこらの学者だのとはまるで違っていた。だからこそ惹かれたし、しびれもした。通り一遍の経歴や業績などよりそういう売文渡世、ジャーナリズムとの接点で闊達に踊る山口昌男こそが、何より魅力だったのだ。


 野口さんは大酒呑みで糖尿持ちで、そこに舌癌を発症して下顎を取り去る大手術の末、闘病むなしく50代前半の若さで亡くなった。弔辞を読んだのが山口さん。その葬儀のあと、飼い主なくしたバカに向かって御大、こう宣った。

 「言わば親戚のおじさんみたいなもんなんだから、いつでも遊びに来い」

 バカだから真に受けた。まだ巣鴨のはずれにあった外語大にノコノコ出かけた。すでに有名人になりつつあったご本尊は滅多に巣にいなかったけれども、部屋は多く開けっ放し、出入りしていいと言われてたのでこれまた真に受けて書棚の本をどんどんめくった。

 研究会にも顔を出した。中村雄二郎磯崎新や、後の『へるめす』に名を連ねるようなエラい方々も気さくに顔を出していた。中沢新一もいた。栗本慎一郎も来た。上野千鶴子が紫のベレーかぶってあご突き出し、西ヶ原四丁目の都電の停留所からカツカツカツと足音高く響かせ通ってきてた。シカゴ大学だかから戻ったばかりという触れ込みだった。いずれそういう綺羅星のごときオトナの集まり、当時のAA研の大きな会議室の隅っこに控えながら、型通りの報告だの質疑応答だのとはまるで違うラフで気楽でゆるやかな、でも確実にある種の興奮、わくわく感を宿してくれる「場」にバカは初めて遭遇した。ああ、こういう「自由」ってありなんだ――「自由」がガクモンと共にあり得ることを、バカならではの厚かましさと引き替えに、ありがたくも思い知らせてもらった、そう思っている。

 
 「挫折」の昭和史、が出た時、まず買った。一気に読んだ。興奮した。なんとこりゃ見事なまでに馬力一発、目方でドン、の仕事だと思った。あらかじめ十分に練られ設計された仕事とは思えなかった。誤解なきよう。ほめ言葉だ。功成り名を遂げた、少なくとも世間一般からはそう見られていた知性が老境にさしかかる時になお、こういう伝法な弾け方、客気あふれる若い衆のようなやんちゃぷりを臆面なく朗々と晒してみせることができる、その男前と心意気にまず感じたのだ。やるじゃん、やっぱり最前線じゃん、山口昌男、と。

 だから、札幌の大学の学長にすでに納まっていたのを、例によっての野戦仕事のついでにふらりと大学に訪ねてみた。まだできて間もなかったあのわかりにくい地下の山口文庫に顔を出し、ついに本性表しましたね、本卦還りですか、みたいなことを言った。それに対してご本尊、ボクはもともとこういう歴史屋だったんだよ、とだけ言って、あとはニヤニヤしていた。十分だ。我が意を得たりで黙って受け流して、あとはまだ整理の不十分だった文庫の乱雑な書棚に見入った。これってそこらの人じゃ一体何したいんだかよくわからんと思いますよ、そもそもどうしてこんな本が……あれこれ手にとりながらやりとりして、ほら、おもしろいだろ、これもいいだろ、としばらく同じ雑書趣味、古書おたく丸出しの時間を少しだけ共にできたのは、脳出血で倒れる前のことだっただけに貴重な体験だった。

 山口さんが眼をかけて可愛がって、自他共にそう見られ、認められていたような人がたが軒並みそばを去ってゆく、事情は知らず遠目にはそうとしか見えないような事態が当時、相次いでいた。もともと恵まれた環境で育った選ばれし者が敢えてやらかすやんちゃ、身の丈じゃ本当はそんなのが好みなんだな、というのは前から知っていた。そのへんがどこかで弱みにならなきゃいいな、とも僭越ながら感じていた。だから、ああ、やっぱり人を見る眼があるようで肝心なところ、いざ懐に飛び込ませちまうあたりでしくじっちまうんだな、そう思った。

 でも、器量の大きな存在ってのもいつもそんなもの、うっかり近寄った日にゃその強大無比な引力圏に巻き込まれて粉々にされちまうのが関の山。根っからの外道の捨て育ちゆえに、遠望していたがゆえにうっかり見えちまうもうひとつの全体像、肝心カナメのところもあるってもんだ。


 改めて、凍てついた人通りのない美幌の町並みを眺めながら、同じこの町のかつてのありよう、山口昌男が生まれた頃のたたずまいを精一杯、想像する。昭和11年にここに生まれた和菓子職人の息子が、『のらくろ』に遠く憧れ、書物の世界に魅了されていった、その経緯に確実にはらまれていったはずの微細な屈託、人知れぬ抑圧……そんなもののとりとめなさを思い、今更ながら茫然とする。

 先年亡くなった朝倉喬司さんたちが勧進元錦糸町河内音頭にもよく姿を現わしていた。不器用に踊りの輪に入り、明らかにまわりと違う振りで懸命に踊ってみせる姿をみんな微笑ましく眺めていた。けれども、そこまで自ら身体を張る、張ってみせて眼前の「場」に飛び込んでゆくことを自らに課している、そういう「孤独」の気配に、その頃は誰もうまく気づいていなかったんだと思う。そして、おそらくはその後も概ねずっと。

 だから、心に決めた。大看板に描かれる「有名で偉い学者」だった山口昌男は、もうきれいに忘れよう。海外のあんな学者こんな知識人と縦横無尽に交流する「中心と周縁」理論の山口昌男などどうでもいい。そんな山口昌男は誰か他の人がいくらでもうっとりと語るだろうし、世間の最大公約数にも概ねそのように伝えられてゆくのだろう。それはそれ、いつの時代も表舞台の大看板なんざそんなもの。勝手にしやがれ、だ。バカにはバカの目線から像を結んだ、結果的にいい距離感いい敬意と共に遠望していた山口昌男だけが最も切実でのっぴきならない山口昌男、なのだからして。

 おそらくは確実にある衰退の過程をたどり始めていた日本語環境出自の人文学の世界をさまざまに闊達に思うがままに遍歴、自ら鼓舞してみせながら、でもやはり最後は雀百まで、ちいさな言葉、ささやかな活字でつむがれる「歴史」に戻ってきて雑書三昧、あげく「歴史人類学」とぼそっとつぶやくように標榜、「挫折」と「敗北」に全体重をかけた仕事を紙の上に置いて見せた、そんな「北の人」としての「孤独」のありよう、それこそがいま、手もとに残っているいちばん確かな感触。

 だから、もちろん弟子なんかいない。いるわきゃない。いや、いてたまるもんか。あるとすれば、残された活字を介した「読み」と、そんな「読み」に密かに宿ってゆくはずの、時間も空間も越えた無名の「自由」の連帯、それだけだ。それだけが山口昌男の残してゆける最も確かな「仕事」。それで十分、そう思う。


 

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