浮上してきた、もうひとつの「宗教」問題

 一に体力、二に好奇心、三に自分と他人の区別がつくこと、四に信心。仏になるための条件だそうです。あたしが言ってんじゃない、ある宗派の坊さまがそうおっしゃってたんですが。

 これ、最初に信心がきちゃうとまずいんだそうで。なぜか。最初に信心ありきの人は往々にしてヘン人になっちまうし、その分、あたり構わず布教してまわったりする。そもそも自分から仏になりたいなんて思うのは世の大勢からすればヘンな人に決まってるんだけれども、そんなヘンな人が本来の目的ほったらかしに勝手にまわりを巻き込んでヘンな自分と他人を一緒にしようとするんでいけない、と。

 これ、ものすごく腑に落ちます。何も仏教とか何とかじゃなく、宗教一般どころでもなく、だからこそ本当の意味での「宗教」の問題に関わってくるのかも知れませんが、まあ、とにかく何にせよそういう現象ってのは身のまわりに割と当たり前に転がってるよなあ、という意味でしみじみと。

 たとえば、年明けこのかたニュース報道その他、メディアを席巻したISISの日本人人質事件。事件そのものは残念ながら最悪の結末になりましたが、そこでも同じ「信心」最初にありきの人がたによる「宗教」の問題が同時代の国民同胞の眼前にはっきりとわかりやすく提示されました。

 ああ、あの狂信的なイスラムの人がたのこと? いや、あの遠い国の狂信集団もさることながら、何がどうあっても時の政権批判、内閣打倒という自分たちの「主義」「信心」を実現するためのダシとしてしか解釈しない一群の同胞というのが、メディアの現場とうまく同調してわれわれ世間一般の視線の前に異物として、役に立つ見世物としてくっきりと現れた、そのことです。他でもないわれわれ自身にとって人ごとならざる当事者として対処してゆかねばならない眼前の事象として。

 思えば、「イデオロギー」というもの言いも最近はあまり使われなくなりました。でも、そういう「思想」だの「主義」だのが人を動かす重要なカギになっていた時代が、少し前まで当たり前にわれわれの日常でした。それは、おいそれと口にしないまでも、「信心」と置き換えても構わないようなものだった。その意味で「イデオロギー」「思想」「主義」は現れとして「宗教」と限りなく重なってくる――それは多くの世間が肌身で感じていたことのはずですが、はっきりそう言葉にしてよいものではなかった。「政治」と「宗教」がらみのことはうっかり口にするものじゃない――日本語環境における「宗教」というもの言いにまつわって分厚く堆積してきた不自由は、実にそのような世間知、世渡りの知恵の成り立ちにもこってりと反映されています。

 けれども昨今、そういう「信心」を前提とした「宗教」としての「イデオロギー」「思想」「主義」沙汰というのは、以前に比べればはるかにうっかりとむき出しの形で世間の眼前に放り出されるようになってきている。それぞれはよかれと思い、そしてまただからこそ自分たち以外に「布教」しようと懸命になって「運動」その他で、自身の「信心」を普遍にしようとしてゆく一群の人がた。「信心」の範囲でそれは「善意」ではあるらしいにせよ、でもだからこそ世間一般の視線からは異物としてはっきりと。

 いわゆる大文字の、国際的間尺での宗教問題が期せずしてあぶり出してしまった、こちらの国内事情における見えざる「宗教」問題。「政治」と「宗教」とは「信心」「イデオロギー」「思想」を媒介にして実は同じ現実の別の側面だったりするという、少し前まで表沙汰にされてこなかった〈リアル〉が今やうっかりと世間の視線の前に浮上してきてしまっていること。実際に宗教の場に日々関わり、仕事にしている人がたの間ではさて、どれくらいこの事態ののっぴきならなさが気づかれているのか。機会があれば、ゆっくり話をうかがってみたいと思っています。