「ブラック企業」と「宗教」

 最近、こんなことがありました。

 ゼミの学生、いまどきのこととてデキはよろしくないけれども、まあ真面目で、ちと堅すぎるくらいもの堅い性格の男の子、仲間とのつきあいすらぎくしゃくするようなところのままある、まあ、いわゆる「コミュ障」と昨今言われるような部類の御仁。そんな彼がこのご時世、厳しい就職戦線を何とか突破し、昨今「ブラック企業」の代表と世上取りざたされている某外食産業にこの春、就職しました。首都圏に配属されたと聞いていたので、同じく東京近辺に就職したゼミの仲間に、機会があったらそれとなく様子を教えてくれ、と言っていたところ、先日連絡をとりあってちょっと呑んだという若い衆から連絡がありました。

 「いやあ、びっくりしました」というのがその第一声。

 「あいつ、まともになってましたよ」。

 最初は新人研修、それもああいう会社なもんで例の「地獄の特訓」系の厳しいのを一ヶ月ばかりやられて、その後現場の店に配属されたそうなんですが、あいつが、ゼミで数年つきあった自分たちでさえも時に手を焼くくらい「コミュ障」で空気読めなくて、正直つきあい考えさせてもらおうと思うようなこともたびたびだった、あのあいつが、ですよ。なんと、ちゃんとこっちに気を遣えるようになってたんですよ。

 その報告をくれた彼もまた、似たような外食サービス系の会社で働いているのですが、悪いけどあいつが外食で、それも有名な「ブラック企業」で勤まるとは思ってなかった。じきに辞めちまうんじゃないかと心配してたんだけれども、いやあセンセ、たかだか数ヶ月でニンゲンあんなに変わるもんなんですねえ、と眼を丸くしている。

 「ブラック企業」と呼ばれる、その理由や中身の真偽については、ひとまず措いておきましょう。形態はどのようなものであれ、曲がりなりにも企業としてビジネスを展開し、それなりの実績をあげてきているには、善し悪し別にしてそれなりのノウハウ、人をとにかくちゃんと働かせてゆくための「場」も「関係」もやはり確立してきている、ということなのでしょう。考えてみれば当たり前のことですが、しかし、そのノウハウ自体の是非にばかりいまどきの世間は眼を向けるばかりで、なぜそのようなノウハウが現実に蓄積されるようになってきたのか、という部分はなかなか意識されないまま。まして、それらを前提に実際の商売が回ってゆく、厳しく言えば回って行かざるを得ない現実もまた、同時代の眼前の事実としてあり得るのか、そのような留保も含めた自省や考察はなおのこと、うまくできないまま推移しているように思えます。

 彼がこの先、うまく勤め続けることができるかどうか、それはわかりませんし、また別の問題です。ただ、世間に「ブラック企業」だと後ろ指さされ、メディアも含めた一方的な世情のバッシングを受けるようになっている仕事の現場で、ならばどうしてそのような「場」と「関係」のありよう、そこに向けていまどきの若い衆を働けるようにしてゆくためのノウハウが蓄積されてきているのか、というあたりの〈リアル〉は「ブラック企業」という大きな言葉の大合唱の中からはおそらく抜け落ちたまま、考慮されないものになっています。

 こういう片手落ち、最低限穏やかに言っても偏りのあるものの見方が一般的になってゆく仕組みは、たとえばいわゆる「宗教」に対する視線や感覚とも、どこかで通底するものがあるようにあたしなどは感じるのですが、さて、どんなものでしょうか。